住職の打った蕎麦は、石臼《いしうす》で丹念に引いた蕎麦粉を使ったという本格的なもので、その腰の強さといい、香りといい、色艶《いろつや》といい、まさに玄人《くろうと》はだしの絶品だった。
二十六年前、ちょうど今の日登美くらいの年頃だった徹三も、ここでこの蕎麦を食べたのかと思うと、日登美は胸が熱くなった。
蕎麦に舌鼓を打ったあと、住職の妻から、「お子さまたちに差し上げてください」と手渡された手製の蕎麦団子の包みを持って、日登美は日の本寺を後にした。
神家の住居に戻り、団子を渡そうと郁馬たちの姿を探したがどこにも見えない。また耀子のところにでも集まっているのではないかと思い、部屋に行ってみることにした。
部屋の前まで来て、襖越《ふすまご》しに声をかけようとすると、中から、耀子の声が聞こえてきた。
「……あなたは、あの人にまだ何も話してないのでしょう? 肝心なことは何も……」
耀子の声は少し激したようにかん高くなっていた。
誰かいるようだ。耀子の口調からすると、子供たちではないらしい。
日登美は思わず足をとめた。
立ち聞きする気はなかったのだが、なんとなく声をかけそびれていると、再び、耀子の声がした。
「おかしいと思ったのです。あの人が何もかも承知の上で、この村に帰ってくるなんて……。外の世界で育った人が、この村のことを理解できるはずがない。あの人は何も知らないのね。ここの祭りがどういうものか。その祭りで、日女《ひるめ》が何をするのか。何も知らないで帰ってきたのね……」
耀子が一方的にしゃべっているだけで、相手の声は全く聞こえてこない。
日登美は、声をかけることも、その場から立ち去ることもできず、根が生えたように廊下に立ち尽くしているだけだった。
耀子の話している「あの人」というのが自分のことのように思えてきたのだ。
「……あなたはご自分が何をしているのか分かってらっしゃるの? あの人はあなたの妹なのよ? その妹にあなたはよくもこんなひどいことを……」
「耀子様」
冷ややかな男の声がした。聖二の声だった。「すべては大日女様のお言葉より出たことなのです。大日女様のお言葉は、そのまま大神のお心でもあります」
「大神というより……あなたの意志ではないの?」
「僕の意志? それはどういう意味です?」
聖二の声があざ笑うような響きをもった。
「日登美様のご家族があのような形で亡くなられたのも、あなたがご病気になられたのも、真帆様が一夜日女の資格を失ったことも、すべて、僕の意志だというのですか?」
「…………」
「あいにく、僕にはそんな力はありませんよ。もし、そんな力を持っているとしたら、それは大神だけです。すべては大神の意志なのです。お心なのです。大神が日登美様と春菜様を求めていらっしゃるのです。大神は緋佐子様をまだ許してはおられない。日登美様と春菜様が緋佐子様の犯した罪を償うことでしか、大神の怒りを鎮めることはできないのです」
「……あの方を許していないのは、大神ではなくて、あなたではないの?」
「…………」
「聖二さん。あなたは今もなお、ご自分を捨てた緋佐子様を憎んでいらっしゃる。だから、日登美様のことも……」
「馬鹿な」
聖二は吐き捨てるように言った。
「どうして僕が母を憎まなければならないのです? もし、僕が母にある感情を抱いているとすれば、それは軽蔑《けいべつ》という感情だけです。日女としての使命も誇りも捨てた女など軽蔑にも値しないくらいだ」
冷静だった聖二の声にやや激したものが混じった。
「それに、さきほど、あなたは妹にひどいことをするとおっしゃったが、ひどいこととはどういうことです? 大神へのご奉仕がひどいことなのですか? 日女であるあなたの口から出た言葉とも思われませんが」
「わたしなら……大神へのご奉仕を喜びにすることもできます。でも、それは、わたしがこの村で生まれ育ったからです。物心つく前からそう教えられてきたからです。でも、あの人は違う。全く違う世界で育ってきた人なのですよ。そんな人が、あんなことに耐えられると思っているの?」
「日登美なら……」
聖二はそう言いかけ、
「いや、日登美様なら耐えることができるはずです。そして、いつか、それを喜びに変えることができるはずです」
とすぐに言い直した。
「日登美様の中には明らかに日女の血が流れています。はじめてお会いしたとき、僕はそれを直感しました。今、まだその血は目覚めてはいないが、必ずその血が目覚めるときが来ます」
「もし、目覚めなかったら……?」
「耀子様」
聖二の声が苛立《いらだ》ったように鋭く響いた。
「あなたが僕のやり方をお気に召さないようなのは前々から知っていました。ですが、これ以外に方法がありますか? 何か手立てがあるのですか。あるならば教えていただきたい」
「…………」
耀子は窮したように黙ったままだった。
「今度の大祭がどれほど大切なものか、あなたにもよくお分かりになっているはずです。今までにも増して、大神の御加護が必要なときなのです。あなたも日女ならば、神家の女ならば、此の際、ささいな私情などにこだわるべきではない。目をつぶるべきです」
「わたしの言っていることがささいな私情だと言うの?」
「そうです。大事の前の小事。ささいな私情にすぎません。耀子様、これだけは言っておきます。もし、これ以上、邪魔だてするようなことがあれば……」
聖二の声がいったん途切れた。
「たとえあなたでも、僕はけっして許しませんよ。いや、大神がお許しにならないでしょう。それだけは覚えておいてください」
衣ずれの音がして、聖二が立ち上がったような気配がしたので、日登美は慌ててその場を離れた。
廊下を足早に歩きながら、胸の奥がざわざわと波打っていた。
あの人は何も知らないのね。ここの祭りがどういうものか。その祭りで、日女が何をするのか。何も知らないで帰ってきたのね……。
耀子はそう言っていた。
わたしが何を知らないというのだろう。
聖二から聞いたぶんでは、特別に変わった祭りのようにも思えなかったのだが……。
それとも、聖二は、耀子の言うように何か隠しているのだろうか。
それに、耀子はこうも言った。
妹にひどいことを……。
ひどいこと?
その一言が日登美を不安にさせていた。