マンションに戻ってくると、豪はまだ帰ってはいなかった。アマチュアバンドのコンテストの予選が間近に迫っているとかで、ここ数週間、朝から晩までバンド仲間と練習に明け暮れているらしく、今日も朝早くからギターケースをさげてどこかに出掛けて行った。帰りも遅いのだろう。
蛍子は、シャワーを浴びてくつろげる格好に着替えると、火呂から預かってきた康恵の手紙を取り出し、再び読み返してみた。何度読んでも、信じられないという思いの方が強かったが、同時に、ほっと胸を撫《な》で下ろしてもいた。
この手紙を読んで、ようやく、姪《めい》の不可解だった言動の謎《なぞ》がすべて解けたからだった。
康恵の病死を境に、なぜ火呂が弟に対して距離を置くような態度を取るようになったのか。そして、先日、売り言葉に買い言葉的な弾みとはいえ、叔母である自分にむかって「関係ない」などという言葉を投げ付けたのか。
火呂が姉の生んだ子ではないということは、豪や蛍子とも血のつながりは全くないということであり、火呂はそのことをずっと気に病んでいたのだろう。
そういえば、子供の頃はもっとストレートに甘えてきたような記憶があったが、同居するようになってからは、どことなく遠慮がちだったことを、蛍子は思い出していた。
今となっては、そうした言動に出てしまった火呂の屈折した心理が痛いほど分かる。
それにしても、と蛍子は自嘲《じちよう》ぎみに思った。
いくら疑心暗鬼になっていたからとはいえ、よくもあんなことを思いついたものだ。火呂が、「真女子」というハンドルで沢地逸子のホームページの掲示板に妙な書き込みをしたり、中目黒で起きた猟奇殺人ともかかわっているのではないかなどと……。
例の事件の方は、発生してから一月近くがたっていたが、まだ犯人は捕まっていなかった。マスコミは連日のように騒ぎたてていたようだが、最近は、新たな「発見」もないのか、あるいは、より目新しい事件の方に興味が移ってしまったのか、報道合戦の方もやや下火になっているようだった。
沢地逸子のホームページにも、あれから何度もアクセスしてみたが、掲示板に「真女子」名の書き込みはなかった。おそらく、あの書き込みは事件とは無関係だったのだろう。
蛍子はそう思いはじめていた。沢地逸子も、あのあと、自分の考えすぎだったと思い直したらしく、ホームページのことは警察には話さなかったようだ……。
康恵の手紙を手にしたまま、蛍子がぼんやりとそんなことを考えていると、玄関の方でドアの開くような音がした。豪が帰ってきたらしい。思ったよりも早い帰宅だった。何かあったのか、ドアの閉め方がいつもより荒々しかった。
手紙を部屋に置いて、リビングに行ってみると、豪は、持っていたギターケースをソファにたたきつけるように放り出していた。
よく見ると、喧嘩でもしてきたのか、口のあたりを紫色に腫《は》らしている。
「どうしたの? その顔」
生傷を作って帰ってくるのは、半ば日常茶飯事だったから、さして驚きもせずに挨拶《あいさつ》代わりに聞くと、豪は、「ボーカルの沖野と喧嘩した」と答えた。なんでも、ボーカル担当の同級生が、「受験勉強に専念したいからバンドをやめる」と突然言い出し、それで喧嘩になったのだという。
「予選間近になって、急にやめるなんて言い出しやがって。今度のはただのコンテストじゃないんだ。あの宝生《ほうしよう》が審査員やってるんだぜ? たとえ優勝できなくても、やつの目に止まりさえすれば、プロデビューも夢じゃないっていうのに。沖野の野郎、プロになんかどうせなれっこないなんてぬかしやがって……」
豪はそんなことを言いながら、悔しそうに、かたわらのクッションを拳《こぶし》で殴った。
「あの宝生」というのは、音楽プロデューサーの宝生|輝比古《かがひこ》のことだろう。最近の音楽界のことはまるで疎い蛍子だったが、宝生輝比古が、今や、まだ三十そこそこという若さでありながら、「音楽界の若きカリスマ」だの「音の錬金術師」などの異名を取るほど、この世界では絶大な影響力を持つ存在であるらしいことは知っていた。
たしか、豪くらいの年齢の頃に、有名音大の付属に通いながら、同級生とバンドを組んでロック界に衝撃デビューを果たし、あっという間にスターダムにのしあがったかと思うと、人気絶頂のさなかに、あっさりとそのバンドを解散して、その後はソロ活動に転向したと聞いていた。
ソロに転向した後がまた華々しかった。主に作曲とプロデュースを中心に活動していたようだが、作る曲はことごとくオリコンのチャート上位を占め、手がけたアーチストは、殆《ほとん》ど例外なくメジャーになっているという。まさしく、「音」を「黄金」に変える魔の指をもつ「錬金術師」と言えた。
普通、プロデューサーなどというと、表舞台には出ない「陰の実力者」というイメージが強いのだが、彼の場合は、もともとがビジュアル系のバンド出身ということもあってか、表舞台でもアーチスト以上に目立っていた。
もっとも、豪に言わせると、この宝生に関しては、「ちょっとサイコな噂《うわさ》」が絶えないのだという。日本を代表するオペラ歌手だった亡母の蝋《ろう》人形を作らせて一緒に暮らしているだの、子供の頃から、無類の爬虫類《はちゆうるい》好きで、芝にある広大な屋敷の中は、蛇やらトカゲやらイグアナなどの爬虫類の水槽だらけで、まるで水族館のようだとか……。
しかも、身につけるのは、動物の革だけ、中でも爬虫類の革で作ったスーツを好み、一説によれば、新しいスーツの素材は、飼っているペットの中から調達しているとか……。
そう言われてみれば、いつか週刊誌のグラビアで見た宝生は、蛇だかトカゲだかの革をなめして作った紫色のスーツ姿だったせいか、どことなく彼自身が爬虫類であるような印象を受けたことがあった。
「……豪、ちょっと話があるんだけれど」
豪の興奮がおさまるのを待って、蛍子はようやく切り出した。
「話?」
「火呂のことなんだけれど……」
そう言うと、豪の顔に、既に何かを察したような表情が浮かんだ。あまり物事を深く考えたり分析したりして動くタイプではなかったが、けっして鈍感ではなかった。単細胞なりに動物的勘が人一倍発達しているというか、漠然とした危険や不安に対して半ば本能的に反応するようなところがあった。
叔母のいつになくあらたまった口調や態度から、何か自分にとって良くない話を聞かされるのではないかと、すぐに察知したようだった。一瞬、身構えるような表情になった。
「ちょっと待ってて」
そう言い残して、蛍子はリビングを離れ、例の手紙を持ってくると、それを豪の目の前に突き出した。
「火呂がこれを読んでって」
豪は、すぐには手を出さず、手榴弾《しゆりゆうだん》でも突き付けられたような目で、目の前の封書を見ていたが、「何、これ?」と聞いた。
「康恵姉さんの手紙。亡くなる直前に病室で火呂に渡したという……。ちょっとショッキングなことが書いてあるから、後で一人で読んでくれてもいいけれど」
蛍子がそう言うと、甥《おい》を気遣う言葉が、かえって、少年の負けん気を誘発してしまったらしく、
「いいよ、今、読む」
豪はそう言って、その手紙をひったくるようにつかみ取ると、無造作に中の便せんを取り出した。そして、蛍子の目の前でそれを読み出した。
時折、貧乏揺すりをしたり、唇のあたりをしきりに手でこすったりと、内心の動揺はそうした細かい仕草に如実に現れてはいたものの、蛍子が予想していたよりは、はるかに冷静というか、喜怒哀楽の激しい彼にしては珍しく、殆ど無表情のまま、最後まで読み終わると、便せんをやけに丁寧に畳み直して封筒に入れ、無言のまま、蛍子に返してよこした。
「……何か言うことないの?」
予想とは全く違ったその反応、というか、無反応ぶりに、蛍子は拍子抜けしながら聞いた。
「何かって?」
「だから……」
「ふーんとしか言いようがないね」
豪はそっけなく言った。
「ふーんて……それだけ?」
「ふーん、そうか。そうだったのか。それだけだよ、俺《おれ》の感想は。やっぱりって気持ちも少しあるな。前から思い当たるふしはあったし。だって、姉ちゃんと俺、ぜんぜん似てないじゃない。いくら親父《おやじ》が違うからって、母親は同じなんだから、もう少し似ててもいいはずなのに。友達にも言われたことあるよ。おまえたち、ほんとうに姉弟なのかって」
「……」
「これで何か変わるの?」
「変わるって……?」
甥の意外な冷静ぶりに、蛍子の方がうろたえてしまっていた。
「たとえば、血のつながりがないことが分かったから、明日から家族であることやめるって姉ちゃんが言ってるとか、さ」
「まさか。そんなことはないわよ。火呂は今までと何も変わらないって言ってるし。ただ……」
「だったら、別にいいじゃん。血がつながっていようといまいと、姉ちゃんは姉ちゃんだろ。そのことは永遠に変わりないわけだ。たとえ、いつか誰かと結婚して姓が照屋でなくなっても、姉ちゃんは姉ちゃんであり続けるわけだし。ま、それも、あんなじゃじゃ馬と結婚したがるような物好きがこの世にいればの話だけどさ」
豪はそう言って肩を竦《すく》めてみせた。
蛍子は、やはりこの話は自分から切り出してよかったと内心思った。もし、火呂がこの場にいたら、この余計な一言で、またぞろ大喧嘩になっていただろうと思ったからだ。
「それよりさ」
豪は急に話題をかえるように言った。
「新しい住所教えてよ」
「え?」
「姉ちゃんの。サッチンと暮らすために広いとこに移ったんだろ。俺にはなんにも教えてくれねえんだから……。姉ちゃんに頼みたいことがあるんだ」
「なに、頼みたいことって?」
蛍子が思わず聞くと、豪は、「うん、ちょっとね」と口ごもった。
「ボーカル……頼めないかなって」
「ボーカルって、バンドの?」
「沖野がやめてしまえば、ボーカルがいなくなっちまう。そしたら、コンテストにも出場できなくなっちゃうんだ。代わりを今から探すといっても時間がない。予選まであと十日足らずしかないんだから。たとえ、代わりが見つかったとしても、これじゃ何もできないよ。でも、絶対音感の持ち主で、曲を一度聞いただけで完璧《かんぺき》に覚えられる姉ちゃんならなんとかなるかもしれないんだ。それに、姉ちゃんなら、沖野が抜けることでバラバラになりかけている今のメンバーの気持ちをひとつにできるかもしれない。みんな、姉ちゃんのファンだからさ……」
「でも、火呂はもう歌は歌わないって決めたこと、あなたも知ってるでしょう?」
蛍子は思わず言った。
豪の言う通り、火呂には、生まれつきといってもよい音楽の才能が備わっていた。一種の天才といってもよかった。小学校のときに、担任でもあった音楽の教師から、「この子は絶対音感の持ち主だから、将来はぜひ音楽の道に進ませるべきだ」と熱心に勧められたくらいだった。
火呂自身、歌を歌うことは三度のご飯よりも好きだったらしく、実際、遊び半分で出場した民謡コンクールでは、最年少でありながら数々の優勝トロフィを独占していた時期もあった。あの頃の火呂の夢は「歌手」になることだった。
それが、ぴたと歌うことをやめたのは、八年前の漁師だった養父の海難事故がきっかけだった。火呂はこのときも、昔、海で溺《おぼ》れかけた弟の魂を呼び戻したように、海に消えた父親の魂を呼び戻そうと、何日も浜辺で歌い続けた。しかし、その歌声は海神《わだつみ》の耳には届かなかった。結局、養父は帰ってはこず、遺体すら発見されなかったのである。
もはや、火呂の歌声は海神の心には届かない。海神の心を揺り動かすだけの「力」を失ってしまった。それというのも、本来は神に捧《ささ》げる聖なる「歌」というものを、お金や人々の称賛を得るための道具にしたために、海神がお怒りになったのだ。人間の耳はだませても、海神はもはやそんな汚れた心で歌う「空歌」に耳を貸そうとはしない……。
神女の中にはそんな厳しいことを言う人もいて、それが火呂の耳にも入ったようだった。このときから、火呂は歌うのをやめた。「歌手」になるという夢をきっぱりと捨てた。「歌手」になるということは、「歌」を仕事にすること、すなわち、「歌」を使ってお金儲《かねもう》けをするということであり、それは海神がお許しにならないというのである。
「歌手」になるという夢を捨てた代わりに、母親と同じ教師になると、火呂が言い出したのはこの頃からだった。
そのことを、蛍子が言うと、豪は苛立《いらだ》たしげに言い返した。
「そりゃ、小学校の教師というのも立派な職業かもしれないけど、べつに姉ちゃんでなくてもできるじゃないか。だけど、あんな歌は姉ちゃんにしか歌えない。今のままじゃ宝の持ち腐れもいいとこだ。あれだけの音感と声をもっていながら勿体《もつたい》ないよ。母さんだってここに書いている。火呂には、生まれつき『力』があるって。人を温める『力』があるって。それが『歌』なんだよ。姉ちゃんの『力』って歌うことなんだよ!」
豪は、テーブルの上の康恵の手紙を平手でたたいて力説した。
蛍子もこの点では同感だった。たしかに火呂の歌には何かがあった。たんに音が正確で巧いとか、声が澄んでいて奇麗だとか言う以上のものがその歌声にはあった。
あの声を聴くと、どこで何をしていても、思わず手をとめて聴きいりたくなる。聴いていると、心にぽっと火が灯《とも》されたような気持ちになり、疲れていた心が、その「清浄な火」で温められ、隅々まで洗われていくような清々《すがすが》しい気持ちになる……。
あの声をもう一度聴きたいと何度も思ったことがあった。でも、「もう歌わない」と決めたのは火呂の意志であり、本人がそう決めたのならとあきらめてはいたのだが……。
「姉ちゃんはまた歌うべきだよ。大勢の人の前で。今度のコンテストは姉ちゃんにとってもチャンスかもしれないんだ。宝生なら、絶対に姉ちゃんの才能を見抜くよ。あの声を聴いたら放ってはおかないはずだ」
「ただ、あの子はあの通り、頑固だから……。並の説得では聞いてはくれないと思うけど」
蛍子がそう言うと、豪は、「そうなんだよな」と呟《つぶや》き、大きなため息をついた。
「……でも、ひとつだけ方法がないわけではないわ」
ふと思いついて、蛍子がそう言うと、豪は反射的に顔をあげた。
「方法って?」
「ひたすら窮状を訴えるのよ。今まで練習に練習を重ねてきたというのに、コンテスト間近になって、ボーカルだった子に突然やめられて困っている。どうか助けてくれって」
「……」
「間違っても、人気プロデューサーが審査員やってて、火呂にとってもチャンスだなんて言ってはだめ。そんなこと言ったら、たとえその気になりかけていたとしても、あの子のことだから、意地でもうんとは言わないと思うわ。でも、弟であるあなたが困っている、助けてくれといえば、嫌とは言わないはずよ……」
火呂の中には、誰から教えられたというわけでもないのに、「えけり」である弟を守ることを半ば自分の使命と考える「おなり」の魂のようなものが人一倍強く宿っている。ふだんはどんなにいがみ合っていても、いざ、弟が窮状に陥っていると知るや、自分の身を投げ出してでも救おうとするところが子供の頃からあった。
そのへんの心理を巧みにつけば、火呂の頑なな決心を翻せるのではないかと、蛍子は思いついたのだ。
「そうか。泣きの一手か。シンプルだけど、一番効く手かもしれねえな」
豪は目を輝かせて呟くと、感心したように付け加えた。
「さすが叔母さんだな。だてに年くってないね」
「……あなたねえ、ホント、いつも一言多いのよ」
蛍子は不満そうに言った。