「……手足が……ノコギリか何かで切断されていたんだって……」
喫茶店の窓際の席に着き、ウエイトレスが持ってきてくれたおしぼりで手を拭《ふ》いていると、声を潜めるようにして話す男の声が耳についた。
喜屋武蛍子は何げなくその声の方を見た。ランチタイムということもあって、数人の若い男女がかたまって、サンドイッチやスパゲティなどをぱくついている。
申し合わせたようにラフな服装であることや、教科書らしきものを持っているところから見て、おそらく大学生か予備校生だろう。この軽食喫茶の周囲には大学や予備校が密集していた。
「首も切断されてたんだってね。きもーい」
女の子のかん高い声が混じった。
どうやら、学生たちが話題にしているのは、土曜の夜に中目黒で起こった猟奇殺人のことらしかった。
二十一歳になる、柴田繁之という大学生が下宿先のアパートで、頭部、四肢を付け根からノコギリ状の凶器で切断された状態で発見されたのである。遺体を最初に発見したのは、被害者と交際していた若い女性だったという。
新聞やテレビなどの報道によると、遺体は五カ所に切断されていただけではなく、左胸部がナイフのようなもので深く抉《えぐ》られ、心臓が抜き取られていた。そして、抜き取った心臓の代わりに、なんのつもりか、テニスボール大の黄色いゴムボールが埋め込まれていたという。さらに、抉り取られていたのは、心臓だけではなかった。生殖器も根元から切断されていたらしい。
交際相手によって発見されたとき、このような凄《すさ》まじい凌辱《りようじよく》を加えられた遺体の上には、それを隠すように、冬用の羽毛布団がすっぽりと掛けられていたという。
抉り取られた心臓と生殖器は、被害者の部屋からは発見されず、犯人が持ち去ったものと思われていた。
「やめてよ、そんな気持ち悪い話。食欲なくすじゃない」
べつの女子学生らしい声が響いた。
「でも、なんで首とか手足とか切断したんだろうね。どこかに運ぼうとしてたわけじゃないみたいだし、わざわざ解体する意味ないと思うけどなあ」
「異常者だよ、犯人は。切り刻みたいから切断しただけだろ。それだけだよ。理由なんかないさ」
「ペニス切り取ったり、心臓抉り取って、黄色いゴムボールを代わりに押し込めたのも理由なき行為ってわけ?」
「サイコな奴らのやることにいちいちまともな動機とか意味とかないんだよ……」
学生たちの話を聞くともなく聞いていた蛍子の目が、扉を開けて現れた若い女性の姿に注がれた。
知名祥代だった。
今朝方、会社から、祥代の携帯に連絡をいれて、「お昼を一緒にしないか」と誘っておいたのである。祥代の通う医大はこの近くにあった。むろん、昼ごはんを食べるというのは口実で、火呂のことで祥代に聞きたいことがあったからだった。
昨日、夕方近くになって、火呂はひどく疲れたような顔でマンションに戻ってきた。豪の言っていた「母さんの手紙」のことが気になっていたので、それとなく火呂に聞いてみると、「手紙といっても、別にたいしたことが書いてあったわけじゃない」というのが返事だったのだが、蛍子は、そのときの火呂の様子になんとなく不審なものを感じとっていた。
何かある。何か隠している。そう直感したのである。が、あえて、それ以上の追及はしなかった。自分の決めたことは何がなんでもやり通すというような、良くも悪くも、強情なところのある娘なので、へたに追及すると、いよいよ貝になってしまいかねなかった。
それよりも……。
ふと思いついたことがあった。祥代だ。幼なじみで大親友の祥代になら、弟や叔母《おば》に話せないようなことでも打ち明けているかもしれない。だとしたら、本人から聞くよりも祥代から聞き出した方が早い。そう思ったのである。
「朝から実習があって、もうクタクタのおなかペコペコ」
祥代は、蛍子の向かいに座ると、すぐにそう言った。
「何でも注文して。わたしの奢《おご》りよ」
蛍子がそう言うと、祥代は嬉《うれ》しそうに笑って、
「ラッキー。最近、まともなもの食べてないんです。ここ、タラコスパゲティがけっこういけますよ」と言った。
「じゃ、わたし、それにするわ」
注文を聞きにきたウエイトレスに「タラコスパゲティ」を注文すると、祥代も同じものを注文した。
「土曜日はごめんなさいね」
蛍子が言うと、祥代はきょとんとした顔をした。
「土曜?」
「火呂がまたお邪魔したそうで」
そう付け加えると、
「……」
祥代は蛍子の顔をじっと見つめたまま黙っている。メタルフレームの眼鏡をかけ、火呂同様、化粧っ気のとぼしい顔には、困惑に近い表情が浮かんでいた。
「違うの? 火呂から電話があって、土曜の夜はあなたのマンションに泊まるって……」
そう説明すると、祥代はようやく話を理解したらしく、一瞬、「しまった」という表情になった。
「あ、そのことですか。それなら……」
取り繕うようにすぐにそう言ったが、その顔には、どぎまぎしたような色が浮かんでいた。
どうやら、土曜の夜、祥代のマンションに泊まったという火呂の話は嘘《うそ》だったようだ。蛍子は、祥代のうろたえる様から、そう確信した。
「あなたの所に泊まったというのは嘘だったのね?」
やや問い詰めるように聞き返すと、祥代は渋々という表情で頷《うなず》いた。
「いつも外泊するたびに、あなたの所に泊まったって言ってたけれど、それも嘘だったのかしら……?」
やんわりと追及すると、祥代は慌てたようにかぶりを振った。
「いいえ、それは本当です。でも……」
と口ごもり、「昨日は……泊まってません」と告白した。
祥代の話では、土曜の夜は沖縄の実家に帰っていたのだという。弟の容体が思わしくないという母からの電話をうけて、数日前に慌てて帰郷したということだった。
祥代には、一希《かずき》という名前の八歳になる弟がいたのだが、この弟は、生まれつき、片方の心室しか働かないという重い心臓病を患っており、生まれて八年間というもの、殆《ほとん》ど寝たきりのような生活をしていた。
祥代が一浪してまで医大に行くことにこだわったのは、この死と背中合わせに生まれてきた幼い弟のことが大きな動機であったらしい。
いつか日本でも子供の心臓移植が行われるようになったら、そのときは、現場に居てメスを握り、弟のような子供を一人でも多く助けたいのだと、いつか上京したばかりの頃、祥代は熱っぽく蛍子に語ったことがあった。
女の友情は壊れやすいなどとよく言われるが、火呂と祥代の間に、単なる幼なじみという関係以上の「友情」が生まれ、それが十数年にもわたって途切れることなく続いているのは、いまどきの女子大生には珍しいといってはなんだが、祥代のこの真摯《しんし》でひたむきな性格にあるといってもよかった。
「どこに泊まったか、心当たり、ない?」
そう聞いてみると、祥代は、「さあ」というように首をかしげた。
「今、誰か付き合っている人とかいるのかしら……?」
さらに探りを入れてみると、
「友達程度の人はいるかもしれないけれど、深いお付き合いをしている人はいないんじゃないかな。そういう人がいたら、絶対、わたしに話してくれるはずです」
祥代はきっぱりと言い切った。正面から蛍子の目をまっすぐ見据えている祥代の顔に嘘やごまかしの類いは感じられなかった。
「豪がね」
蛍子は話題を変えるように言った。
「姉さんが亡くなる直前に、病室で、火呂に手紙のようなものを渡したって言ってるのよ。祥代さん、あなた、そのことで火呂から何か聞いてない?」
「おばさんからの手紙……ですか?」
祥代は思い出すような目でしばらく記憶を手繰《たぐ》り寄せるように考えていたが、やがて、小首をかしげ、
「何も……何も聞いてないです」
と答えた。
「そのあと、火呂の様子がどことなくおかしくなったって、豪は言ってるんだけれど……」
蛍子は独り言のように呟《つぶや》いた。
「あ、でも」
祥代が何か思い出したようなはっとした顔つきで言った。
「わたしもそれ感じたことあります。おばさんが亡くなるちょっと前から、火呂の様子がなんか変だなって……」
「変ってどんな風に?」
「たとえば……話しかけても上の空って感じで、いつも何か一人で考えこんでいることが多くなったし、あまり笑わなくなったし。そのときは、おばさんの病気のことを心配してるのかなって思っていたんですけど。そういえば……」
祥代は何か思い出したように付け加えた。
「変っていえば、先月……ちょっと気になることがあったんです」
「気になること?」
「ええ。火呂と新宿の映画館に行ったときです。売店の所でパンフとか買っていたら、火呂に声かけてきた人がいたんです。ちょうどわたしたちくらいの年齢の若い女性でした。火呂のことを、友達か何かと間違えたらしくて、『クズハラさん』なんて呼んで……」
「クズハラ? 火呂のことをそう呼んだの?」
「そう聞こえました。『クズハラさん、髪、切ったの?』とか、そんなことを親しげに話しかけてきたんです」
髪を切った……?
ふと蛍子の脳裏に、先日、豪から聞いた話が蘇《よみがえ》った。豪の友人が原宿で見かけたという火呂によく似た若い女性は髪が長かったという話を……。
「すぐに人違いだと相手も気づいたみたいなんですけど、そのクズハラという人に火呂がすごく似てたみたいなんです。でも、変なのは、そのあとの火呂の様子なんです。クズハラという人に間違われたことがよっぽどショックだったらしくて、急に無口になってしまって、映画も殆ど上の空だったみたい。後で、喫茶店に寄って話したとき、映画のストーリー、全然覚えてなかったみたいだもの。火呂の方が前から観たい観たいといって、誘った映画だったのに……」