「住職から電話でこれまでのいきさつはざっと伺いましたが……」
神聖二は、日美香の顔をじっと見ながら、そう口火を切った。
さしつかえなければ、日美香の生い立ちを含めて、もう一度詳しく聞かせて欲しいと丁寧な口調で言った。
日美香は、自分が和歌山の片田舎で私生児として育ったこと。つい最近、唯一の肉親だと思い込んでいた養母が交通事故死して、その遺品として、一冊の本を発見したこと。そして、その一冊の本を頼りに自分が知り得たことを全て話した。
神聖二は黙って聞いていたが、その目は片時も日美香の顔から離れることはなかった。顔は殆《ほとん》ど無表情に近く、二十年前に謎《なぞ》の失踪を遂げた実妹の遺児が突然目の前に現れたというのに、たいして驚いているようにも見えなかった。
「これが、その本です」
日美香は一通り話し終わると、ボストンバッグを開けて、一番上に入れておいた真鍋の本を取り出し、宮司に手渡した。
宮司はそれを手にして、中をぺらぺらと繰って見ていたが、ページの間から例の子供の写真を見つけると、しばらく、それをじっと見ていた。
その顔には、僅かに感情のうねりが走ったように見えた。
「なるほど……。よく解りました」
やがて、本を返してよこすと、宮司は口元に微《かす》かな微笑を浮かべて言った。
「あなたもご苦労されたのですね」
その口からようやく身内らしい優しい言葉がぽろりとこぼれた。さらに、独り言のようにこう付け加えた。
「妹があのまま村に残っていれば、あなたが私生児として育つこともなかったのに……」
その独り言を耳にした日美香は思わず宮司を見た。
そういえば、この村では、日女《ひるめ》の生んだ子供はすべて宮司夫妻の子として籍に入れられるという話だった。
もし、母がこの村でわたしを生んでいれば、わたしはこの家で育っていた……。
そう思いあたると、日美香は不思議な感情に支配された。それは、本来自分が所属するべき世界に帰ってきた。そんななつかしさにも似た奇妙な心地よさだった。
それは、この村の停留所に降り立ったときから、ずっと感じていたものではあった。
神家の古い家も、はじめて訪れたというのに、長い旅の末にようやくたどりついた古巣であるかのように感じてしまう。
そして、この親和の感情ともいうべきものは、土地や家だけではなく、目の前の男に対しても感じはじめていた。
この人とは他人ではない……。
こうして向き合っていると、理屈を越えて、そう強く感じざるをえなかった。
伯父と姪《めい》という血縁関係以上の深い絆《きずな》がこの男との間に存在しているような気がした。
それはこの男の身に纏《まと》っている冷然とした独特の雰囲気が、日美香自身もまた、子供の頃から着慣れた衣服のように身に纏っていたものだったからかもしれない。
さらに、真鍋の本によれば、今の宮司にも、「大神のお印」と呼ばれる蛇の鱗《うろこ》状の痣《あざ》があるという。
この男の身体のどこかに自分と同じ痣があるのだ、という思いもあった。
「母は……どうして村を出たのですか」
日美香は、自分を支配しつつある、そういった諸々の感情を押し殺して、つとめて冷静に尋ねた。
「それは、私にも分かりません」
宮司はそっけなく答えた。
「でも、何か理由があったはずです。住職さんの話では、春菜という幼い娘の突然の病死が原因ではないかと……」
日美香は食い下がった。
「そうかもしれませんね」
宮司はそう言っただけだった。
「春菜という幼女……いえ、姉は……本当に病気で死んだのですか」
日美香は思い切って聞いてみた。
宮司の目が一瞬底光りしたように見えた。
「それはどういう意味です?」
慎重な口ぶりで逆に聞き返してきた。
「郁馬さんから聞いたのですが、姉が亡くなったとき、母は姉の遺体とは面会できなかったそうですね。なぜですか。幼い娘が突然病死したというのに、母親がその亡骸《なきがら》に会うこともできないなんて……」
「潔斎の期間中だったからです。潔斎というのは……」
宮司は説明しかけたが、日美香は、「そのことなら知っている」と遮った。
「潔斎の期間中は、日女は外部の者とは誰とも面会できないのです。たとえ母親であろうとも」
「でも……」
日美香がそう言いかけたとき、襖《ふすま》の向こうから、「お茶をおもちしました」という宮司の妻の声がした。
日美香は仕方なく口をつぐんだ。
茶菓を載せた盆をささげて入ってきた神美奈代は、それをテーブルの上に置くと、すぐさま部屋を出ようとした。
すると、神聖二はそんな妻を呼び止め、
「話が済むまで誰もここには寄せ付けるな」と厳しい口調で命じた。さらに、「郁馬に話があるから、あとで私の部屋に来るように伝えておけ」とも言った。
それは妻というより下女にでも命令するような口調だった。
美奈代の方も、「はい」とかしこまったように一礼すると、逃げるように部屋を出て行った。
その妙におどおどした様子から、彼女が日ごろから夫のことをひどく恐れているのではないかと日美香はふと思った。