沢地逸子のコラムはここで終わっていた。
一気に読み終わって、蛍子は思わず大きなため息をついた。それは、様々な感慨のこもった複雑なため息だった。
沢地の文がつまらなかったわけではない。面白かった。面白さということだけをいえば、実に面白い。それは一読した正直な感想だった。しかし、この面白すぎるというのが問題といえば問題だった。
フェミニストを自認しているだけに、何でもかんでも「太母神」に関連づけてしまっていることや、全体的に、逆説のための逆説というか、逆説をいたずらにもてあそんでいるようなところが目について気になったが、それでも、「ヤマタノオロチは雌で、しかも日本の太母神であったイザナミノミコトの化身した姿」などというくだりは、独創的かつ常識の意表をついていて面白い。
古代史や記紀解釈の類いは蛍子の専門分野ではないから、あまりその方面に関して深い知識はなかったが、それでも、一般向けに書かれた本で話題になったものは一応目を通していた。
すくなくともその中には、「ヤマタノオロチは雌である」といった説は一つもなかったような気がする。ヤマタノオロチ斐伊川説にしても、他民族説にしても、大山(あるいは、奈良の大蛇神オオモノヌシと同一視して、三輪山《みわやま》説を唱える人もいる)説にしても、はたまた、火山の溶岩流説にしても、すべて、当然のように、ヤマタノオロチは雄であることを大前提にしていたようだ。それらの説を唱えた人たちが皆男性だったからだろうか。
「エ? ヤマタノオロチが雌? そんな馬鹿な」などと思いながらも、読んでいくうちに、それなりに納得してしまう。
もっとも、これは、論理的に説得力があるというより、語る言葉に力があるので、読む者をなんとなく引き込むというか、屈服させてしまうという意味での「説得力」ではあったが。
つまり、それは、論証を重ねて結論を導き出す、学者的な「説得力」ではなくて、言葉の魔力で読む者を引き込んでしまう、作家的な「説得力」だということだった。
ただ、蛍子にため息をつかせた一つの要因は、泉書房のような、これまで学術書を中心に出してきた「堅い」出版社で、このようなものを単行本化してもよいのだろうか、ということだった。
これが、著者の身辺のあれこれを綴《つづ》った類いのエッセイなら何も問題はなかった。沢地逸子が今までに出したエッセイ集はそういったタイプのものだった。だから、蛍子も、これを読む前は、てっきりそういったものだとばかり思い込んでいたのである。
しかし、読んでみるとそうではなかった。いわば、「太母神」をテーマにした彼女の「説」を書いたものである。もっとも、「説」の体を成すには、参考にした出典を明らかにするとか、いきなり、なんの論証もなく、「……である」と当然のように決めつける書き方は極力避けるべきだろうが、沢地はそれを平然と行っている。
沢地逸子の文章は、「説」と「エッセイ」の中間に属するような、なんとも珍無類なものだった。ようするに、自分の思いつきを何の論証もなく、そのまま書きとばしたものにすぎない。依頼された原稿というわけではなく、半ば趣味として、自分のホームページに、気が向いたときに書き上げてアップしたものだろうから、このような形になってしまったのは仕方がないといえば仕方がないのかもしれないが、蛍子が思い悩んでしまうのは、つい先だっても、いわゆる「トンデモ本」のことが編集部で話題になったからでもあった。
仕事がら、学者先生との付き合いも多い。そういった人たちからも、昨今の「トンデモ本」ブーム(?)は笑い事ではなくなってきたと愚痴をこぼされたばかりでもあった。
通称トンデモ本というのは、一言でいえば「一般常識を覆すようなとんでもない説を大まじめに展開している」本とでも言えばいいのだろうか。
もとは、科学の分野で多く見られたものだった。科学を装った「疑似科学」とも呼ばれている。たとえば、学界では半ば定説化しているダーウィンの進化論を否定して、聖書に書かれている通りの「神による天地創造」が実際に行われたということを「科学的に」説明した「創造論」などというのはその代表的なものだろう。
さらに、これまた物理学界では既に「実証」済みのアインシュタインの相対性理論を否定するというのも、「トンデモ人」の間では流行《はや》っているらしい。
あるいは、最近、大ベストセラーとなり、「日本の知性」を代表するジャーナリストからも絶賛されたという、「アトランティスは南極にあった」という珍説を「科学的」に証明した或《あ》る本なども、まさに「トンデモ」の典型的な例だそうである。
実は、蛍子自身、この本を非常に面白く読み、後でそのことを知って愕然《がくぜん》としたのだが……。
「トンデモ」の特徴とは、作者の目的がはじめから、「世間をあっと言わせる」とか「一般常識を覆す」ということにあるといってもよいだろう。
だからこそ、彼らは、ダーウィンとかアインシュタインとかコペルニクスとか、子供でも名前くらいは知っているような有名な科学者を「権威」として攻撃目標にしているのである。攻撃目標の知名度が高ければ高いほど、「世間をあっと言わせる」ことができるからだろう。
しかし、アインシュタインにしてもダーウィンにしてもコペルニクスにしても、最初から「世間をあっと言わせてやろう」とか「世の常識を覆してやろう」などという山師的な目的で、研究し、自説を発表したわけではあるまい。実験や論証や思索を地道に重ねていったあげくの果てに、結果的に、当時の常識を覆すような大発見に至ったものであろう。
ここが、いわゆる真の科学者と疑似科学者との天と地ほどの違いといえる。「常識を覆す」のは結果であって、それが目的であってはならないのだ。トンデモ人たちはそこを大きくはき違えている。本末転倒しているのである。
こうした「トンデモ」は科学の世界だけでなく、史学、とりわけ古代史関係の領域にも見られ、その顕著たる例が、「邪馬台国」に関するものだった。
一般によく知られた「近畿説」や「北九州説」以外にも、「沖縄説」や「四国説」や「信州説」なども唱えられており、その中でも、史上最強にして最悪と言われるほどのトンデモぶりを発揮しているのが、「邪馬台国エジプト説」であった。
殆《ほとん》どお笑い芸人が思いつきそうな駄《だ》洒落《じやれ》のオンパレード(たとえば、美濃タウルスなど)で成り立っている、この超珍説は、そのへんのおじさんがほろ酔い気分で思いついたというわけではなく、バイロンなどの翻訳紹介でも知られる明治の大インテリでもあった人によって「大まじめ」に唱えられているのである。今も昔も、「知識人」と言われる人の中には、奇人変人が少なくないので、驚くほどのことはないと言えばそれまでだが。
いわゆる「トンデモ本」が、批判力をもった読者によって、娯楽として笑って読まれているうちは別に害はない。いかにもいかがわしい本をそのいかがわしさを楽しむつもりで読むなら、それもひとつの楽しみ方ではある。
あるいは、著者の方も、とんでもない自説をフィクション仕立てにして、「小説」として提示するのならいっこうにかまわない。それが「小説」であれば、せいぜい、その作家のファンしか読まないだろうから、「珍説の被害」も最小限にくい止めることができるし、読者の方も、「小説」ということで、はなから眉《まゆ》に唾《つば》をつけて読むだろうから、作者がいかに巧妙な詭弁《きべん》を弄《ろう》したところで、その「珍説」を教科書に載せるべきだなどと主張するトチ狂った読者が現れる心配もない。
もっとも、これでは賛否両論を巻き起こすことはなく、それゆえに話題性にも乏しく、著書の売り上げは確実に落ちるだろうが……。
ただ、問題なのは、こうした「トンデモ」が一見まともそうな装丁で、これまた、一見まともそうな「知識人」の推薦文などを帯に刷り込んで、「まともそうな学説」として堂々と世に送り出された場合である。
ふだんはこうした類いの怪しげな本には手を出さないような、「知的」を自認する人まで、その見てくれにだまされ、うっかり手に取ってしまい、そこに書かれた内容を頭から信じてしまうこともありうるのだ。
たとえて言えば、一本五百円程度のワインを、一本何十万もする高級ワインの瓶に詰め替えて売れば、それを買った八割、いや、九割がたの人が、中身も高級だと思い込んでしまいがちだということだった。
自分の舌と頭だけで「味見」ができる人は、残念ながら、そうではない人たちよりも圧倒的に少ないのが現実なのである。
しかし、別に一本五百円のワインが悪いというわけではない。世の中には、一本何十万もするワインより、一本五百円の水っぽいワインの方が口に合い、おいしいと感じる人も少なくないかもしれない。それに、安いワインと高級ワインとを用途によって使い分けて楽しんでいる人もいるだろう。一本五百円のワインにもそれなりの需要と存在価値があるのである。
ただ、五百円のワインを何十万のワインと偽って、あるいは、勘違いするように仕向けて売るのは違法行為であり、たとえ違法にはならなくても、インチキ商売と言われても仕方がないのではないか。
それと同じように、いかがわしい内容の本と知りながら、まともを装って売ったとしたら、犯罪行為とまでは言われなくても、その出版社の信用はがた落ちになるだろう。
天照大神は「女装した男王」をモデルにしたものであるとか、須佐之男命が「逆剥《さかは》ぎにした馬の死体」とは、実は人間の死体ではなかったかとか、かぐや姫は「羽ある蛇」であるとか、ヤマタノオロチの項で、「……珍説奇説をあげたら枚挙にいとまがない」などと揶揄《やゆ》するように書いている沢地のエッセイそのものが、まさに「珍説奇説」のオンパレードで、「トンデモ本」的な匂《にお》いがぷんぷんするのである。人は他人の体臭には敏感でも、自分の体臭にはなかなか気づかないものらしい。
もし、これをそのまま単行本化したら、泉書房がこれまで培ってきた信用と評価を落とすことになるのではないだろうか……。
蛍子はそんなことまで心配していた。
とはいうものの……。
沢地の「説」におおいに批判的になりながらも、彼女の「説」のすべてを荒唐|無稽《むけい》と退けたわけではなかった。実は、「もしや」と思うところも多々あったのである。理性では批判の方に傾きながらも、感性では、彼女の「説」に心ひかれるものがあった。
それは、蛍子が沖縄に生まれ沖縄に育ったせいかもしれなかった。
沢地の「説」への批判をとりあえず棚上げにして、もし、ヘラやアルテミスやカーリーや、そしてイザナミノミコトまでが「太母神」だったというのならば、琉球《りゆうきゆう》の祖と言われているアマミク女神もまた、この「太母神」だったのではないかと、ふと思ったのである。
おそらく、沢地逸子もそう感じていたのではないだろうか。だからこそ、昼間、ホテルのロビーで会ったとき、彼女は、蛍子が沖縄出身であることにさりげなく触れ、アマミクの話を聞きたがったのだろう。
彼女のエッセイを読んでみて、なぜ、あのあと、会食の最中も、沢地がしきりにアマミクの話題を続けたがったのか、ようやく合点がいくおもいがした。
さらに勘ぐれば、彼女がなぜ自分のホームページを単行本化するという企画を、これまでエッセイ集を出した大手出版社ではなく、泉書房のような「中堅」どころに持ち込んだのか。その理由もなんとなく分かったような気がした。それは、泉書房が学術書を中心に出していることで定評を得ている出版社だからであり、担当の編集者が沖縄出身であったからに違いない。
確かに、古代の琉球に、はじめて「稲と火」をもたらしたとされているアマミクは、大地の女神と火の女神との両方をあわせもつ「太母神」であるようにも見える。
また、沢地から聞いた話では、アマミクの額には二本の角が生えていたという伝説があるそうである。アマミクの「角」のことは、蛍子は寡聞にして知らなかったが、沢地は、エジプトの女神イシスも、しばしば二本の牛の角を生やした姿で表現されることがあると言っていた。これは、女神に雄牛の生き贄《にえ》が捧《ささ》げられたことを意味しているという。
また、イシスが手に「稲穂」をもった像として表現されていることからも、沢地はどうやら、このエジプトの太母神イシスがなんらかの形で、沖縄に伝わり、それがアマミクとして定着したのではないかと考えているようだった。つまり、アマミクもまたイシスがそうであったように、蛇女神ではないかというのである。
そう言われてみれば、沖縄では、古くから一種の蛇信仰とでもいうべきものが存在していた。もともと亜熱帯地方特有の、蛇の多い土地柄でもあり、毒蛇ハブといえば、半ば沖縄の代名詞にもなっているくらいである。しかも、海蛇イラブーは、食用にもされるが、古くから、「神の遣い」として神聖視されており、イラブーを捕まえることが許されているのは巫女だけだった。
イラブーとは、まさに、海の向こうであるニライカナイからやってきた「太母神」アマミクの遣い蛇であり、女神自身であったのかもしれない……。
蛍子はそんな思いにもとらわれていた。