贄の儀式……。
日美香は自分の耳を疑った。
「その本には、こうも書いてあった。古くは、祭りで生贄《いけにえ》の儀式が実際に行われたこともあったと。神官や巫女《みこ》が祭りの最後の日に神への生贄として虐殺《ぎやくさつ》されることがあったというのだ。
例えば、信州の諏訪大社だ。あそこの神主は大祝《おおほうり》と呼ばれて、幼童がつとめることになっているそうなのだが、この大祝が祭りの最後の日に殺されたというのだよ。
そして、これと同じことが、同じ信州の日の本神社の祭りでも行われていたのではないかと著者は書いている。
それが、七年に一度の大祭の最後を飾る「一夜日女《ひとよひるめ》の神事」ではないかというんだ。
この神事が、深夜、人目を避けるようにして密かに行われ、その神事の様を、神職につく者以外は絶対に見てはならないとされているのは、それがまさに、死の儀式に他ならないからだったというんだ。
むろん、著者は、こういったことはすべて昔の話にすぎないと断ってはいるが……。
しかし、本当に昔の話なのか。諏訪大社に関しては、確かに昔の話だろう。あそこは文字通りの大社だし、奇祭の御柱《おんばしら》祭りも有名だから、観光客も多い。人目に触れては困るようなことが神事として行われていたとしても、それは、まだ交通の便も悪く、かの地を訪れる人が少なかった昔の話にすぎないだろう。
でも、日の本村は違う。今なお、あそこの交通の便はいいとは言えないし、その存在さえあまり知られてはいないんだ。さっきも言ったように、古い祭りの形態を保ち続けるのは、あそこの環境なら可能なんだよ。
倉橋日登美の娘は、一夜日女をつとめた直後、病死したということだった。本当に病死だったのだろうか……?」
日美香ははっとした。
真鍋伊知郎から聞いた話を思い出したからだ。一夜日女の神事の様をどうしても写真に撮りたいと思った真鍋が、明け方近く、日の本神社で一夜日女を乗せた輿《こし》が戻ってくるのを待っていたときのことを……。
輿が空っぽのように見えたというのは……。
「この平成の世に、まさか生贄などと思うかもしれないが、そういう常識では考えられないことをやってのけるのがカルト教団というものなんだよ。何度も言うようだが、あそこは村全体がカルト教団なんだ。いわば大神教という邪教の信徒の集まりだ。医者も信者なら、偽の死亡届や診断書を書くくらい朝飯前さ。
それに、こう考えれば、なぜ、あの村で、日女《ひるめ》の地位があれほど高いのか、女神か何ぞのように村人から崇拝されているのか、分かるじゃないか。それは単に、日女が神を祀《まつ》る巫女だからというのではない。それだけの理由では、あれほどまでに崇拝はされないだろう。
日女が贄《にえ》だからだ。だからこそ、村人たちはあそこまで日女を敬い大切にするんだ。
もともと、神への贄というのは、それが動物であれ人間であれ、その部族にとって、より貴重なもの、より大切なものが選ばれるのだそうだ。
たとえば、動物でいえば、馬の例がある。今でも多くの神社で、神馬と呼ばれて馬の像なんかが境内に置いてあるところが多いだろう? 絵馬なんかもそうだ。あれも聞くところによると、昔の贄の儀式の名残りだそうだ。
昔は、雨乞いなどをするときに神への贄として、馬が殺されて捧《ささ》げられたらしい。古事記の中にも、須佐之男命が馬を逆はぎにして、天照大神のいる機織《はたお》り小屋に投げ入れたなどという話が出てくる。
それが、時代を経るうちに、動物を贄として殺すのは野蛮だということになって、生きた動物の代わりに像や絵を神社に納めるだけになったというのだ。
では、なぜ馬が贄になったのかというと、騎馬民族にとって、馬という動物は最も貴重で大切な存在だったからだというのだよ。そんな大切なものを殺して、あえて神に捧げるからこそ、時には神の怒りを和らげ、時には神の御加護を得ることができると考えられたというのだ。
人間の場合も同じだ。神官や巫女が贄として選ばれたのは、かれらがきわめて貴重な存在だからだ。祭政一致の時代には、神に仕える者がそのまま部族の王であり女王でもあったわけだからな。
貴重でないものは贄としての役目を果たさない。
日の本村で日女が大切にされるのは、まさにこの贄の論理に則《のつと》っているんだ。日ごろから日女を敬い大切にするのは、それほど大切なものを神に捧げるのだという村人の神への狡猾《こうかつ》なアピールもあるだろう。
さらに、こうした日女の犠牲があったればこそ、神の御加護が得られ、村の存続と平和が保たれているのだという、日女への感謝の念が、よりいっそう日女を敬い崇拝する結果にもなるというわけだ。
しかも、こう考えると、なぜ、未婚であるべき日女の妊娠や出産が、村人たちにとって祝い事になるほど喜ばしいことなのか、という理由も分かってくる。
それは、大神の妻たる日女の血統を絶やさないためというよりは、大神に捧げる贄の血統を絶やさないためだということが……。
あの村では、日女というのは、美しい家畜のような存在なんだ。囲いの中で大切に育てられ、繁殖させられ、そして、七年ごとに、その中から確実に神への供物として間引かれていく美しい家畜……」
「やめて!」
日美香は両耳に手をあて悲鳴のような声をあげた。
もう聞いていられなかった。
憑《つ》かれたようにしゃべっていた達川ははっと我にかえったような顔になった。
「……悪かった。言い過ぎたよ。あんたにも日女の血が流れているんだったな。つい忘れちまった」
「すべて……すべて、あなたの妄想にすぎないわ」
日美香は睨《にら》みつけるような目で達川を見ながら言い放った。
「編集長もそう言ったよ。ま、もっとも、やつにはここまでは話さなかったがね。馬鹿馬鹿しいが、なかなか面白い話だから、記事にするのは無理だが、いっそ、小説にでも仕立てたらどうだ、フィクションならどんな荒唐無稽《こうとうむけい》な絵空事でも書けるぞとぬかしやがった。げらげら笑いながらさ……」