「ただいま」
豪の声は明るかった。
ということは……。
今日は確か、例のアマチュアバンドコンテストの予選日のはずだった。あのあと、蛍子の入れ知恵通りに、「泣きの一手」で渋る火呂を拝み倒し、今回だけという約束で、ボーカル役をなんとか引き受けさせたと豪からは聞いていた。
蛍子がテレビをつけたまま、振り向くと、ギターケースをさげた豪がリビングに入ってきた。
「どうだった?」
そう聞くと、豪は満面の笑顔で、OKサインを出してみせた。「予選通過」ということらしい。
「予選なんてラクショー、ラクショー。思ったよりレベル低いというか、たいした奴らいなかったよ」
ギターケースをソファに放り出し、冷蔵庫から天然水の小型ペットボトルを取り出しながら得意げに言う。
「そう、よかったじゃない。それで、本選はいつなの?」
そう聞くと、「二週間後」だと言う。
「絶対に入賞してみせるよ。あのレベルだったら、優勝だって夢じゃないさ」
ソファにふんぞりかえり、ペットボトルの水をラッパ飲みしながら、豪はうそぶいた。
「そういえば、電話で火呂から聞いたんだけど、入賞できなかったら、バンド活動はきっぱりあきらめて、受験勉強に専念するんだって?」
どうやら、「大学進学」を交換条件に、火呂は弟の頼み事を引き受けたらしかった。
「なに、これ? ワイドショーの録画?」
豪は、その話を避けるように、テレビの方を見ながら言った。
テレビ画面では、CMが終わり、再びスタジオに戻っていた。
「ああ、あの猟奇殺人のやつ……? 沢地逸子のホームページに犯人がアクセスしてきたとかいう?」
画面を見ていた豪が、ふいに興味を持ったような顔つきになって蛍子に訊《き》いた。
蛍子は、「そうだ」と答え、沢地逸子のホームページを単行本化する話が決まり、その際の担当になったことを言うと、豪は、「へえ」という顔になり、「俺《おれ》もその録画見たい。最初から再生して」と、ソファから身を乗り出して要求した。
蛍子はリモコンでテープを巻き戻した。
CMが入る前までを再生し、CM後のスタジオの場面になった。
その間、豪は身を乗り出したまま、じっと食い入るようにしてテレビを見ていた。
「……それでは、こちらのVTRをご覧ください」
という司会者の声とともに、また画面が変わった。あちこちにモザイク処理をした沢地逸子のホームページの掲示板らしきものが映し出され、例の「真女子」名の投稿の部分だけが、大きくクローズアップされた。
ただ、「真女子」の名前の部分は、まだ事件との関連性が明らかではないせいか、プライバシー保護のために、モザイク処理をして読めないようにしてあった。
「このような投稿が、前回の事件の前日も、やはり同じような時間帯にアップされていたというのです……」
司会者の説明で、画面には、さらに過去に遡《さかのぼ》った「真女子」の投稿内容がアップで映し出された。
「つまり、沢地先生がおっしゃるのは、この三度めの投稿のことですね? 『生理がはじまった』と書いてある……」
画面がまたスタジオに戻り、司会者が言った。
「そうです。犯人自身も書いているとおり、今回の事件は、特定の被害者への個人的な恨みなどによるものではなく、いわば無差別的に対象を選ぶ『儀式』として決行されたものだと言うことです。犯人は自らを、太母神に仕える巫女《みこ》だと思い込んでいる節があり、だからこそ、わざわざ生理日を選んで、犯行に及んでいるのです。では、なぜ、生理中に犯行を行っているかというと……。
詳しいことは、ホームページに連載しているわたしのコラムを読んで戴《いただ》ければ分かると思いますが、インターネットになじみのない人のために簡単に概略を説明すると……」
そう言って、沢地は、太古における太母神信仰について話しはじめた。
「……つまり、この二件の事件で不可解とされている事柄、たとえば、犯人はなぜ、被害者の遺体をわざわざ切断したり、生殖器を切り取ったりしたのか。なぜ、心臓を抉《えぐ》り取り、代わりに黄色いゴムボールなどを押し込んでおいたのか、なぜ、被害者の遺体の一部の皮膚を剥《は》ぎ取ったのか。なぜ、被害者が二人とも若い男性なのか。そういった諸々の謎《なぞ》はすべて、犯人が自らを巫女と思い込み、若い男性を太母神への『生き贄《にえ》』として殺しているのだと考えると、すべて奇麗に解けるんです……」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
川原崎がまたもや沢地の発言を遮った。
「沢地さん。あなたはさっきから黙って聞いていれば、この投稿者が犯人であると決めつけているようですが、そう決めつける根拠は何ですか? この四件の投稿内容だけでは、僕には、この投稿者を犯人と決めつけるのは、ちと早計に思えますがねえ。ここには、『生き贄を捧《ささ》げる』と書いてあるだけで、『若い男を殺す』と書いてあるわけではない。事件についても具体的なことは何ひとつ触れてないじゃないですか。それとも何ですか。他にも、何か、この投稿者が犯人だと思える証拠でもお持ちなんですか。たとえば、この投稿者が、メールか何かで、一連の事件について、犯人にしか知り得ないことを書いて送ってきたとか」
「いいえ、それはありません。まだ……。わたしが彼女が犯人だと思うのは、掲示板にアップされた投稿からだけです。だって、これだけで十分じゃないですか。これが偶然の一致だというんですか? 最初の事件では、わたしももしやと疑惑は持ちながらも、偶然かもしれないと思いました。でも、二度も同じことが重なると、もはや偶然とは言えません」
「しかしねえ……。そうは言っても、偶然は二度重ならないという法則があるわけじゃなし。それに、さきほど、あなたは、犯人は若い女だと断言するのは、『生理云々』と書かれた、この三度目の投稿を見たからだとおっしゃったが、それだけの根拠で、犯人を女性と断定するのは、やはり短絡的すぎるという気がしますがね。こうして、立派なホームページまで作っておられる人にこんなことを言うのは、釈迦《しやか》に説法かもしれないが、インターネットなどには、通称ネカマと呼ばれる輩《やから》も横行しているのですよ。ご存じですよね、ネットオカマ。つまり、女性の振りをする男のことですね。この投稿者も、『生理』のことなどを書いて、さも自分が女性であるかのように思わせているが、もしかしたら、男かもしれないじゃないですか」
「川原崎センセイはよほどオカマに興味がおありのようですが」
沢地がそう言うと、川原崎は露骨に嫌な顔をした。客席からはまたまばらに笑い声が起こった。
「この点については、わたしの勘としか言いようがありません。直感です。この投稿の内容に嘘《うそ》はない、投稿者が本当に女性だと思うのは……」
「勘! ほうほう。勘ですか? 参ったな。女の人は最後にはこれを出してきますからね。勘で全てを片付けようとする。涙と勘。女性が強くなったとはいえ、いつまでたっても、この二つが女性の最大の武器であることは変わりないようですなあ」
川原崎はやれやれというように首を振った。
「直感による思考方法が、論理的に思考するデジタル的思考に対して、アナログ的思考とも言われ、真実により早く到達する思考方法として決して侮れないものであることは、当然、一流大学医学部の名助教授でいらっしゃる川原崎センセイはご存じだと思いますので、それこそ、釈迦に説法とやらで、いちいち反論はいたしませんが、犯人が、最初の犯行と二度目の犯行との間に、およそ一カ月のインターバルを置いたのは、次の生理がはじまるのを待っていたからではないでしょうか。およそ一カ月前後というのは、健康な女性の平均的な生理周期ですから。あくまでも、これは、わたしの『勘!』にすぎませんが。
ただ、一応、この話を警察の方にも話して、もう一度現場検証、とりわけ現場に残された血痕《けつこん》を徹底的に調べ直してみることを素人判断ながらおすすめしておきました。被害者の血だと思われていたものが実は……ということもありますので」
話が何やら生々しい方向へいきそうなのを懸念したのか、司会者が、幾分あわてたように、「ここでCMを」と言って、沢地の声は遮られてしまった。
CMをスキップすると、画面には、ようやく出番が回ってきたらしい他のコメンテイターの顔がアップで映し出されていた。
「……二度めの投稿で、『母なる神に生き贄を捧げたが、母なる神は喜んではくれなかった。犬ではだめかしら』とありますが、これは、以前、犬でも試してみたということでしょうかね」
そう言ったのは、若者の心理や文化に詳しいという触れ込みの若手社会評論家の溝口和彦だった。
「そういえば、前に、都心の公園のゴミ箱から、バラバラに切断された子犬の死体が発見されたことがありましたよね……? あれが起きたのは、ちょうど、この投稿がされた頃じゃなかったっけ?」
「そうなんです」
沢地が即座に言った。
「わたしが、この投稿者が犯人ではないかと思った根拠の一つが、この犬の件です。ちょっと気になって過去のデータを調べてみたら、二度めの投稿は、この子犬事件が報道される前にアップされていたことが分かったんです。この犬の件も、彼女の仕業であるような気がします。この手の犯罪は、最初は小動物からはじまって、だんだんエスカレートしていくという話も聞きましたから……」
「しかしねえ」
と、不満そうな顔つきで口を挟んだのは、またもや川原崎だった。
「動物虐待なんてあちこちで起きてますよ? 犬に限らず、猫とか鳩とかも。たったこれだけの投稿内容から、この犬の件だけを、今回の犯人と結び付けるのはいかがなものか……」
「でも、『三度も』偶然が重なったようには思えませんがね」
そう反論したのは沢地ではなく、溝口だった。
「それと、もう一つ気になるのが、最初の投稿の意味不明の書き込みですね。『わたしの体には蛇のうろこがある』という……。これは一体どういう意味なんでしょうか。もし、この投稿者が犯人だとしたら、僕には、この言葉が犯人の特徴を示す大きな手掛かりになるように思えるのですが」
「同感です。この『蛇のうろこ』というのは、『蛇の生まれ変わり』という言葉が後に続いていることから見ても、後天的なものではなく、先天的なものであるように思えます。たとえば、身体のどこかに、生まれながらにして、蛇のうろこのようにも見える特殊な痣《あざ》か何かがあるとか……」
テレビの中で沢地逸子がそう発言したとき、蛍子の背後でふいに物音がした。はっと振り返ると、フローリングの床に、まだ中身の入ったペットボトルが落ちていた。一瞬、強ばった表情をした豪と目が合った。
「手、すべっちゃって……」
豪は言い訳のようにそう呟《つぶや》くと、慌てて、床に落ちたペットボトルを拾い上げ、テーブルの上にあったティッシュケースからティッシュを数枚つかみ取って、それで濡《ぬ》れた床を拭《ふ》きはじめた。
「……画面ではモザイク処理がしてあって読めませんが、この投稿者の名前、といっても、おそらく本名ではなくハンドルだと思いますが、これは、或《あ》る小説に登場する人物の名前から取ったものだと思われます。その人物というのは、見かけは絶世の美女なのですが、実は、その正体は年とった大蛇であるというもので……。こうしたハンドルから見ても、この投稿者が、なんらかの理由で自分を蛇の『生まれ変わり』と信じきっており、だからこそ、あのような異様な犯罪を犯したとも考えられるのです……」
沢地逸子の顔がアップになった。
「もし、犯人像がわたしの考えている通りだとすれば、そして、犯人がこのまま逮捕されなければ、このような犯罪は来月も同じ頃に起きるはずです。犯人が果たして、若い男性ばかりを『生き贄』としてターゲットにしているかどうかはまだ分かりませんが、その可能性は大いにあります。男性も、インターネットやテレクラなどを利用するときはくれぐれも気をつけてください。
とりわけ、ネット上で、自分の個人情報、たとえば携帯などの番号を気楽にアップするのは極力控えた方がよろしいかと思います。出会い系のホームページに登録するときも、なるべく、最初に会員登録をするようなタイプのものに入ることをお薦めします……」
「その手のホームページの会員名簿が闇《やみ》で売買されているという噂《うわさ》を聞いたことがありますけどねえ。よけい危なかったりして」
また川原崎の揶揄《やゆ》するような声。
川原崎の横槍《よこやり》を無視して、沢地はさらにこう続けた。
「とにかく、これはネットに限ったことではありませんが、自分の身は自分で守るしかないということです。インターネットや携帯電話などを通じて、自分の生活圏以外の人とも簡単に知り合えるようになったのは、人間同士のコミュニケーションの輪を広げるという観点から考えれば、大いに喜ぶべきことでしょうが、同時に、それは、全く未知の人間があなたの生活圏に侵入してくる危険性をも自らの手で作り出しているということでもあるのです。世の中には、常に善意をもって、あなたに接したいと思っている人ばかりではないのです。新しい出会いの裏に潜むこの危険性をもっと認識して欲しいのです。とりわけ、男性に、若い男性に言いたいです。
確かに、今までは、さきほど川原崎センセイもおっしゃったように、このような犯罪の犠牲者になるのは圧倒的に女性が多かったのは事実です。というか、今もそうであることは変わりません。でも、今回の事件は、男性でもこの手の犯罪の被害者になりうるのだということを教えてくれたのです。ようは、けっして他人事《ひとごと》ではないということです」
「復讐《ふくしゆう》……かもしれませんね」
溝口がそんなことを口走った。
「復讐?」
沢地がけげんそうな顔で溝口の方を見た。
「いや、ちょっと、沢地さんの話を聞いていたら、ふとそんな気がしたもんですから。復讐といっても、個人に対するものではなくて、いわば、社会全体……に対する漠然とした復讐です。『儀式』などという形を取りながら、犯人の心の中には、そんな強烈な復讐心のようなものが潜んでいるのではないか。十代の若者の凶悪犯罪などを調べていると、そう感じることがあるんですよ。一見ゲーム感覚であったり、快楽殺人のように見えても、彼らは、漠然として、そのくせ強烈な『怒り』を胸の内に抱え込んでいる。怒りの対象は、親なのか教師なのか学校なのか。それともそういったものを全て含めた社会システムそのものなのか。その怒りの真の対象が何であるのかさえ、当人にも理解できていないような怒りを……」
「あのねえ、一言いいかい? あんたがたのような甘ちゃんの『人権派』がそうやって、ことあるごとに、社会のせいだとかほざいて犯罪者を甘やかすから、つけあがったくそがきどもがやりたい放題のことをやるようになったんだよ」
横から苛立《いらだ》たしげにそう言ったのは、中年のアクション俳優、平尾裕二だった。
「もちろん、犯罪者の『怒り』など、手前勝手な逆恨みであると言ってしまえばそれまでなのですが……」
溝口はやや鼻白んだようにそう言ってから、「今回の事件にも、それと似たような匂《にお》いをなんとなく感じます。それと、被害者から加害者への転化、というのも感じますね。つまり、今まで、なんらかの形で常に『被害者』であり続けた者が、ある日突然、窮鼠《きゆうそ》猫を噛《か》むような形で、『加害者』に転化するんです。少年犯罪にはしばしばこれが見られます。長い間、学校でいじめの被害者だったり、親の暴力の被害者だった少年が、ある日を境に、自らが他人に暴力を加える『加害者』に転化するんです。そして、なぜか、その『復讐』の対象は、彼に危害を加えた者には直接向けられないで、何の関係もない赤の他人、それも自分よりも確実に弱い者に向けられるようになる……。
つまり、被害者はいつまでも被害者のままでいるわけではないということなんです。今回の事件の犯人も、長い間、何らかのストレスを与え続けられた『被害者』だったのではないかという気がします。沢地さんがおっしゃったように、今までは、この手の猟奇殺人の被害者は女性がほとんどでした。しかも、多くが若い女性です。でも、こうした犯罪を容易に成立させてしまう社会、いわば男社会の中で、今まで被害者であることを強いられてきた女性たちが、漠然とした『怒り』を抱え込んでいて、それが爆発しはじめたのではないかという気さえします。もし、そうだとしたら、この『爆発』は、ちょうど火山帯の爆発のように連鎖します。同じような潜在的な『怒り』を抱え込んだ者たちに。少年犯罪の多くがそうであるように……」
「俺《おれ》に言わせれば、この犯人が女だろうが男だろうが、もし、未成年のくそがきだったとしたら、少年法なんかで守ってやらないで、さっさと捕まえてしばき倒せと言いたいね。いっそのこと、こういうぶったるんだがきどもを調教するためにも、憲法改正して、徴兵制とか復活したらどうかね?」
またもや、平尾がここで口を挟まなければ、自分の出番は永遠に回ってこないとでもいうように乱暴な横槍を入れた。
それまで溝口和彦を映していたカメラが、ほおづえをついてつまらなそうにしている自分の顔をアップで映すやいなや、平尾ははっとしたようにほおづえをはずし、カメラ目線で凄《すご》んでみせた。
「こういうぶったるんだくそがきどもを生み育てた世代が、ちょうど平尾さんの世代であることもお忘れなく」
溝口が冷ややかに言った。
「なんだと……」
「わたしも溝口さんの意見に全く同感です」
溝口に向かって凄みかけた平尾を全く無視して、沢地が言った。
「犯人は『贄《にえ》』を求めています。でも、それは、犯人自身が『贄』であるということなのかもしれません。太古、『贄』を神に捧《ささ》げる祭主自身が最高の『贄』だったように。この平成の世に、『贄』などというと、時代錯誤のように聞こえるかもしれませんが、わたしは、今こそ、『贄』という言葉がふさわしい時代はないように思えます。ある種の犯罪は、その犯罪を生んだ社会の歪《ゆが》みを照らす鑑《かがみ》ともなります。犯人によって無差別に選ばれた被害者が『贄』なら、犯人もまた『贄』———社会の歪みを照らすための鑑として『高く掲げられた者』なのかもしれません……」
録画が終わって、蛍子はリモコンでテレビの電源を切った。すると、リビングを奇妙な沈黙が支配した。
「蛇のうろこみたいな痣って、まさか」
沈黙の重苦しさに耐えかねたように、先に口を開いたのは、豪の方だった。
「火呂じゃないわよ」
蛍子は甥《おい》の言葉を遮るように言った。
「火呂なら、あの池袋の事件が起きたとき、わたしと一緒にいたんだから。それに、前の事件のときだって、和歌山のビジネスホテルに泊まっていたって言ってるし」
「誰も姉ちゃんのことなんか言ってないよ」
豪は、蛍子の見幕に驚いたような顔で言った。
「俺が言いたいのは、もう一人の[#「もう一人の」に傍点]……」
「……」
「母さんの手紙には、日美香って人にも、姉ちゃんと同じような痣があったって……」
豪もどうやら、蛍子と同じような疑惑を抱いたらしかった。
「でも、『蛇のうろこ』というだけで、痣かどうかはまだ分からないわ」
それに、沢地逸子はテレビであんな断定的な言い方をしていたが、「真女子」が犯人と決まったわけではない。蛍子は、甥にというよりも自分自身に言い聞かせるように言った。
「そうだけど……」
豪はそう言いかけ、ふと何かを思い出したように、
「そうか。あれは姉ちゃんじゃなかったんだ」
「あれって?」
「ほら、前に、バンド仲間の磯辺が原宿で若い男と一緒だった姉ちゃんを見かけたって話、しただろ? 似てたけど、ちょっと感じが違っていたっていうから、ひょっとしたら、あれは姉ちゃんじゃなくて……」
豪は考えこみながら、そう言った。
「火呂は、あれから日美香って人のことは何も言わない?」
蛍子は甥に聞いた。バンドの練習で豪は火呂と毎日のように顔を合わせているはずだった。
「何も。何も言わないよ」
「そう……」
相手の生活を乱さないために、自分の方からは会いに行かないという決意は、火呂の中で変わってはいないようだった。
蛍子としては、姪《めい》のそんな意志を尊重して、この件にはノータッチでいようと思っていたのだが……。
「ねえ、叔母《おば》さん」
豪がふいに言った。
「日美香って人のこと、詳しく調べられないかな。姉ちゃんには内緒で、探偵社とかに頼んで」
「探偵……?」
探偵と聞いたとき、蛍子の頭に一人の男の顔がすぐに浮かんだ。それは、心に負った小さな古傷の疼《うず》きと共に、いつも思い出される顔だった。