日本最古の物語と言われる、あの「竹取物語」のヒロイン、かぐや姫とは一体何者であろうか。
今回は、彼女の正体について考察してみたい。
日本人で、この有名な昔話を知らない人はまさかいないだろうが、あらためて、話の粗筋をかいつまんで紹介しておこう。
昔、「竹取の翁」と呼ばれる、竹細工を作って暮らしている男がいた。ある日、翁がいつものように竹を取りに竹林に行くと、根元が光り輝いている竹があった。不思議に思って、その竹を切ってみると、中から小さな赤ん坊が出てきた。
翁はその赤ん坊を家に連れ帰ると、老妻と共にその子を育てた。まもなく、翁は長者になった。子を得てから、翁の切る竹からは黄金が出るようになったからである。
やがて、子供はスクスク育って、三月もすると、光り輝くような美しい娘になった。名を「なよ竹のかぐやひめ」といった。
この姫の類い稀《まれ》なる美貌《びぼう》のうわさを聞き付けた男たちが群れをなして求婚にきたが、姫は家の奥深くに篭《こ》もって、誰とも会おうとはしなかった。そうした男たちの中でも、とりわけ執心が強かった五人の貴公子たちの求婚に、根負けした姫は一つの提案をする。それは、五人のうちで、姫が望むものを持ってきてくれた者と結婚するというのである。
姫は、「仏の御石の鉢」「蓬莱《ほうらい》の玉の枝」「火鼠の袋」「龍の首の玉」「燕《つばくらめ》の子安貝」という、世にも珍しい宝をそれぞれ五人の男たちに所望するが、結局、五人の男たちは誰ひとりとして姫のもとにそれを持ってくることはできなかった。
やがて、かぐや姫のうわさは帝《みかど》の耳にまで入り、帝もまたかぐや姫に求婚するが、姫は帝の求婚さえ退けてしまう。
こうして三年ほど過ぎた頃、かぐや姫は月を見ては物思いに沈むようになる。そして、満月に近いある夜、姫はとうとう泣きながら、自分が月の都に住む者(天女)で、この世の人間ではないことを養父母に打ち明ける。そして、満月の夜に、月の世界から迎えが来て、自分は本国に帰らなければならないという。
養父母はそれを聞き、驚き嘆いて、そうはさせじと、帝が差し向けた二千人の警護に家の周囲を見張らせ、姫を家の中の土蔵に閉じ込めて守ろうとするが、結局、満月の夜やってきた月からの使者の魔力の前になすすべもなかった。
かぐや姫はそれまで着ていた衣を形見にと翁に残し、月の使者が携えてきた箱の中にあった「天の羽衣」(この衣には下界でのことをすべて忘れさせてしまう不思議な力があった)を纏《まと》うと、血の涙を流して別れを惜しむ養父母を尻目《しりめ》に、晴れ晴れとした様子で、天人に連れられて昇天していった。
その後、かぐや姫から、「不死の薬」と別れの手紙をもらった帝も、「あふことも涙にうかぶ我が身には、死なぬ薬も何にかはせむ」と嘆き、家来に、「この薬と手紙を駿河《するが》の国にあるという山の頂で焼け」と申し付ける。
それ以来、その山のことを、「不死の山」と言うようになった。今もなお、富士の山の頂から煙が立ちのぼるのはそのためである。
ざっとこんな話ではあるが、それにしても、かぐや姫はなぜ「竹」の中から生まれたのであろうか。
実は、この「竹」とは、「蛇」を表しているのである。「竹」は、その細長い形状ゆえからか、あるいは生命力の強さからか、古来より、「蛇」を象徴する木の一つと考えられてきた。
たとえば、有名なところでは、あの鞍馬山《くらまやま》の竹伐りの会式《えしき》を思い出して貰《もら》いたい。初夏の頃、二本の竹を大蛇に見立てて、二組に分かれた僧侶《そうりよ》たちが刀で切り刻み、伐る早さを競うことで、その年の豊凶を占うという神事である。
この「二本の竹を競いあって伐ることで豊凶を占う」神事とは、やはり、大蛇に見立てた太綱を二組に分かれて引き合い、その勝敗によって五穀の豊凶を占う、あの「綱引き」の神事と一脈通じるところがある。
竹も綱も、古くから穀神であり水神でもあった蛇を象徴したものなのである。
また、竹と蛇の関係については、以前、インドネシアのこんな民話を紹介したことがあった。
「モルッカ諸島の王が血を流している竹を発見し、切ってみると、中から四匹の蛇が出てきた。この四匹の蛇が生んだ卵が後にバチャン島などの王族の祖になった」
この民話では、竹から生まれたのは蛇であったとはっきりと書かれている。おそらく、こちらの話が原型であろう。
ということは、つまり……。
時の帝の心さえ動かしたという、絶世の美女の正体は「蛇」だったのである。さらに言えば、かぐや姫とは、「羽をもった蛇」である。
天人とは、本来、天空信仰(鳥信仰)と大地信仰(蛇信仰)が結び付いて生まれた、「鳥」と「蛇」との両方の神格をもつ「羽ある蛇」のことなのである。
もっと言えば、「羽ある蛇」とは、天空信仰をもつ民族が大地信仰をもつ先住民族を侵略征服していく過程で、その地に根付いていた蛇信仰を自らの鳥信仰に吸収合併した結果、新しく生み出された「複合神」なのである。
「鳥」とはその習性からして、「蛇」を襲い食うものである。しかし、「蛇」もまた、鳥の雛《ひな》や卵を襲い食うものである。自然界において、「鳥」と「蛇」とは互いに天敵同士というわけだ。
だが、「鳥」には、蛇にはない翼ゆえに大空を自由に飛びかう力がある。一方、「蛇」には、鳥にはない「不老不死」の力と、毒蛇に見られるような「毒性(同時に薬効性)」がある。天敵同士ではあるが、この二匹の力が結びつけば、空と大地を支配する、より強力な神が生まれると考えられたのだろう。
「羽ある蛇」については、前にも語ったように、古代アステカの太陽神ケツァルコアトルやマヤのククルカル神、あるいは、聖書の「熾天使」の例などがある。
さらには、ギリシャ神話の、蛇のからまった杖《つえ》を持ち、翼のついたサンダルをはいた、あの伝令の神ヘルメスも、この「羽ある蛇」の代表といえよう。
また、あの蛇女神メドゥサや雌龍ティアマトも翼ある姿で表現されることが多い。
しかし、やがて、時とともに蛇信仰は衰え、排斥され、「蛇を悪魔と見る」キリスト教の普及などにも伴って、「蛇」の輝かしい神格は地に堕ちてしまった。あの大天使ルシファーが地獄に堕ちたように。
それと同時に、「天人」や「天女」からも、悪とみなされた「蛇」の神格が消えて、「鳥」の神格のみがかろうじて残されたのである。
それでも、「天人」の本性が「蛇」であることは、実はきわめて暗示的な書き方で、民話などにも残っている。
たとえば、あの「天の羽衣伝説」である。