七月十二日。午後七時半。
安藤良美は、もう一度指に力をこめてインターホンを押した。
しかし、「SIGEYUKI SIBATA」という表札の出たドアからは何の反応もない。
ドアの横手の窓には明かりがついていなかった。
留守かな……。
良美はがっかりしながら思った。
一時は絶望的とまで言われた祖母の容体が明け方近くになって奇跡的に回復し、しばらく様子を見ていたのだが、だいぶ容体も安定してきたというので、後は完全看護の病院に任せて、良美が家族とともに自宅に帰ってきたのは夜になってからだった。
そのことを真っ先にボーイフレンドの繁之に知らせようと、彼の携帯に電話したのだが、何度かけても、呼び出し音は鳴るのに、繁之は出なかった。
もしかしたら、デートをドタキャンしたことをまだ怒っていて、わざと無視しているのかもしれない。
良美はそんな風に勘ぐった。そこで、電話をするのはあきらめ、直接、繁之に会って謝ろうと、彼のアパートまでやって来たのだが……。
三度インターホンを鳴らしたが、いっこうに反応がない。
留守かと思い、いったんはドアの前を離れ、外付けの階段をおりかけたが、ふと思い返し、戻ってくると、念のためというつもりで、ドアノブを回してみた。
すると、鍵《かぎ》がかかっているとばかり思ったドアが難なく開いたではないか。
あれ。留守じゃないの? それとも、鍵をかけ忘れて出掛けちゃったのかな……。
良美は不審に思いながらも、ドアを開けて中に入った。明かりはついていなかった。反射的に、玄関先の壁にある電灯のスイッチを手探りでひねった。天井にはめ込まれた蛍光灯が、二、三度瞬いて、ぱっと灯《とも》った。足元を見ると、見慣れたスニーカーが狭い玄関に脱ぎ捨てられている。繁之がよく履いているものだ。
やっぱり、いるんじゃない。
とっさにそう思ったが、部屋のなかは妙にシンと静まりかえって、人の気配がしない。
「シゲ。いるの?」
そう声をかけてから、良美はサンダルを脱いであがった。
玄関を入ると、すぐに三畳ほどの狭いキッチンになっている。いわゆる2DKというタイプだった。六畳と四畳半の洋室が二部屋ついていた。
繁之は、狭い方の部屋を半ば物置代わりに使っており、広い方の部屋にベッドを置いて、生活の拠点としていた。
広い方の部屋のドアが半開きになっていた。良美は、その明かりの消えた部屋に足を踏み入れた。
やはり入り口近くの壁に取り付けられた電灯のスイッチをひねると、天井の明かりがぱっと灯った。
繁之はそこにいた。仰向《あおむ》けに寝ている。奇妙なことに、彼はベッドではなく、床にじかに寝ていた。ベッドのそばには座卓があったはずだが、それは隅に片付けられている。
さらに奇妙なことに、繁之は、どういうつもりか、冬用の分厚い羽毛布団を身体《からだ》に掛けていた。良美はその掛け布団の柄に見覚えがあった。いつだったか、繁之が愚痴っていた布団だ。この部屋を借りたとき、一緒に上京して来て、家具や生活用品などの手配をしてくれた母親が、こんな女の子が使うような花模様の派手な布団を買ってきたと。結局、それは一度も使われず、押し入れにしまいこんだままになっていたはずだ。
そんな掛け布団をわざわざ引っ張り出してきて、この夏場に顔が半ば隠れるほどすっぽりと被《かぶ》っている……。
しかも、毛深い両脚が臑《すね》のあたりからニュッとはみ出しており、良美は、その妙にシュールな光景に、「シゲの脚ってこんなに長かったっけ?」と思った。
繁之の身長は百七十センチそこそこだと思うのだが、それにしては、横たわっている繁之はやけに長身に見えた。脚だけが異様に長く見える。さらに、その脚が妙な具合にねじれたような格好になっていた……。
鼻のあたりまで掛け布団に覆われた顔は目を閉じていたが、なぜか、ひどく青白い。青白いというより、真っ白で血の気が全くなかった。良美は、中学の頃、美術教室に飾ってあった石膏《せつこう》像を連想した。
顔だけではない。布団からはみ出している、両足も石膏色をしていた。
「シゲ……」
良美は派手な布団を被って寝ている男の顔を見下ろしたまま呟《つぶや》いた。
寝ているんじゃない……。
良美の本能がそう告げていた。ふいにドクンドクンと音を立てて鳴りはじめた心臓の音とともに。
この部屋で何かが起こった。起こってはいけないような何かが。でも、何が起こったのか分からない。それにこの臭い。部屋中にたちこめている、この饐《す》えたような生臭いような厭《いや》な臭いは何? 気分が悪い。吐きそう。ここから出たい。でも、その前に確かめなければ。
この部屋で何が起こったのか……。
それは、繁之の身体をすっぽりと覆っている、あの羽毛布団を取りのけてみれば分かるのではないか。良美はボンヤリとそう思っていた。
あの布団を……。
そのとき、ふいに、どこからか、間のびのしたのどかなメロディが聞こえてきた。人気アニメ「ドラえもん」のテーマ曲だ。繁之の携帯がどこかで鳴っているのだ。
こんなこといいな。
できたらいいな……。
子供の頃から聞き慣れた「ドラえもん」のメロディに励まされたように、それまで動かなかった良美の足がぎこちなく一歩踏み出した。自分の足ではないような妙な感覚だった。
そして、ボーイフレンドの身体を覆っている布団の端を手でつかむと、一気にそれを剥《は》ぎ取った。
布団の下から出てきたものは……。
外国のシュールリアリストの絵か何かでこれと似たようなものを見たことがある。
良美は悲鳴もあげずにそれを見ていた。
それはこの世に存在してはいけない光景だった。