その夜、寺で出された精進料理の夕食を済ませ、宿泊用の部屋に戻ってくると、まもなくして、住職が足早にやってきた。
「実は……」
住職は、今、宮司宅に電話をして日美香のことを話したら、「そういうことなら、ぜひこちらにお泊まり戴《いただ》きたい」と宮司が言っているというのである。しかも、すぐに、迎えの者をよこすという。
この申し出は、日美香にとっては願ってもないことだった。現在の宮司は、日美香にとっては伯父にあたる人だと聞いていたし、宮司宅には明日にでも訪ねてみようと思っていたのである。
二十分ほどすると、白衣に浅葱《あさぎ》の袴《はかま》姿の青年が迎えにきた。年の頃は、二十歳を少し出たくらいで、目を見張るような美青年だった。
青年は、神郁馬と名乗った。
宮司の弟だという。
老住職夫妻に玄関まで見送られ、日美香は寺をあとにした。
参道には石の灯籠《とうろう》が等間隔に並んでいたが、火は灯《とも》されておらず、あたりは墨汁を隈無《くまな》く流したような夜の闇《やみ》にとざされている。
神郁馬は、片手に日美香のボストンバッグを提げ、もう一方の手には懐中電灯を持って、それで足元を照らしながら歩いた。
ひとなつっこい性格らしく、その上、日美香と歳《とし》が近いという気安さもあってか、郁馬はすぐに親しげに話しかけてきた。
倉橋日登美が村に帰ってきたときは、彼はまだ三つかそこらの幼児だったのだが、日登美のことはおぼろげに覚えているという。
姉のように優しくしてもらったから、翌年の春、日登美が突然村からいなくなったときには、子供心にも悲しい思いがしたとなつかしそうに語った。
日美香は春菜のことを聞いてみた。
春菜も当時三歳だったはずで、郁馬とは同い年である。一緒に遊んだことがあったかもしれないと思ったからだ。
しかし、春菜の名前を出すと、それまでよく喋っていた郁馬がふいに黙りこんでしまった。
ちらとその顔を見ると、うつむいて足元を見ている、郁馬の白く整った横顔には、何か考え込むような表情が浮かんでいた。
「春菜様とは……」
郁馬は重い口を無理に開くように言った。
同い年ということもあって、すぐに仲良くなったが、一緒に遊んだりしたのはほんの短い間で、春菜が一夜日女に決まったあとは、今の宮司である次兄から、気軽に接することも口をきくことも禁じられてしまったのだという。
それゆえ、同じ屋根の下に住みながら、遠くから眺めるような存在になってしまったのだと郁馬は言った。
そして、祭りのあとは、潔斎という風習にしたがって、春菜は大日女のもとに預けられ、その期間が終わらぬうちに病死してしまったということだった。
しかも、潔斎の期間中に亡くなったということで、春菜の亡骸《なきがら》は神家に戻ってくることもなく、大日女たちの手で荼毘《だび》にふされたのだという。
「それでは……母は姉の死に目には会えなかったということですか」
日美香は驚いて聞き返した。
幼い娘が死んだというのに、母親がその亡骸に会うことができなかったというのだろうか……。
「僕は小さかったので、当時のことはよく覚えてはいないのですが、たぶん、面会は許されなかったでしょう。潔斎の期間中は、たとえ肉親であっても会ってはならないことになっているからです。何があろうと……」
郁馬はやや沈んだ声でそう答えた。
おかしい。
日美香はふと疑問に思った。
それは本当に風習にすぎないのだろうか。
それとも、幼女の遺体をその母親に見せられないような理由でもあったのではないだろうか……。
「姉が村に来てまもないのに、一夜日女《ひとよひるめ》に決まったのは、何か特別な事情があったと聞いてますが……?」
日美香がそう言うと、郁馬は、この話題はあまり気が進まないという顔つきで、
「それは、僕もあとから聞かされた話ですが……」
と前置きして、当時の事情を話してくれた。
一夜日女に決まっていた若日女に俄《にわか》の障りが生じて、急遽《きゆうきよ》、春菜に白羽の矢がたったということだった。
「俄の障りというのは……?」
そう聞くと、郁馬は、
「一夜日女は、まだ経事のない女児、つまりまだ初潮を迎えていない女児でなければならないという決まりがあるのです。それが……」
祭りの直前になって、その年の一夜日女に決まっていた若日女が初潮を迎えてしまったのだという。
「あの年は、色々な意味で村にとっては大変な年だったようです。いくら日女の血が流れているといっても、この村で育ったわけではない日登美様や春菜様が、神迎えの神事や一夜日女の神事をいきなりつとめるということは、ふつうならば考えられないことなのですが、あの年は、たまたま幾つかの障害が重なってしまって……」
「障害が重なったって、他にも何かあったんですか」
日美香が聞くと、
「神迎えの神事は、本当は、僕の一番上の姉がつとめることになっていたのです。でも、この姉が……」
郁馬は、そのときの話をしてくれた。
「それで、一時は祭りをとりやめる話も出ていたそうです。しかし、七年に一度の大祭ということもあって、それもできず……。そんなときに、偶然にも、東京に出ていた一番上の兄が、雑誌で日登美様のことを知ったんです。雑誌の名店紹介というコーナーに、日登美様の写真が載っていて……」
郁馬はそう説明した。
「一番上の兄って、新庄貴明さんですね、大蔵大臣の」
日美香がそう言うと、郁馬は弾かれたように連れの方を見た。
「ご存じだったんですか」
「ええ、まあ……」
一瞬、郁馬の顔に、しまったというような表情が浮かんだように見えた。