翌日。
蛍子が帰宅したのは、午後十一時を既に回った頃だった。
部屋に入って、すぐに小さな異変に気が付いた。火呂の持ち物が幾つかなくなっている。あのノートパソコンもなくなっていた。おそらく、昼間、留守中に火呂が来て、必要なものを持って行ったのだろう。
そう考え、ふとテーブルを見ると、「蛍子|叔母《おば》さんへ」と書かれた封筒があった。朝出るときはなかったものだ。火呂が来たときに置いて行ったものらしい。
蛍子は着替えもそこそこに、その封筒を開けた。中には手書きの手紙が入っていた。ここで走り書きしたらしく、やや乱れた字体で書かれていた。
蛍子叔母さん、昨日はごめんなさい。
豪のことで頭に来ていたので、つい、叔母さんにまで、ひどいことを言ってしまいました。「関係ない」なんて言って悪かったです。叔母さんにはとても感謝してます。これは本当です。私だけでなく、豪まで引き取ってくれたことに……。
私たちと同居するはめになって、自由がなくなったのはむしろ叔母さんの方だったんですよね。叔母さんの優雅な独身生活を破壊してしまったのは私たちの方だったのに、自分の方が被害者みたいなことを言って。叔母さんが怒るのも当然です。本当に反省しています。
叔母さんの帰りを待って、ちゃんと謝りたかったのですが、顔を見ると、また心にもないことを言ってしまいそうで……。
それに、バイトにも行かなければならないので、手紙を書くことにしました。この方が自分の気持ちを正確に伝えられそうな気がするし。
土曜のことですが、サッチンの所に泊まったというのは嘘《うそ》です。本当は、和歌山に行っていました。夜は、そこのビジネスホテルに泊まりました。もちろん、一人で、です。和歌山に行ったのは、ある人の遺族に会うためでした。結局、会えませんでしたが……。
そのある人というのは、葛原《くずはら》八重さんという女性です。この名前に見覚えありませんか? といっても、二カ月近くも前、新聞の片隅に小さく載っていた死亡記事の中にあった名前だから、きっと、叔母さんは覚えていないでしょうね。
でも、私にとっては、一目見るなり、天と地がひっくりかえるほどのショックを与える名前だったんです。
新聞の片隅に小さく載っていたのは、五月の連休の最中に、都心の高速で起きた交通事故の記事でした。その事故の犠牲者が、葛原八重さんだったのです。そのとき、新聞には葛原さんの住所も書かれていました。私は、手帳にこの住所を書き留めておきました。いつか、この人の遺族に会いに行くことがあるかもしれないと思ったからです。
でも、すぐにはその決心がつかず、ようやく、決心がついたのは、先月、サッチンと新宿に映画を観に行って、そのとき或《あ》ることがあったからです。偶然がこうも重なると、私はこのことから逃げてはいけないのではないかと思うようになりました。葛原八重さんの遺族に会おうと決心しました。それで、あの日、思いたって、手帳に書き留めておいた住所を頼りに和歌山に行ったのです。日帰りで帰ってくるつもりでしたが、疲れていたこともあって、夜は、そのまま目についたビジネスホテルに泊まりました。
なぜ、私が、葛原八重さんの遺族に会いに行こうとしたのか、その理由については、今は詳しいことは書けません。サッチンの所に泊まったなんて嘘をついたのも、この理由を話したくなかったためです。
このことについては、私の中で、まだ整理がついていないからです。母さんの手紙を読んだとき、一度は、封印したはずの思いでしたが、やはり封印しきれなかったようです。
いつか、気持ちの整理がきちんとついたら、叔母さんにすべて打ち明けます。それまで、もう少し待ってください。
それと、叔母さんや豪と言い争って、衝動的にサッチンの所に来てしまったように見えるかもしれませんが、実は、前から、サッチンとは、一緒に暮らそうかという話が出ていたんです。でも、今のサッチンのマンションはワンルームで、二人で暮らすには狭すぎるので、もっと広い物件を見つけてからと先延ばしにしていたのですが、ちょうど手頃なのが見つかりそうなんです。お家賃も二人で折半すればなんとかなりそうです。具体的に話が決まったら、そのときは、もちろん報告します。
それと、我がままばかり言って本当に申し訳ないですが、豪のことはもうしばらく面倒みてやってください。まだ未成年だし、保護者が必要です。せめて、高校を出るまでは……。でも、私のことは大丈夫です。これ以上、私のことで心配しないでください。叔母さんに心配かけていると思うと心苦しいんです。嘘をついたことは悪かったですが、私は自分の心に恥じるようなことは何ひとつしていません。それは誓って言えます。それだけは信じてください。
PS 豪のこと、よろしくお願いします。
[#地付き]火呂
火呂の手紙を読み終わって、蛍子は、なんとなくほっとしている自分に気が付いた。その手紙の中には、蛍子がよく知っている姪《めい》の姿があった。勝ち気で喧嘩《けんか》早いところもあるが、根は率直で情深い。「火呂」とは、よくも付けたものだと感心するほど、この名前は姪の性格を表していた。その性格の中心部には、「火」があるのだ。
良くも悪くも、火呂の中には、燃え盛る火が存在している。その火は、接する人の心を温め、慰めてくれる。しかし、時には、それが火山の爆発のような激しい火になることもある……。
弟とあれほど罵《ののし》りあって別れたというのに、手紙では、その弟のことを心配するようなことを書いている。まさに、火呂の中に入り混じって存在している、激しい火と優しい火とをかいま見る思いがした。
蛍子は、半ば直感的に、火呂の手紙の内容は信じられると思った。たぶん、ここに嘘はひとつもない。
しかも、よく見ると、封筒の中には、数枚の便せんと一緒に、一枚の薄い紙が入っていた。ビジネスホテルの領収書だった。日付は、七月十一日、土曜日となっており、受け取り人の名前は「照屋火呂様」となっていた。それを見る限りにおいて、火呂があの夜、そのビジネスホテルに一人で泊まったことは間違いないようだった。
少なくとも、これで、土曜の夜どこにいたかということは明らかになったわけである。いくら疑心暗鬼になっていたからとはいえ、あの娘が売春をしているのではないかとか、もっと悪い想像までした自分を、蛍子は恥ずかしくさえ感じた。
とはいえ、火呂自身も手紙に書いているように、これで、彼女の言動の不可解さがすべてつまびらかになったわけではない。
火呂と葛原八重という女性がどういう関係にあるのか。なぜ、五月の連休時に、事故で死亡したという女性の遺族に、火呂が会いに行かなければならなかったのか。そして、そのことを嘘をついてまで、叔母である自分に隠さなければならなかったのか。
その理由はいまだに謎《なぞ》のままである。
葛原八重という名前にも全く心当たりがなかった。火呂の手紙には、この名前は新聞に載っていたとあるが、蛍子の記憶には残っていなかった。たとえ、その記事を目にしていたとしても、ありふれた交通事故死として読み流してしまったのかもしれない。
ただ、先日の祥代の話では、新宿の映画館で、火呂が、「クズハラ」という女性と間違えられたということだった。手紙の中にある、「或ることがあって」というのは、このことに違いない。だが、この「クズハラ」という女性が、葛原八重であるとは考えられない。考えられるのは、姓が同じであることから見て、火呂が間違えられた「クズハラ」という女性が、亡くなった葛原八重の遺族であったという可能性である。これならありうるかもしれない。ということは、火呂は、自分によく似ているという、この「クズハラ」という女性に会いに行ったということなのだろうか……。
しかし、ひとつはっきりしたことは、やはり、火呂の不可解な言動の発端は、康恵が亡くなる直前に、病室で手渡した手紙にあるらしいということだった。
おそらく、「葛原八重」という名前も、その康恵の手紙の中に書かれていたものに違いない。だからこそ、火呂は、ふつうなら読み過ごしてしまうような小さな新聞記事に目を止めたのだろう。
すべては康恵の手紙を読めば分かるような気がした。でも、今はまだその時期ではないらしい。火呂は、「気持ちの整理がついたら、すべてを打ち明ける」と言っている。それならば、それを信じて待とうと、蛍子は思った。
そう決心すると、さっそく、自分の気持ちを伝えるために、火呂に返事を書くことにした。ノートパソコンを持って行ったようだから、メールを出しておけば、そのうち読んでもらえるだろう。
蛍子は、ノートパソコンの電源を入れると、メールソフトを立ち上げ、返事を打ち始めた。
「手紙、読みました。すべて了解しました。火呂が何もかも話してもいいという気持ちになるまで、私はいつまでも待ちます。
なお、祥代さんとの同居の件は、私は賛成です。彼女ならしっかりしているし、ルームメイトとして申し分ないと思います。一人暮らしをされるよりも、私としては安心できます。豪のことは心配しなくてもいいです。私が責任をもって引き受けます。それと、ここの合鍵《あいかぎ》はそのまま持っていてください。いつでも帰ってこれるように……」
蛍子はそこまで書き、署名を入れかけて、ふとタイピングの手をとめ、しばらく考えてから、「追伸」としてこう付け加えた。
「PS 今まで口に出して言ったことはなかったけれど、此《こ》の際だから、これだけは言っておきます。私は、あなたたちと暮らすようになって、ただの一度も、自由をなくしたとか、優雅な独身生活を破壊されたとか思ったことはありません。会社から身も心もくたくたになって帰ってきたとき、部屋に明かりがついているのを見て、慰められたことは何度かあったとしても……。
[#地付き]蛍子」
それだけ書くと、蛍子は、迷わず送信ボタンをクリックした。自動的に回線が接続され、メールが送信されはじめた。その様を画面で見ながら、思っていた。
人は、案外、「追伸」という形で、一番言いたいことを書くものだな、と……。