五月十五日、金曜日。
長野駅の改札を出た日美香は、駅近くのバスターミナルに向かうべく、長い階段を足早に駆け降りていた。
長野に来たのはこれで二度めだった。
一度めは、高校二年の夏休みに、友人数人と軽井沢に泊まりがけで遊びに行ったときだった。帰りに、少し足を伸ばして長野にもたち寄り、善光寺《ぜんこうじ》参りをしたことがあった。
その当時はまだ長野新幹線は開通しておらず、長野駅も仏殿のような屋根をしたもっと鄙《ひな》びた感じの駅だった。
しかし、今では、新幹線の開通に伴ってか、ずいぶん現代的で華やかな駅に造り変えられていた。
達川正輝から聞いた話では、日の本村に行くには、駅近くのバスターミナルから、「白玉温泉行き」というバスに乗って、終点で降りればいいということだった。
このバスは本数が少なく、日美香が乗ろうとしていたのは、午後三時ジャストに出発する最終便だった。これを逃せば、タクシーを拾うか、市内に一泊するしかなくなってしまう。
バスターミナルに着いたとき、「白玉温泉行き」バスは、既にそこに停まっており、乗客も数人座っていた。いずれも地元の人のようだった。
日美香が窓際の席に座ると、それを確認するようにして、運転手はバスを出した。
一時間も走ると、窓から見える景色は藍色《あいいろ》の山ばかりになった。数人乗っていた乗客も、停留所ごとに櫛《くし》の歯が抜けるように降りて行き、今では、四十がらみの女性しか残っていなかった。
日美香と通路を挟んで隣合うように座っていたこの中年女性は、地元の人間しか利用しないようなバスに、いかにも観光客といった身なりの若い女が一人で乗っていることが珍しいのか、しきりに日美香のことを気にして、ちらちらとこちらを見ていた。
日美香は、そんな中年女の無遠慮な視線を全身で感じながらも、それを無視して、外の景色を眺める振りをしながら、頭の中では、先日の達川の話を思い出していた。
達川の話を全て鵜呑《うの》みにしたわけではなかった。達川自身も言っていたように、この平成の世に、いくら信州の山奥の村とはいえ、生贄《いけにえ》の儀式が密《ひそ》かに行われているとか、昭和五十二年の夏に実母一家を襲った事件が、実母が日の本村の出身であったことに端を発した計画殺人であったとか、さらに、その犯罪に、現大蔵大臣がかかわっていたなど、信じろという方が土台無理な話である。
ただ、だからといって、達川の推理を荒唐無稽《こうとうむけい》と一笑に付してしまうこともできなかった。真鍋伊知郎の話と照らしあわせても、確かに、奇妙な点はいくつかある。あの村には何かある。達川の推理ほどではないにしても、何か秘密のようなものが……。そんな気がしてならなかった。
しかし、日美香が一番知りたかったのは、村の秘密というより、自分の父が誰であるのか、そして、なぜ倉橋日登美がたった半年足らずの滞在で、逃げるように村を出てしまったのか、その理由だった。
達川と別れるとき、近いうちに日の本村に行くつもりだというと、達川は、「気をつけろ」と言った。
「たとえ、倉橋日登美の娘だということを隠していても、あんたの顔を見れば、倉橋日登美を知っている人ならすぐにピンとくる。あんたもあの村の連中から見れば、日女《ひるめ》なんだ。日女の娘なんだからな。それを忘れるな。あんたの存在を知れば、倉橋日登美のときと同じように、あんたを村に取り戻そうとするだろう。そうなれば、二十年前と同じ悲劇が起こりかねない……」
達川はそう忠告したのである。
しかし、今の日美香は、養母を失って天涯孤独の身になってしまっている。倉橋日登美のように家族がいるわけではない。そのことを言うと、達川は、「あんた、恋人はいないのか?」と聞いた。
日美香が、「婚約した人がいる」と答えると、
「その男のことは村の連中には決して話すな。もし話せば……分かっているだろう?」
達川は真剣な目でそう言った。