しかし、ヤマタノオロチ伝説の真に意味するところは、西洋の龍蛇伝説ほど単純ではないような気もする。この神話には、史実が何層にも塗り込められた複雑な意味合いがあるように思えてならない。
もし、ヤマタノオロチを太母神たるイザナミの化身と考えた場合、ふと疑問に思うのは、須佐之男命とヤマタノオロチの関係である。
古事記によれば、須佐之男命は、その父イザナギから、「海を司れ」と言われても、それをせずに、「亡母の国に行きたい」と泣いてばかりいたという逸話があるほど、「お母さんっ子」であった(ただ、ここで少々奇妙なのは、古事記においては、この須佐之男命は、イザナミが死んだあと、イザナギが禊《みそぎ》をしている最中に一人で生んだ子ということになっていることである。とすれば、須佐之男命がイザナミを母と慕うのはチトおかしいような気もするが、日本書紀の方では、イザナミとイザナギが共に作った子供の一人ということになっているので、どうやら、このくだりは、日本書紀のそれと混同されているようである)。
それはともかく、須佐之男命の出雲行きは、天界での悪行|三昧《ざんまい》の末の追放であるように書かれているが、「亡母のいる国に行きたい」と言っていた彼にとって、「亡母」の住む死の国への入り口がある出雲行きは、むしろ望むところでもあったはずである。
これほどまでに「亡母」イザナミを慕っていた須佐之男命が、その母の遣い蛇ないしは化身であるヤマタノオロチを殺すというのは、どうも釈然としない。
それに、ヤマタノオロチの退治の仕方にしても、ギリシャ神話などに較べると、今ひとつ手ぬるい気がする。
果たして、剣でずたずたに切り刻んだくらいで、不老不死と思われていた「蛇」(それも年とった妖気溢《ようきあふ》れる大蛇)が簡単に死ぬものだろうか。
たとえば、ギリシャ神話においては、百頭の水蛇ヒュドラを退治するとき、ヘラクレスは大変な苦労をしている。というのは、水蛇の首は、切っても切ってもなくなるどころか、かえって「増えて」しまったからである。そこで、ヘラクレスは、その首を切ったあと、切り口を火で焼き切り、さらに、首を土中に埋めて、蛇の再生力を止め、ようやく、ヒュドラを退治したとある。
どうやら、蛇という生き物は、切り刻んだくらいでは死ぬどころか、かえって、その再生力が促されて、前より元気になってしまう生き物だと考えられていたようだ。
もし、これが世界共通の認識だったとしたらどうだろう?
蛇に好物の酒を与え、そのあとでその身体をずたずたに切り刻んだという須佐之男命の行為は、実は、蛇を退治しているのではなく、逆に蛇の再生を促しているように見えるということなのである。
さらに、この須佐之男命だが、記紀では、天照大神と月読命《つくよみのみこと》と共に生まれた「三貴子」の一人で、生まれながらの天つ神ということになっているが、もともとは、出雲土着の国つ神(縄文民族)ではないかという説もある。
確かに、須佐之男命というのは、「長い髪に胸まで垂れる髭《ひげ》を生やし、胸毛まである」非常に毛深い神として描かれており、この「毛深さ」は、縄文民族の血を引くと言われる北海道のアイヌや、沖縄の人々と共通する特徴である。
もし、須佐之男命が天つ神ではなく、出雲土着の神だとしたら、須佐之男命とヤマタノオロチの関係は、記紀に書かれたものとは全く違ってくるのではないだろうか。
ヤマタノオロチとは、単なる人食いの化け物ではなく、出雲土着の神、つまり母なる大蛇神なのである。その証拠に、日本書紀の一書では、須佐之男命がヤマタノオロチに向かって、「汝《なんじ》は貴い神だから、おもてなしをしよう」と言っている。
そして、須佐之男命とは、もともとは、この出雲の太母神たるヤマタノオロチ(イザナミノミコト)に仕え、これを祀っていた男王ではなかったか。
記紀に書かれた須佐之男命の行為はすべて、ヤマタノオロチを神として祀るための儀式だったのである。それが、西洋の龍蛇退治伝説と混同されて、全く逆の意味に伝えられてしまったのかもしれない。
しかし……。
しかし、である。
右のように考えても、今ひとつ釈然としないのは、もし、須佐之男命が出雲土着の国つ神であったとしたら、なぜ、その彼が、記紀神話では、最高神たる天照大神の弟とされ、「三貴子」の一人とみなされるほど、「出世」したのかということである。
ここで少々嫌な憶測をすると、この「出世」には何らかの「取引」というか、血腥《ちなまぐさ》い「代償」が払われたのではないか……。
前にも書いたが、太母神信仰をもつ母権制社会が崩壊していった真の理由は、他民族の侵略以前に、その母権制社会の中で、いわば「内乱」ともいうべきものが起こって、既に内部からその土台が腐りはじめていたことにあるのではないかということである。
偉大な獅子《しし》を倒すのは、外から飛んできたハンターの銃弾などではなく、実は、獅子自身の中に潜んでいた「虫」なのである。
どれほど堅牢《けんろう》強固に見える体制も、滅びるときは、その内部から崩壊していくのである。白蟻が知らぬまに家の土台を食い尽くしていくように……。
つまり、結論から言ってしまえば、須佐之男命は、やはり、母なるヤマタノオロチを殺したのではないか、ということである。
ただし、それは、他民族の侵略を意味する「退治」としてではない。そこが西洋の龍蛇伝説とは根本的に違うところである。ヤマタノオロチ伝説とは、同民族間の内乱、あるいは、下克上的な争いを暗に物語った神話なのではないだろうか。
須佐之男命は、本来はヤマタノオロチ側、つまり母権制を掲げる先住民族に属しながら、父権制を掲げる他民族の思想ないしはその勢いに同調して、太母神たるヤマタノオロチを廃して、出雲での覇権を我が物にしようとしたのではないか。
だからこそ、彼は、その「裏切り」ゆえに、新しい支配者たちに「天つ神」として受けいれられたのではないだろうか。
須佐之男命が天照大神に数々の無礼を働いた罪で天界を追放された後、出雲に至って、その地を荒らしていたヤマタノオロチなる蛇怪物を退治し、やがては、(いつの間にか)イザナミに代わって冥界を司る黄泉大神になったという日本神話の筋書きは、あれはむしろ、逆に読むべきものなのである。
須佐之男命はもともと出雲の出で、そこの大いなる母神であったヤマタノオロチに仕える男王だったが、その母なる神を「裏切って」殺したからこそ、日本列島の新しい支配者たる日の民族に受けいれられ、やがては「天つ神」として天界に招かれる資格を得たのだと。
もっとも、天界に招かれはしたが、そこで須佐之男命を待っていたのは、日の民族が信奉する太陽女神の徳を引き立てるための「悪役」でしかなかったのだが……。
ここまで書いてきて、ふと思ったことがある。日本神話の創造過程で、本来男神であるべき太陽神があえて女神とされたいきさつには、ひょっとすると、この先住民族の太母神であったイザナミの存在が大きく影響していたのではないかということである。
ギリシャ神話において、太陽神アポロンが自らが退治した黒蛇ピュトンの神格を吸収して「冥界《めいかい》での相」としたように、あるいは、知恵の女神アテナが、古い知恵の女神であったメドゥサを(ペルセウスを使って)退治したあと、その蛇の威力を自らの中に取り入れたように、日本列島の新しい支配者たちは、それまで信奉していた太陽神に、自らが滅ぼした古い大地女神の神格を取り入れようとしたのではないだろうか。
ある民族が先住民族を征服したあと、その先住民族の信奉する神の特性を自らが信奉する神の中に取り入れ、より強力な神を創り出すというのは、世界的に見ても、しばしば見られる現象でもある。
つまり、天空に鎮座する太陽女神の光り輝く美貌《びぼう》の裏には、もう一つの相として、暗黒の冥界につき落とされた太母神たるイザナミの腐乱した黒い貌《かお》が隠されているのではないかということである。
そう考えると、あの天の岩戸事件に至る前の、高天が原における、姉神たる天照大神と弟神たる須佐之男命の確執の真相が見えてはこないだろうか。高天が原で行われたとされている、須佐之男命の天照大神への背信的行為はすべて、実は、出雲の地で、須佐之男命が母神たるイザナミに対して行った背信的行為をそのまま写し取ったものであるという真相が……。