M*ホテルの二階にある中華レストランで沢地逸子と会食した後、蛍子が自宅に戻ってきたのは、午後九時を既に回った頃だった。自宅といっても、2LDKの賃貸マンションである。
リビングでは、十七歳になる甥《おい》の豪《ごう》がコントローラを手にテレビの前にあぐらをかいて座りこみ、格闘技系のゲームに夢中になっていた。
「ごはん、食べたの?」
と訊《き》くと、豪はゲーム画面から目を離さず、「カップメン、食った」と答えた。
「火呂《ひろ》は?」と重ねて訊ねると、豪は相変わらず上の空で、「さあ。バイトじゃない?」と言う。
火呂というのは、今年二十歳になる豪の姉のことである。三十一歳になるが独身である蛍子は、このマンションに、姉の忘れ形見である甥と姪と同居していた。
姉の康恵とは十二歳も年が離れていた。三年前、沖縄に住んでいた姉が癌《がん》で他界したとき、火呂はまだ高校生、豪は中学生だった。康恵の夫は照屋憲市《てるやけんいち》といって、沖縄の方言でいう海人《うみんちゆ》、つまり漁師だったが、八年前に漁船の転覆事故で亡くなっていた。
康恵は、母校でもある小学校の教師をしながら、子供たちを女手ひとつで育てていたのである。
康恵が亡くなる前から、東京の大学への進学を希望していた火呂を蛍子が預かることになっていた。ただ、まだ中学生だった弟の方を沖縄に一人で残しておくわけにもいかなかったし、東京に行きたいという豪自身の強い希望もあって、蛍子が二人まとめて引き受けたというわけだった。
姉弟といっても、火呂と豪は、いわゆる異父姉弟である。豪の父親は照屋憲市だったが、火呂の実父は、康恵が東京にいた頃に付き合っていた高津広武《たかつひろたけ》という高校教師だった。康恵は、大学の教育学部にいたときから、高津と付き合っており、将来は結婚するつもりでいたようだ。
一度、夏期休暇で帰省したとき、高津を伴ってきて、当時まだ健在だった両親に、「将来を約束した人」といって紹介したことがあった。そのとき、小学生だった蛍子は、姉の恋人を見て、「背の高いかっこいい人だな」と思ったことをおぼえている。そのときの姉はまぶしいほど美しく幸福そうに見えた。
しかし、康恵は高津とは結婚できなかった。あれは昭和五十三年の春のことだった。学生時代から山に親しんでいた高津は、奉職する高校の山岳部の顧問をしていた。春休みを利用して、山岳部の教え子たちと北アルプスに登り、そこで雪崩《なだれ》事故に巻き込まれたのである。帰ってきたときは冷たい遺体となっていた。
恋人の死を知らされたとき、康恵は既に高津の子供を身ごもっていた。父親のいない子を産んでも苦労するだけだという両親の反対を押し切って、康恵は高津の子を産んだ。生まれて来たのは小さな女の子だった。康恵は、その女の子に、恋人の愛称だった「ヒロ」という名前を与えた。
その後、体調を崩したこともあって、姉は赤ん坊の火呂を連れて、沖縄の実家に戻ってきた。幼なじみでもあった照屋憲市と結婚したのは、それから二年後のことだった。当時の姉の心の中には、死んだ恋人のことしかなかったようだが、結局、姉が初恋の人だったという照屋憲市の情熱に押し切られた風だった。
まだ幼かった火呂が足繁く通ってくる照屋になついてしまい、照屋の方も火呂をわが子のように可愛《かわい》がってくれたということが、姉に結婚を決意させた大きな要因だったのかもしれない。姉は夫を得るというよりも、火呂に父親を与えるつもりで、照屋憲市と一緒になったのかもしれなかった。
すぐに豪が生まれたが、子煩悩なところがあった照屋は、二人の子供をわけへだてなく可愛がった。照屋とは血のつながりがないことは、誰が言うともなく、自然に火呂に知れてしまったが、そのことで父娘関係が変わるということはなかったようだ。
火呂と豪の関係も、異父姉弟とはいっても、ふつうの姉弟と全く変わりなかった。いや、ふつう以上だった。喧嘩《けんか》するほど仲が良いとは言うが、この二人ほどよく喧嘩する姉弟を蛍子は他に見たことがない。
それもただの口喧嘩ではない。まるで男同士のような取っ組み合いの喧嘩をする。蛍子も姉同様、大学進学を機に上京したのだが、夏期休暇などで帰郷するたびに、よく姉の家に遊びに行った。行くたびに、二人は、窓ガラスを割り、襖《ふすま》を押し倒すような派手な喧嘩をしていた。
その後、火呂が高校に入ってからは、さすがに取っ組み合いの喧嘩はしなくなったようだが、口争い程度のことは相変わらず毎日のようにやっていたらしい。
しかし、派手に喧嘩する一方で、互いを思い合う姉弟愛も、並のきょうだいよりは遥《はる》かに深いようでもあった。
康恵が亡くなったとき、母親が卒業した東京の大学の教育学部を受け、将来は母親のような小学校の教師になると決めていた火呂が、突然、大学には行かないと言い出した。高校を出たら働いて、自分が豪を大学まで行かせるというのである。一方、弟は弟で、中学を出たら自分が働いて、「姉ちゃんを大学に行かせる」と言い出した。
結局、康恵が二人の子供に残した遺産が、生命保険金も含めてそれなりにあったので、二人が大学を出るまでの資金くらいは、その中から十分賄えるということを説得して、一件落着したのだが、そのとき、蛍子は、いざとなったときの二人の絆《きずな》の強さを見せつけられた思いがした。
とりわけ、火呂が弟に寄せる愛情の深さと濃《こま》やかさには、時折、驚かされた。今でも玉城村で殆《ほとん》ど伝説のようになっている話がある。それは、まだ八歳だった火呂が死にかけた弟の命を「呼び戻した」というものだった。
五歳のとき、豪は、浜辺で一人で遊んでいて波にさらわれたことがあった。助けられたときは意識不明で、生死の境をさまようような危険な状態が丸一日続いた。そのとき、火呂は、何を思ったのか、夜、一人で浜辺に行き、海に向かって歌を歌った。それは火呂が即興で作ったという不思議な歌だった。
その高く澄んだ歌声を聞いた人たちは、とてもこの世のものとは思えなかった、まるで神女が歌う神歌のようだったと口を揃《そろ》えて語った。弟の魂を返してくれるよう、海神様にお願いしてきたのだと火呂は後になって言った。その祈りの声が海神《わだつみ》に届いたのか、明け方近くになって、豪はぽっかりと目を開けた。
目が覚めると、五歳の幼児は、「まっすぐ続いている真っ白な道を行こうとしたら、豪、そっちへいっちゃだめだよ。こっちへもどっておいでって声がした。姉ちゃんの声だった。だからもどってきた」と、あどけない目をして語った。
沖縄には古くから「おなり信仰」という独特の風習がある。「おなり」とは女のきょうだいのことをいい、「おなり」は、男のきょうだいである「えけり」を守るために、高い霊力《セジ》が備わっているという信仰である。
「おなり」の霊力はその髪や手織りのハンカチに篭《こ》もると言われ、昔は、兄や弟が船出するときや戦に出掛けるとき、妹や姉の髪を守り袋に入れて持たせたり、手織りのハンカチを持たせたりしたのだという。
古い民謡の中には、「船出するえけりの船の舳先《へさき》に白鳥が一羽止まっている。その白鳥は、えけりを見守るおなりの魂だよ」という意味の歌もあった。
実際、あの水難事故のあと、豪は、火呂の髪の毛を入れた守り袋を持たされ、今も肌身離さずつけているようだ。
女性が中心となって神事を司るという沖縄独特の信仰形態の源は、この「おなり信仰」にあるのだという人もいる。その昔、琉球国王が自分の姉妹を巫女《みこ》として最高の神職につけ、神の託宣によって、政治を執り行ったのも、この「おなり信仰」ゆえだったというのである。
こうした古い風習は、イザイホーのような祭り同様、時の流れとともに廃れつつあるが、それでも、その信仰の「心」は親から子へ、またその子から孫へと語り継がれ、あるいは、遺伝子の中に組み込まれた記憶が一筋の強靱《きようじん》な血脈となって、風習そのものが滅んだあとも、子孫の魂の中に宿り続けて行くのかもしれなかった。