玄関のドアを開けると、奥の方から賑《にぎ》やかな話し声がした。
三和土《たたき》には、若い人が履くようなスニーカーやらサンダルやらが所せましと脱ぎ捨ててある。どうやら、豪の友達が遊びに来ているらしい。
「ただいま……」
リビングに通じるガラス戸を何げなく開けた蛍子は、中の光景を見て、唖然《あぜん》として立ちすくんだ。
いずれも十代と思われる四、五人の若者が、缶ビールを片手にたむろしていた。中には煙草をふかしている者もいる。その顔に見覚えがあった。以前、豪が、「バンド仲間」と称して連れてきた連中だった。いずれも、皆、高校生のはずだった。
紅一点、火呂の顔もあった。
「ちょっと、何してるの、あなたたち……」
戸口の所で立ち尽くしたまま、叱《しか》り付けるように言うと、ようやく蛍子が帰ってきたことに気が付いた若者たちは、一瞬ばつの悪そうな顔をした。慌てて、喫いかけの煙草をもみ消す者もいた。
「あれ。叔母《おば》さん、今日は早いじゃん」
豪が言った。
「早いじゃんじゃないわよ。あなたたち、まだ高校生でしょう?」
蛍子はつかつかとリビングに入って行くと、豪の手にあった飲みかけの缶ビールを取り上げた。
「高校生が煙草ふかして酒盛りなんかしてるんじゃないわよ!」
「まあまあ、叔母さん。今日だけは大目に見てやってよ。残念会なんだから……」
笑いながらそう言ったのは火呂だった。
「残念会?」
聞けば、例のアマチュアバンドのコンテストの本選があり、残念ながら、豪たちのグループは優勝はおろか入賞すらできなかったのだという。
「でも、審査員特別賞ってのを貰《もら》ったんですよ。火呂さんのおかげっすよ。それで、残念会プラスささやかなお祝いってことで……」
バンド仲間の一人が言った。
「だからといって、まだ未成年なんだから、お酒も煙草もだめ」
蛍子は厳然と言った。テーブルに転がっているビールやチューハイの空き缶の数からすれば、彼らが一時間以上も前からここにいたことは明らかであり、十分「残念会」とやらを堪能しただろう。ここは、あくまでも大人としての威厳を示さなければならなかった。
「さっさと片付けなさい」
「何だよ。十一時過ぎないと帰ってこないって言うから……」
仲間の一人が恨めしげに豪を見た。
ぶつくさ言いながらも、空き缶や煙草の吸い殻を片付け終わると、幾分シラケたような顔つきで、バンド仲間たちはすごすご帰って行った。
やれやれと思いながら、部屋に入って、着替えをしていると、今度は、火呂と豪の言い争うような声が聞こえてきた。
「……約束が違うじゃない!」
「だから、ミュージシャンはあきらめるって言っただけだろ。大学へ行くなんて俺は一言も言ってない」
「いいえ、ちゃんと言いました。このウソつき野郎!」
「ウソつき野郎とは何だよ。このヒステリー女!」
ようやく静かになったかと思ったら、今度は姉弟|喧嘩《げんか》をはじめたらしい。
まったく、もう……。
思わず天を仰ぐと、着替えもそこそこに、蛍子は、リビングへ行った。
「何、大声出してるのよ。近所迷惑だからやめなさい!」
蛍子の方も、十分近所迷惑な大声でそうどなると、
「だって、こいつ、ウソつきなんだもの。今度のオーディションで入賞できなかったら、バンドやめて、受験勉強に専念するって約束したくせに、今頃になって大学行かないなんて言い出すんだもの」
火呂が蛍子に訴えるように言った。
「大学大学って、沖野んとこの教育ババアみたいなこと言うな! 大学行って何するんだよ。俺は大学行ってやりたいことなんか何もないんだよ」
「じゃ、大学行かないで何するのよ?」
「ボクサーになるんだよ。これでようやく決心がついた。俺はボクシングやる」
「は! ミュージシャンがだめなら、今度はボクシングですか? 世界チャンピオンでもめざす? いつまで夢みたいなこと言ってるのよ。少しは足元を見なさいよ」
「黙れ! うるさい!」
今にもつかみ合いになりそうな様子だったので、蛍子は慌てて仲裁にはいった。
「いい加減にしなさい。今、何時だと思ってるの?」
「わたし、帰る!」
憤然として火呂は立ち上がった。
「こんな馬鹿とこれ以上話しても無駄だわ。馬鹿が伝染《うつ》る」
そう吐き捨てて、リビングから出て行こうとする姪《めい》を蛍子は呼び止めた。
「火呂、ちょっと待って。ちょうどよかった。あなたに話があるのよ」
「……話?」
火呂はドアに手をかけたまま振り向いた。
「こっちに来て。見せたいものがあるの」
蛍子はそう言って、火呂の腕を取ると、部屋に連れて行った。
「そこに座って」
仏頂面で突っ立ったままの姪にそう言うと、火呂は、渋々というように、テーブルのそばに腰をおろした。
「よけいなお世話だったかもしれないけれど……」
蛍子はそう言いながら、神日美香に関するデータをまとめた書類をデスクの引き出しから取り出すと、それを火呂の目の前に差し出した。
「知り合いに探偵社をやっている人がいたんで、ちょっと調べて貰ったの」
「何……?」
「あなたのお姉さんのこと」
「……」
火呂は黙ったまま、蛍子の差し出した書類を受け取った。そして、やや強ばった表情で、その書類に目を通しはじめた。
「そこにも書いてあるけれど」
蛍子はそう前置きして、葛原日美香が、伯父《おじ》にあたる人物と養子縁組をして、「神」姓に改名したこと、火呂が聞いたという縁談話は既に破談になっていたこと、日美香もまた自分の出生についてある程度は知っているらしいことを話した。
「……あなたという妹がいることまで知っているかどうか分からないけれど、今なら、たとえ会いに行っても、相手の迷惑になるということはないんじゃないかしら」
そう言うと、火呂はしばらく、書類に視線を落としたまま、考え込むように黙っていたが、やがて、顔をあげると、
「考えてみる……。ありがとう、叔母さん」
と少し照れながら言った。
「それとね……」
蛍子はさらに、例の真鍋伊知郎の本と、伊達から渡されたばかりの倉橋日登美の手紙を取り出すと、それも火呂に見せて、昭和五十二年の倉橋日登美一家を襲った事件のことなどを全て話した。
もっとも、大蔵大臣の新庄貴明が倉橋日登美の従兄にあたり、この事件が彼をはじめとする日の本村の連中によって仕組まれた犯罪であるかもしれないなどということまでは、蛍子自身がとても信じられなかったので、話しはしなかったが……。
さすがに、自分の実母が悲惨な殺人事件の被害者であったことを知ると、火呂の顔に驚愕《きようがく》の色が浮かんだ。
「この人がわたしのお母さん……」
火呂はそう呟《つぶや》くと、真鍋の本の口絵にある写真を、まるで愛《いと》しむようにそっと指で撫《な》でた。