日美香が耀子から聞いた蛇ノ口という沼地まで来たときには既に陽《ひ》は傾き、西の空には血を流したような禍々《まがまが》しい色の夕焼けが広がっていた。
船木理髪店を出たあと、同じ商店街にある、海部米穀店を訪ねてみたが、結果は船木の場合と全く同じだった。日美香の顔を見るなり、海部重徳も船木と同じような反応を見せた。そして、奇《く》しくも、海部の血液型もO型であることが分かった。
船木も海部も日美香の父親ではありえない。
となると、あと残るのは、今は村長をしているという太田久信だけだった。
しかし、村長宅を訪ねてみると、あいにく太田は留守で、乳飲み子を抱いて出てきた妻の話では、公用で長野市に出掛けており、夜にならないと戻らないという話だった。
それで、ふと思いついて、村長の妻に蛇ノ口のことを聞いてみた。すると、それは、村長宅からさほど遠くない距離にあり、沼の入り口には鳥居がたっているので行けばすぐに分かるという。
ただ、そこは昔から神域とされており、しかも、蛇ノ口というのは、実際には底無しではないらしいが、水深二十メートル以上はゆうにあるといわれている深い沼だそうで、落ちたらまず助からない。むやみに近寄らない方がいいと村長の妻は言った。
なるほど、来てみると、村長の妻が言った通り、半ば朽ちかけたような木の鳥居がやや傾いて立っていた。
貫の部分に張り巡らされたしめ縄以外に、通行禁止とでもいうように、両柱の下方を一本の荒縄で結んであった。
実際、鳥居の近くには、「関係者以外立ち入り禁止」とか、「この先、底無し沼あり。危険。入るべからず」などと書かれた物々しい標識が立っている。
日美香はあたりを見回した。
猫の子一匹いなかった。
車道を少しはずれた獣道のような道から入ったところにあるので、あたりは、鏡山の麓《ふもと》の鬱蒼《うつそう》とした森が広がるばかりで、人影など全くなかった。
恐ろしいまでの静寂さが周囲を支配している。野鳥のさえずりや、枝から枝へ飛び立つような羽ばたきの音が聞こえるだけである。
鳥居の柱を結んだ縄をまたぎ越すのは造作もなかった。
日美香は鳥居を抜けると、生い茂る巨木の枝で空を覆い隠され、夕暮れでなくても薄暗いような森の中を慎重な足取りで歩み進んだ。
周囲の巨木から落ちた枯れ葉が長い間に蓄積されて出来たような地面は、足を踏み入れると、ずぶずぶとめり込むような湿った気味の悪い感触があった。
しかも、あたりには、腐った植物が出すメタンガスのような匂《にお》いがたちこめている。
しばらく行くと、赤褐色の、ほぼ円形の小さな沼が見えてきた。そのそばには、これまた小さな社が建っている。
その社に近づいて見ると、そこには、「一夜日女命《ひとよひるめのみこと》」と書かれた札が貼《は》られていた。キャラメルやらガムやら駄菓子の入った袋、さらに動物のぬいぐるみまで供えられていた。
それらの供物を見ても、この小さな社に祀《まつ》られているのが、幼い子供の祭神であることが窺い知れた。
社は意外に新しかった。塗られた朱が色あせていなかった。まるで、ここ数年の間に建て直されたようだ。しかも、供物を手に取って調べてみると、それが最近製造されたものであることが分かった。
耀子の話では、神事の名のもとに、一夜日女がこの沼に沈められたのは、百年以上も昔のことだということだった。
だが、それにしては、社といい供物といい、妙に新しい。むろん、信心深い村人が、村の犠牲になった幼い少女たちの死を悼《いた》んで、今もなお、その霊を手厚く祀り、供物を捧《ささ》げ続けているのだとも考えられたが……。
日美香は、これ以上近づくと危険というところまで、沼に近づいてみた。靴のつま先が、ずぶりと湿った沼地にめりこんだ。一瞬、そのままずるずると沼に引き込まれそうな恐怖を感じ、あわてて一歩後退した。
沼の縁《ふち》と地面との区別がはっきりついていないので、うっかりもう一歩踏み込めば、足元からずぶずぶと呑《の》み込まれていたかもしれない。
沼の表面は赤褐色にどろりと澱《よど》んでおり、あちこちに、水中の腐った葉や葦《あし》などから出るメタンガスらしき気泡がふつふつと湧《わ》いている。
沼の中央には、誰かが投げ込んだ白い花束が半分泥に埋まるようにして浮いていた。
蛇ノ口とはよくいったものだ。
まさに、それは、毒気を吐く巨大な蛇の開いた赤い口を思わせた。
こんな所に幼い少女たちが……。
その様を想像しただけで肌が粟立《あわだ》つ思いがした。
そのとき、背後でがさりと物音がした。野鳥のはばたきなどとは違う、もっと大きな物音だった。
日美香はどきりとして振り返った。
いつの間にか人影が立っていた。
女だった。