その夜、シャワーを浴びていると、玄関のインターホンが鳴った。時刻は午後九時を少し回ったところだった。
日美香は、バスタオルを身体に巻き付けた格好で、すぐに浴室を出ると、インターホンの受話器を取った。
訪問者は新田佑介だった。
インターホン越しに、「ちょっと渡したいものがあって……」と、佑介は、ややためらいがちに言ったあと、日美香が黙っていると、「あ、これ、渡したら、すぐに帰るよ」と、いくぶん慌てたように付け加えた。
この前のことをまだ気にしているような声だった。
「ちょっと待って」
日美香はそう言って受話器を置くと、素早く着替えてから、佑介を中に入れた。
佑介はなんとなく気まずそうな顔つきで入ってきた。
「渡したいものって?」
そう聞くと、彼は、背広の内ポケットから一枚の名刺を取り出した。
「一度訪ねてみたらいいと思ってさ……」
日美香は手渡された名刺に視線を落としてから、不思議そうな顔で佑介を見た。
「なに、これ?」
「叔父なんだ。品川で美容整形クリニックを経営している」
佑介は言った。
「きみのこと話したら、一度訪ねて来いって。患部を見てみないとはっきりしたことは言えないが、大人の手のひらくらいの大きさなら、奇麗に跡形もなく取ることは不可能じゃないと言ってた」
「……なんの話?」
日美香の顔が強《こわ》ばり、声も冷ややかになった。
「なんの話って……あの、痣《あざ》のことだよ」
佑介はいいにくそうに言った。
「ずっと気にしてたんだろう? だから、今まで……」
佑介はそう言いかけて黙った。
「心配しなくても大丈夫だよ。叔父はかなり腕の良い美容整形外科医なんだ。もっと酷《ひど》い火傷《やけど》の跡とかを奇麗に治したこともあるそうだ。麻酔かけるから痛みもまるでないというし……」
「あの痣を手術で取れというの?」
日美香は押し殺したような低い声で聞いた。「いや、そうじゃない。別に取れと言ってるわけじゃないよ」
佑介は慌てたように言った。
「ただ、その、きみが気にしてるようだから……。あ、俺は別に気にしてないよ。俺はね。でも……ほら、そういえば、夏でもきみはあまり襟《えり》ぐりの開いた服とか着たことなかったなあと思ってさ」
しどろもどろに、そう言う佑介の顔を、日美香はじっと見つめていた。
「それから、費用のことなら心配しなくてもいい。俺の婚約者だと話したら、そういうことなら、少し早い結婚祝いにさせてもらうって、叔父貴が言ってくれたし」
「ありがとう。考えておくわ……」
日美香が佑介の顔から目をそむけるようにして、そう言うと、佑介は幾分ほっとしたような顔になって、話題を変えた。
「で、どうだった? 達川とかいう記者には会えたのか」
「ええ……」
日美香は短く答えた。
「なんで倉橋日登美さんのことを調べていたんだって?」
「それは……」
日美香は少し迷ったあとで、昭和五十二年の夏に起きた殺人事件の話を佑介にした。
「殺人って……。本当なのか?」
佑介はさすがに驚いたような表情になった。「ええ。当時の新聞記事のコピーも見せて貰《もら》ったから……」
「ふーん。でも、その事件はとっくに解決したんだろう? それをどうして今頃になって調べてるんだ?」
佑介は腑《ふ》に落ちないという顔で言った。
「さあ。それ以上のことは話してくれなかったわ……」
日美香はそうお茶を濁した。新庄貴明のことも、日の本村に関する達川の疑惑についても、なぜか、佑介に話す気にはなれなかった。
達川の話があまりにも現実離れしているせいもあったが、それでも、今までだったら、達川から聞いたことを洗いざらい佑介に話していたかもしれない。
しかし、あの痣を見られてから、日美香の中で、佑介に対する気持ちが微妙に変化していた。何かが冷めてしまっていた。
「それに、達川という人、今は出版社もやめてフリーになっているみたいだから……」
フリーというと聞こえはいいが、今の達川の状態は、失業者のそれと言った方が近いようだった。
そのせいかどうかは知らないが、あのあと、ふと彼が漏らした話によれば、彼には妻と五歳になる子供がいたらしいのだが、二カ月前に離婚して、妻は子供を連れて実家に戻ってしまったということだった。
「どちらにしても、詳しいことは、日の本村に行かなければ分からないみたい」
そう言うと、佑介はため息混じりの声で、「やっぱり行くつもりなのか」と聞いた。
「できれば、今週末にでも……」
日美香がそう答えると、佑介は憂鬱《ゆううつ》そうな顔で黙ってしまった。
二人の間で会話が途切れ、気まずい雰囲気が続いた。
いつもなら、こんな雰囲気になると、日美香の方が多少無理をしてでも、話題を見つけてしゃべるのだが、今日はそんな気にもならなかった。
黙り続けていると、佑介はいたたまれなくなったのか、「じゃ、俺、これで……」と言って、立ち上がった。
日美香はなんとなくほっとした。
恋人が帰ろうとしているのに、がっかりするどころか、ほっとしている自分にうしろめたいようなものを感じながら。
「日美ちゃん……」
玄関で靴をはいていた佑介が突然振り向いた。
「何か分かったら、全部、俺に話してくれよ。何聞いても驚かないから。何があったとしても、俺の気持ちは絶対に変わらないから」
佑介はそう言うと、日美香の身体を引き寄せ、唇を重ねようとした。
日美香は抵抗はしなかったが、とっさに顔をそむけて、佑介の唇が自分の唇に重なるのを避けた。それは半ば無意識にしたことだった。佑介の唇は的をはずれて、日美香の頬《ほお》に軽く触れただけだった。
佑介が帰ったあと、日美香は、テーブルの上に置かれていた名刺を手に取った。しばらく、それを見つめていたが、いきなりそれを二つに引き裂いた。さらに四つに引き裂き、粉々に引き裂いた。
そうしなければ、今の自分の感情、ふつふつと煮えたぎるような、この得体の知れない怒りが鎮まらないような気がしたからだった。