「でも、残念ながら、これは俺《おれ》の妄想なんかじゃない。どんなに荒唐無稽に聞こえようとも、これは現実に起きたこと、いや、今もなお起きていることなんだ。そのことは、一度でもあの村に行ってみれば分かる。あの村を取りまく一種異様な雰囲気に実際に触れてみれば……。
だが、俺が恐れるのは……」
達川はそこまで言って、ふっと口をつぐんだ。凍りついたように宙を見つめる。その目に脅えのようなものが走った。
「これがもはや山奥の小さな村の中だけの話ではないということだ……」
「それはどういうこと……?」
日美香はぎょっとしたように達川の顔を見た。
「いや、たとえ山奥の小さな村の中の出来事にせよ、幼い少女たちが神事の名のもとに虐殺《ぎやくさつ》され続けてきたのだ。これだけでも立派な犯罪だ。かかわった者はすべて法で裁かれるべき第一級の凶悪殺人だよ。しかし、それでも、今までは、それは日の本村という小さな村の中でのみ行われてきたことにすぎなかった。でも、これからは……」
「これからは……何だっていうんです?」
「早ければ、この秋にでも、現内閣は総辞職して、総選挙が行われるかもしれない。そうなったら、次の総理は新庄だという声がある。次期総理との呼び声も高い現大蔵大臣が、あの村の出身で、しかも、あの村を牛耳っている神家の一員なんだ。これは何を意味していると思う?」
「…………」
「今までは、その存在さえも殆《ほとん》ど知られていなかった小さな村でひそかに行われていたことがいつか国政レベルで行われることになるかもしれないってことなんだ」
「まさか……」
日美香は思わず笑い出しそうになった。達川の考えはあまりにも飛躍しすぎている。
しかし、口元に浮かびかけた笑いは、達川の食い入るような真剣な目の前で、こわばり消えてしまった。
「これは笑い事じゃない。そもそも、日の本村の『日の本』という名前には、日本という意味が込められているんだそうだ。聞くところによると、あの村を最初に作ったのは、蘇我氏に滅ぼされた物部氏の残党だという。物部氏といえば、その昔、軍事と祭事の両面でこの国を支配していた部族だ。あの村の連中は、その物部氏の子孫なんだ。そして、村の連中はそのことを異様なほど誇りにしている。特に、物部の直系である神家の連中は……。
新庄貴明はその神家の長男なんだ。やつの、あの颯爽《さつそう》としたイメージの裏には全く違ったもう一つの顔がある。ぎらつくような野心家の顔だ。ただ、その野心というのは、単に一人の男が立身出世を願うような個人的レベルのものではない。何か、個人的利益や欲望を越えた、遠大な目的をあの男はもっているように見える。
それは、たぶん……」
「待って。あなたの言っていることはおかしいわ」
日美香が鋭く言った。
「おかしい? 何が?」
達川は憮然《ぶぜん》とした表情で見返した。
「新庄貴明が政界入りしたのは今の夫人と結婚するためだったのよ。大学時代に知り合った今の夫人が大物政治家の一人娘だったために、仕方なく……」
日美香は、いつだったか、美容院で読んだ週刊誌に載っていたインタビュー記事のことを思い出して、そう言った。
そこで、新庄は、インタビュアーである有名女性キャスターに、「政治家を志したきっかけは?」と聞かれ、「自分は政治家になる気は毛頭なかった。たまたま大学時代に知り合った今の妻が時の大蔵大臣、新庄信人の一人娘だったせいで、卒業後は政界入りすることを結婚の条件として舅《しゆうと》から突き付けられ、それで仕方なくこの世界に入った」と語っていたのである。
そのとき、保守派の政治家にしては、さわやかな若々しいイメージのある新庄貴明らしい、ほほえましいエピソードだなと、好感をもって読んだものだった。
「現夫人との愛を貫くために仕方なく政界入りしたってか。は! いかにも女性読者が喜びそうな話だが、あんなのは大嘘《おおうそ》もいいところだ」
達川は吐き捨てるように言った。
「え……」
「俺は、やつの身辺を洗っていたときに、やつの高校の同級生だったという男に会って話を聞いたことがあるんだ。やつは高校のときから既に政治家になると公言していたそうだよ。しかも、現夫人との出会いもおそらく偶然じゃない。新庄信人には一人娘しかいないことを前|以《もつ》て調べていたんだ。なぜなら、その同級生の話によれば、新庄は最初東大をめざしていたというんだ。それが、どういうわけか、入試の直前になってとりやめ、何を思ったのか、単身渡米してしまったのだという。帰ってきたのは二年後だった。そして、大学を受け直した。東大じゃない。慶大だった。その年の慶大の入学者の中には、新庄美里がいた。そして、やつは、彼女と同じテニス同好会に入った。
これが偶然か? 冗談じゃない。すべて前以て調べてあったのさ。新庄信人の一人娘が慶応の幼稚部からエスカレーター式に大学まで進むことも、自分より二歳年下であることも。
やつがこんなことまでして、新庄美里に近づいたのは、むろん恋愛感情からなんかじゃない。彼女が保守派の最大派閥を率いる大物政治家の一人娘だったからだ。
そもそも、俺が新庄の女性関係を洗ってみようと思いついたのも、この話を聞いたからさ。これが本当なら、熱愛の末に学生結婚で結ばれた政界きってのおしどり夫婦なんて評判も怪しいものだと思ったからだ。もっとも、そっちの方面は、俺の調べた限りでは、まったくクリーンといってもよかったんだが……。
そのかわり、とんでもないものを引き当ててしまった。ありふれた女性スキャンダルなんてふっとんでしまうほどとんでもないものを……」
達川は右手の親指の爪《つめ》を噛《か》みながら、呟くように言った。
「もちろん、たとえ、このまま新庄が総理大臣になったとしても、彼一人ではたいしたことはできないだろう。すぐに何かが変わるというわけでもあるまい。総理大臣なんていっても、たいした権力をもてるわけじゃない。天皇同様、国の顔ってだけにすぎないからな。だが、何かが大きく変わるきっかけのようなものを造りだすことはできる。
やつには、カリスマがある。とりわけ、若者層への影響力には、そら恐ろしいほどのものがある。次期総理大臣には誰になってほしいか、というアンケートを街頭でしたら、若者層の殆《ほとん》どが新庄の名前を出したという。これはある意味で当然だろう。若者に限らず、日本国民の殆どが、片足を半分|棺桶《かんおけ》に突っ込んだような爺《じじい》政治家や、自分の選挙区の利益しか頭にないような田舎議員どもには心底うんざりしていたはずだからな。
そんな掃きだめみたいな政界に、まさに一羽の鶴、いや、俺《おれ》に言わせれば、一羽の鷹のように舞い降りてきたのが、あの男だったんだから。
今まで政治離れの激しかった若年層に、多少とも政治の世界に興味をもたせたのは、やつの大きな功績といってもいい。
しかし、逆をいえば、これから育って行く世代に多大な影響力があるというのは、非常に恐ろしいことだ。それも、政治家というより、まるで新興宗教の教祖のような魅力と影響力をもつということは……。
それに、奴自身も、若者層にはえらく興味と期待をもっているようで、何年も前から、『新庄塾』なる塾を自宅に作って、将来政治家を志す優秀な学生ばかりを集めて面倒を見ているという話だ。それが今ではかなり大きな組織になっていて、今や、塾長をつとめているのは、聞くところによると、武彦とかいう、やつの弟らしい。
その集まりで、やつは、軍事と宗教に関して、かなり異様で過激な思想を塾生たちの未熟な頭に吹き込んでいるらしいという話もちらと聞いたことがある。
今の若者は理屈だけは一人前だが、権威に対する免疫力がなく、そのせいで批判力もない。強い発言をする人間や強い個性をもった人間に、たやすくなびき心酔しやすい。これはどんな一流大学に通う優秀といわれる学生でも例外じゃないんだ。いや、むしろ、優秀といわれる学生の方がこういう傾向は強いかもしれない。彼らは大人をなめきって育ってきた。でも、なめきっているわりには、自分たちの精神構造の土台はきわめて脆《もろ》い。だから、少しでも尊敬できるような大人に出会うと、それがたやすく崇拝の域にまで達してしまう。
あの男は危険だ。魅力がありすぎる。日本国民が潜在的に一国のリーダーとして望んでいるすべての条件を完璧《かんぺき》に備えている。だからこそ危険なんだよ。できたてのピザどころか、毒の入ったうまそうな御馳走《ごちそう》みたいなもんだ。
最初、俺は、単に今をときめく時の人ということだけで、新庄のことを調べはじめたんだ。時の人の女性スキャンダルの一つでもたたき出せば、それだけで読者は飛びつくからな。最初はその程度の理由だった。でも、今は違う。
あいつを総理にしてはならない。あの男にこの国を預けたら、そのうち、とんでもないことになる。そんな気がしてきた。
あの男が胸にどんな恐ろしい野望を秘めているかは知らないが、今ならその芽を摘むことができる。それには、二十年前の一|蕎麦《そば》屋で起きた殺人事件の真相と、あいつの故郷である日の本村で神事の名のもとに行われている少女虐殺の実態を世間に公表する必要がある。俺が今まで調べたことは、是が非でも、活字にして人の目に触れさせなければならないんだ。
でも、確かにこのままでは確たる証拠が少なすぎる。どれも、いわば状況証拠ばかりだ。ただ、これ以上のことは俺には調べられそうもない。できれば、もう一度日の本村に行って調べたいことがあるのだが……」
達川は大きなため息をついた。
「しかし、それも無理だ。俺はあそこの連中にはすっかり警戒されてしまったようだから、誰も何も話してくれないだろう。おまけに、唯一の頼みの綱だった倉橋日登美が既にこの世の人間ではないとなれば、もはやお手上げというわけさ。
あと、俺にできることといえば、インターネットで新庄に関する怪文書をばらまくことくらいかな。もっとも、いざとなったら、それもやるつもりだ。何もしないよりはましだからな……」
達川はそう言って、にやりと不気味な笑いを口元に浮かべた。