神聖二はひどく混乱していた。
自分の部屋に戻って一人になっても、なかなか興奮がおさまらなかった。
この二十年間、失踪《しつそう》した妹の行方《ゆくえ》をずっと探していた。松山にいるという伯母のもとにもそれとなく探りを入れたり、もしや東京に戻ったのではないかとも思い、以前世話になった探偵社に再び調査を依頼してみたりした。
しかし、結局、日登美の行方はようとして知れなかった。
忘れたわけではなかったが、いつしか聖二の中では、日登美のことは半ばあきらめたような形になっていた。
日登美は最後まで自分の中に眠る日女《ひるめ》の血にめざめなかったのだ。そして、結局は、母の緋佐子同様、日女としての道を捨て、一人の平凡な女としての道を選んだのだ。
そんな失望感を伴った苦い認識とともに……。
それが今ごろになって、突然、日登美の遺児と名乗る女が向こうからやってきたのである。
日美香の前では端然と取り繕ってはいたが、日の本寺の住職から、日登美にそっくりな若い女がやってきたと電話で聞かされたときから、聖二の混乱ははじまっていた。
ただ、その混乱というか、感情の乱れは、まだ自分の中で押し殺すことができる程度のものだった。それは、葛原日美香と名乗る娘に会って、彼女の顔に明らかに日登美との共通点を認めたあとも同様だった。
しかし、日美香の右胸にあの痣を見たときには、さすがに、もはや驚愕は隠しきれなくなっていた。
あの娘の右胸にあったのは、まぎれもなくお印だった。聖二自身の背中にあるのと全く同じ形状の……。
信じられなかった。
これは一体どういうことだ。
お印が女児に出ることなど、かつてなかったことだ。
日美香にも話したように、神家に千年以上にもわたって伝わる家伝書にもそんな記録はないし、そんな話は聞いたこともない。
本来、お印は、大神が特別にわが意志を継ぐ子と認めた男児、すなわち、日子《ひこ》の証しなのだ。日子というのは、その昔は、神主であると同時に王でもあった者のことである。
そう長く語り継がれてきたし、聖二もその言い伝えを信じきってきた。
日美香が日登美の娘であるということは、彼女もまた日女であることは間違いない。しかし、あのお印があるということは、彼女は同時に大神の意志を継ぐ日子でもあるということになる……。
馬鹿な。
聖二は声に出して打ち消そうとした。
日女であると同時に日子でもあるなど……。
そんなことがあるはずがない。
この村では、神の正妻たる大日女が最高の存在とみなされている。そして、お印をもって生まれた日子が、その大日女とほぼ同格の存在と認められていた。
もっとも、聖二自身は、大日女と自分とを同格とは見ていなかった。口には決して出さなかったが、自分の方が上だと密《ひそ》かに思っていた。
なぜなら、次代の大日女は、託宣とは名ばかりの人為的な方法で選ばれるにすぎないが、日子の方は神の意志としかいいようのない状態で選ばれるからである。
生まれてくる赤ん坊の身体にあのような痣をつくることなど人為的にできるものではないのだから……。
それはまさに神意によるものだ。
より神の意志を反映している存在として、大日女よりも日子である自分の方が上だと思うのは当然のことだった。
そして、そのことは、大日女自身も納得しているように見えた。
その証拠に、先代の宮司である父が五年前に他界し、聖二が宮司職を継いでからは、いや、父が宮司であった頃からすでに、神社のことに限らず、村の運営にかかわる重要なことは、すべて彼が自分の意志で決めてきた。
大日女など、実際には、彼が一人で決めたことを報告する相手にすぎなかったのだ。
ただ、そのことは大日女と聖二だけの秘密だった。
村人たちの前では、ことさらに、彼自らが率先して、大日女を至高の存在として祭りあげ、自分は、その大日女のお言葉を村人たちに伝えるだけの仲介役のような地位に止まっていた。
その方が何かと事を運ぶのに都合が良かったからである。
だが、それは見せかけにすぎず、内心では、大日女という老|巫女《みこ》にたいして、さほど崇拝の念も抱いてはいなかった。
しかし……。
あの日美香という娘は……。
日女であると同時に日子でもあるということは、大神の妻にすぎない大日女よりも、また大神の子にすぎない自分よりもさらに上の存在ということになるではないか。
つまりそれは……。
いまだかつて存在しえなかった、まさに正真正銘の至高の存在ということになるのだ。
あの小娘が?
ようやく成人に達したばかりの、まだ頬《ほお》のあたりに幼ささえ残しているあの娘が?
この事実にこそ、聖二は大きなショックを受けていた。
それは、まるで、あの若い女の白い素足で、いきなり自分の頭を踏み付けられでもしたかのようなショックだった。
ショックというより……。
恐れと言った方がいいかもしれない。
このきわめて誇り高い傲岸不遜《ごうがんふそん》な男が、自分の娘ほどのうら若い乙女に、はじめて恐れに近い感情を抱いたのだった。