平成十年、四月。
葛原日美香がその喫茶店の扉を開けたとき、新田佑介は、読んでいた雑誌から顔をあげて日美香の方を見ると、やあというように軽く片手をあげた。しかし、その顔には、いつものような笑みはなく、心持ちこわばっているように見えた。
やっぱり変……。
日美香は本能的にそう感じた。
それは、昨夜、電話で佑介から、「話したいことがある」と妙に改まった口調で言われたときから感じていたことではあった。
別れ話……かな。
日美香はとっさにそう思った。
それ以外に考えられなかった。
昨年のクリスマスに彼の家に招待され、家族に紹介されたときから、いつかこんな日がくるのではないかという不安は、ずっと日美香の胸の奥にあった。
あまりにも育った環境が違いすぎる。
そんな思いが……。
今年にはいってから、佑介とは会う機会が目立って減っていた。彼は仕事が忙しくてとこぼしていたが、仕事を口実に、あえて、日美香との間に距離をおこうとしているのではないかという気がしていた。
もし、別れ話だったら……。
日美香は一晩考えてすでに答えを出していた。
笑って別れよう……と。
二人が付き合いはじめたのは、日美香が大学一年のときに入った天文学サークルというところに、四年生の佑介が先輩としていたことがきっかけだった。
翌年、佑介が卒業して、ある大手企業にエンジニアとして就職してからも交際は続き、今日に至ったというわけだった。
二年付き合ったといっても、それほど深い関係になっていたわけではなかった。肉体的なつながりも、軽いキスどまりで、それ以上はいっていなかった。
むろん、将来の約束など何もしていなかった。
今なら傷も浅くて済む……。
日美香は自分にそう言い聞かせた。
席につき、注文を取りに来たウエイトレスが去ったあとも、二人の間で会話は全く弾まなかった。
もともと、佑介は無口なほうで、女の子といるよりも単車でもいじっている方が性に合うと自分でも言うほど、話しべたなところがあった。
しかし、いくら無口といっても、今までに、これほどぎこちなく重苦しい雰囲気になったことはなかった。
日美香はそんな雰囲気を少しでも払おうと、話題を見つけて一人でしゃべった。そろそろ就職活動を本格的にはじめようと思っていること。今もなお所属している天文学サークルのことなど……。
佑介は相槌《あいづち》をうって聞いてはいたが、その顔には、心ここにあらずという表情がありありと窺い取れた。
「……それで、話ってなに?」
どうでもいいような近況報告をひとしきりしたあと、ついに話題が尽きて、一瞬の沈黙ののち、日美香は、ことさら明るい声でそう言った。
何げなく口元まで運ぼうとしていたティカップを持つ手が震えて、中のハーブティを少しこぼしてしまった。
佑介は、座席の脇《わき》においていたセカンドバッグの中をごそごそ探していたが、小さな箱のようなものを取り出すと、黙ったまま、それを日美香の方に差し出した。
シルバーグレイの小箱は、宝石などを入れる箱のように見えた。
日美香は、テーブルの上のその小さな箱と、怒ったような顔つきで自分の方を見ている佑介の顔を思わず見比べた。
おずおずとした手つきでその箱を引き寄せ、開けてみた。
中には、小粒だがダイヤと思われる輝く石をあしらった指輪が入っていた。