部屋に戻ってきても落ち着かなかった。
ここの祭りがどういうものか。
その祭りで、日女が何をするのか。
そんな耀子の言葉が耳について離れない。
そういえば……。
今度の祭りでの自分の役割について、詳しい話は聖二からまだ何も聞いていなかったことに日登美は今更ながらに気が付いた。
前に聞いた話では、大日女の補佐役のようなことをするということだったのだが。
具体的には何をするのか……。
聖二に聞いてみようかとも思ったが、耀子の話が本当ならば、聖二が何もかも話してくれるとは限らない。
いっそ、耀子に聞いた方が早いかもしれない。聖二が隠しているということも、耀子ならばすべて話してくれるかもしれない。
そう思い立つと、日登美はいても立ってもいられなくなり、再び耀子の部屋に足を運んだ。
「日登美です。ちょっとよろしいでしょうか」
襖越しに声をかけると、「どうぞ」という耀子のものうげな声がした。
襖を開けてみると、すでに聖二の姿はなかった。
「あの……郁馬ちゃんたちは?」
日登美は尋ねた。
まさか、立ち聞きしたことは言えないので、日の本寺で貰《もら》った団子を話のきっかけにしようと思ったのである。
「さあ。お山で遊んでいるんじゃないかしら……」
耀子はそう答えた。声にも顔にも生気がなかった。心ここにあらずという表情でぼんやりとしている。
「これ、日の本寺でいただいてきたんです。お子さんたちにって」
日登美がそう言って、団子の包みを見せると、耀子は、「ああ、幸子さんの手作りのお団子ね。郁馬たちの大好物なのよ」と言って、ようやく笑顔を見せた。
幸子というのは住職の妻の名前らしい。
「どうもありがとう。あとで渡しておくわ」
耀子は日登美から団子の包みを受け取った。
「ひとつ伺いたいことがあるんですけれど……」
日登美はおそるおそる話を切り出した。
「今度の祭りのことなんですが……」
そう言うと、耀子の顔から笑みが消えた。
「わたしは日女《ひるめ》として何をするんでしょうか? 聖二さんからは大日女様のお手伝いをするだけだとしか聞いていないのですが……」
「大神祭というのは……」
耀子は、日登美の顔からすっと視線をそらすと、庭の方を見ながら言った。
「冬を迎えて弱まった太陽の力を蘇《よみがえ》らせるお祭りなのよ。古くはミタマフリと言って……」
耀子は聖二と同じことを言った。
古事記などに書かれている、天の岩戸に閉じこもってしまった天照大神をアメノウズメノミコトをはじめとする八百万《やおよろず》の神々が外に連れ出そうとするあの場面をそのまま神事として行うのだという。
「そして、大日女様によって蘇った大神の御霊は、三人衆の上に降りると言われているのよ……」
耀子はそんなことを言った。
「三人衆?」
これははじめて聞く言葉だった。
「三人衆というのは、毎年、村の十八歳以上三十歳未満の独身男性の中から選ばれて、大神の役をする若者たちのことなの……。わたしたち日女は……」
神社の神域内に作られた機織《はたお》り小屋という小屋の中でこの三人に「神の衣」である蓑《みの》と笠《かさ》、さらに一つ目の蛇面を渡すのが日女の役なのだと耀子は言った。
神に蓑笠を差し上げるという儀式は、日神に風雨を防ぐ防具をあげることで、風雨の平安を祈る、日祈《ひのみ》の意味があるのだという。
それは、ちょうど秋田の「なまはげ」にも似た神事で、大神の霊の宿ったとされる三人の若者は、頭《とう》、胴《どう》、尾《び》と呼ばれ、それぞれ日女から手渡された一つ目の蛇面と蓑笠をつけ、村中の家々を一軒ずつ回る。
神となった三人の若者を迎えた家々では、蛇神の好きな酒と卵を用意してもてなすのだという。
こうして、村中の家を回り終えた三人衆は、再び、機織り小屋に戻ってくる。このとき、日女は酒で三人をもてなす。日女のもてなしをうけた若者たちが蓑笠と面を脱ぐと同時に、大神の御霊はようやく若者たちの身体から離れ、天界に戻っていくとされている。
毎年行われる例祭では、祭りはここで終わるのだが、七年ごとの大祭では、最後に、これに一夜日女《ひとよひるめ》の神事が加わる。天界に戻ろうとする大神に、いわば土産代わりに一夜妻を差し上げようというのである。
日の本村の祭りは、例祭では、派手な神輿《みこし》などはいっさいくりださないのだが、大祭のときだけは、華麗な神輿がかつぎ出される。その神輿には、白衣に白袴姿の一夜日女が乗せられ、深夜、村中を練り歩くのだという。
ただ、この祭りの奇妙な点は、このとき、村人は誰もこの神輿を見てはいけないことになっているというのである。深夜ということもあるが、村人たちは家に閉じこもり、けっして外出は許されない。
神輿のかつぎ手も宮司をはじめとする神官たちに限られており、華麗な神輿は夜の闇《やみ》のなかを掛け声などもなく、しずしずと練り歩いたあと、明け方近く、社に戻ってくるのだという。
「……日女の役目とは、この三人衆のお世話をすることなのよ。三人の若者に神の衣である蓑と笠を着せて送り出し、最後は酒でもてなし労をねぎらう……。それだけのことなのよ。難しい事は何もないわ。蓑笠と面を渡す儀式はわたしがやります。あなたには、そのあとのお酒のおもてなしの方をしてもらうことになると思うわ。多少のお作法はあるけれど、それも一日もあれば覚えられる程度のものよ……」
耀子は、そう言って微笑した。が、その目は、なぜか日登美の視線を避けるように庭の方に向けられたままだった。
「それだけなんですか……?」
日登美はやや拍子抜けしたような気分で尋ねた。何やらもっと仰々しいことをするのではないかという不安があったが、聞いてみると、それほど大したことではないような気がした。
神輿をかつぐ男たちのために炊き出しや酒の用意をするくらいのことならば、以前にも、近所の祭りのときに何度かしたことがあった。
「そう。それだけよ……。ただ」
耀子は何か言いかけたが、思い直したように、「それだけのことなのよ。心配はいらないわ。あなたもすぐに慣れるわよ……」と言った。
耀子の話を聞きながら、日登美はほっとひと安心すると同時に、なんとなく腑《ふ》に落ちないものも感じていた。
これのどこが、「ひどいこと」なのか。
それとも、耀子が聖二に投げ付けたあの言葉はわたしの聞き違いか何かだったのか……。
「あの……どうして、あのとき、わたしに出て行けなんておっしゃったのですか」
日登美は思い切ってそう尋ねてみた。
こうして日登美の質問に丁寧に答えてくれる耀子が自分を嫌っているとはどうしても思えなかった。
「あのことは……」
耀子はややうろたえたように口ごもった。
「忘れてちょうだい。わたし、どうかしてたのよ。時々、とてもいらいらするの。それで、つい心にもないことを言ってしまうことがあるのよ。あのときも、一夜日女のことで……」
そう言いかけた耀子は、庭先に何か見つけたような表情になると、黙りこんでしまった。
耀子の視線の先を見ると、庭を散策する聖二の姿があった。聖二は一人ではなかった。春菜の手を引き、もう一人、二十前後の若い女性と肩を並べていた。
日登美の知らない顔だった。神家の女ではないようだった。
しかし、聖二と寄り添うようにして庭を歩いているその姿には、ただの客人とは見えないような親密さが感じられた。
「あの人は……?」
それとなく耀子に聞くと、耀子は硬い表情のまま言った。
「太田美奈代さん。村長の娘さんよ。来春、聖二と一緒になることになっているの……」
ああ、そういうことか……。
日登美は合点した。二人が親密そうなのも不思議はなかった。
聖二の婚約者というわけだった。
そういわれてみれば、美人というほどではないが、丸顔で素朴な感じのするその女性は、まさに恋する女という輝きを全身から発散しているようだった。
傍らの男に何か話しかけられるたびに、頬《ほお》を染め、嬉《うれ》しそうに反応している。聖二の方も、連れをいたわるようなそぶりを見せていた。
「かわいそうに……」
耀子がぽつんと呟いた。
日登美は思わず自分の耳を疑った。
かわいそう?
誰のことを言ったのだろう。
「かわいそうって……?」
日登美が聞くと、耀子は、憐《あわ》れみとも皮肉ともつかぬ奇妙な微笑をその形のよい唇に浮かべて言った。
「この家の男たちが大切にするのは日女《ひるめ》だけなのよ。日女ではない女のことなど歯牙《しが》にもかけないわ。あなたも信江さんを見てて、そのことには気が付いていたでしょう?」
「…………」
耀子の言うとおりだった。それは日登美も気が付いていた。
宮司の妻という立場のわりには、信江の地位がこの家ではあまりにも低いことを。食事のときの席も一番下座だったし、神琢磨は、信江のことを妻というよりも下女かなにかのように扱っていた。
神琢磨だけではない。息子たちも信江のことを母親という目では見てはいないような感じだった。
それは、春菜のような幼児でさえ、日女の血が流れているというだけで、女神のように崇《あが》められるのとは全く対照的で、同じ女なのにと、日登美の目には少々異様に映ったくらいだった。
「この村で日女が大切にされるのは、そうされるだけの理由があるからよ。女だからといって大事にされているわけではないの。それどころか、この村には、昔から男尊女卑の気風が根強く残っていて、日女以外の女性にとっては、むしろ住みにくい村かもしれないわ。
聖二さんも今はああして美奈代さんに優しく接しているけれど、ひとたびお嫁にもらってしまえば、父のようになるわ。いいえ、彼はすべての点で父以上だから、妻に対する態度も父以上にひどいものになるでしょうね……」
「まさか、聖二さんが……」
日登美はついそう言ってしまった。
仲むつまじそうに庭を散策する若い二人の様子を見る限り、そんなことは想像もできなかった。
「あなたは……」
耀子は日登美の方をやや険のある目付きで見ながら言った。
「聖二のことを知らなすぎるわ」
日登美が何も言えずに耀子の顔を物問いたげに見返すと、耀子は、再び視線をそらし、
「聖二は大神の申し子なのよ。彼の身体には蛇の血が流れている……」
そう呟《つぶや》いた