喫茶店の扉が開く気配がした。
火呂は、読んでいた文庫本から反射的に顔をあげて、扉の方を見た。が、入ってきたのは、若いカップルだった。
さきほどから、扉の開く気配がするたびに同じことを繰り返していた。暇つぶし用に持ってきた文庫本を読もうとしても全く内容が頭に入ってこない。同じ文章をさきほどから何十編も繰り返し読んでいた。
腕時計を見ると、約束の時間までまだ五分ほどあった。まるで最愛の恋人でも待っているような落ち着かない気分だった。
しばらくして、また扉の開く音がした。どうせ、また違うだろう。そう思って、今度は半ば意地になって顔をあげなかった。すると、コツコツというヒールの音と共に、人が近づいてくるような気配がして、
「照屋……火呂さん?」
と呼びかける涼しげな女の声がした。
今、気が付いたというように顔をあげると、目の前に、すらりとした純白のスーツ姿の二十歳くらいの女性が立っていた。
神日美香だと名乗った。
火呂は、声もなく、しばらく相手の顔を見つめていた。やや長めの髪をアップにし、きっちりしたスーツ姿のせいか、同い年には見えないほど大人びて見えた。髪形も服装も全く違っていたが、それでも、こうして向き合ってみると、同じ遺伝子を分かち合った双子であることは誰の目にも明らかだった。
まるで見えない鏡でも突き付けられたような奇妙な感覚だった。それは、日美香の方も同じだっただろう。火呂の顔を見下ろしている日美香の顔にも明らかに驚いたような表情が浮かんでいた。
昨日かけた電話では、「照屋火呂」と名乗り、「倉橋日登美」のことで会って話したいことがあると伝えただけで、双子の妹であることまでは言わなかった。
電話口で名前を名乗っても、これといって日美香の反応はなかった。もし、自分に双子の妹がいることを既に知っていたとすれば、「照屋火呂」という名前に何らかの反応を示したはずである。何も反応しないということは、自分の出生についてある程度は知っているとはいえ、双子の妹の存在までは知らないのではないかという気がした。日美香のひどく驚いたような顔を見て、火呂は、自分の推測が正しかったことを確信した。
「あなたは……」
日美香は驚きのあまり言葉も出ないという風だった。
「これを読んでください」
火呂はそう言って、バッグの中から、康恵の手紙を取り出した。口であれこれ説明するよりも、養母《はは》の手紙を見せた方が話が早いと思ったからである。
日美香は、食い入るような目で火呂を見ていたが、椅子《いす》に座り、テーブル越しに渡された手紙を手にとると、それを読み出した。やがて、手紙を読み終えて、茫然《ぼうぜん》としたような顔を便せんからあげると、
「……わたしの妹?」
と聞いた。火呂は深く頷《うなず》いた。
そして、その手紙を養母から受け取ってから、こうして会うことを決心するまでのいきさつを話した。
三年前、末期の癌《がん》に冒された養母からその手紙を渡されたこと。その手紙を読むまでは、自分が照屋康恵の娘だと信じきっていたこと。そして、思い悩んだ末に、全てを自分の胸に秘めて封印してしまうつもりでいたが、今年の五月に、偶然にも、葛原八重の交通事故死の記事を新聞で読んだこと……。
日美香は黙って聞いていたが、最初は驚き混乱しているように見えたその表情が、事の成り行きを理解するうちに、次第に落ち着きを取り戻していくように見えた。
そして、火呂の話を聞き終わると、自分のことを話しだした。
その話によると、日美香の方も、今年の五月に養母が事故死するまで、葛原八重の実子だと信じきっていたのだという。それが、葬儀の準備をしていたときに、たまたま、養母の遺品の中から、真鍋伊知郎の本を見つけ、その本の口絵にあった巫女《みこ》姿の女性が自分に似ていることに疑問を持ち、葬儀に列席していた須田加代子という、八重の昔なじみの女性に聞いてみたところ、その巫女姿の女性こそが実母であることを打ち明けられたのだという。
ただ、そのとき、倉橋日登美の産んだ子供が双子で、自分には妹がいることまでは聞かされなかったと日美香は言った。
「たぶん、この手紙からすると、須田さんもそこまでは知らなかったのね……」
そして、実母である倉橋日登美のことをもっと知るために、鎌倉に住む真鍋伊知郎を訪ねたりしているうちに、昭和五十二年の夏に実母一家を襲った殺人事件のことを知ったのだという。
「倉橋日登美——母には、この事件で亡くなった男の子と、もう一人、女の子がいたというのだけれど、この女の子は……?」
火呂がそう言いかけると、日美香の顔が心なしか曇ったように見えた。
「その女の子なら、亡くなったわ」
「亡くなった?」
「昭和五十二年の秋頃、『大神祭』という祭りのあと、風邪《かぜ》をこじらせて肺炎を引き起こしたとかで……」
日美香はそう言った。二人には「姉」にあたる春菜という幼女のことを話すとき、それまで、火呂の顔をまばたきもせずに見つめていた日美香の視線がふっと窓の方にはずされた。
その後、倉橋日登美の生家にあたる日の本村の神家を訪ね、実母の兄にあたる神聖二という男と会い、その伯父からの申し出を受けて養子縁組を結び、神家の籍に入ったことを、日美香は窓の外を見たまま語った。
「それで、わたしたちの父親は……?」
火呂がさらに聞くと、日美香は、しばらく沈黙していたが、やがて、こう言った。
「父親のことは分からなかったわ」
「分からないって……」
「神家の女は生まれながらにして日女と呼ばれる巫女なのよ」
日美香はそう言って、倉橋日登美もその日女の血を引く巫女であったことを話した。日女のことは、火呂も、蛍子から渡された真鍋の本を読んで、ある程度は知っていた。
「……あの村では、日女の子供はすべて『大神の子』とされて、本当の父親のことは一切秘密にされているらしいの。だから、伯父をはじめ、誰に聞いても、『大神の子』という返事が戻ってくるだけで……」
日美香はそれだけ言うと、あまり触れたくない話題なのか、黙りこくってしまった。
テーブルを挟んで向かい合う二人の間にやや重苦しい沈黙が続いた。
「それで……あなたはどうするつもり?」
突然、沈黙を破って、そう言ったのは日美香の方だった。
「え?」
「どちらを選ぶの?」
「選ぶ……?」
「この手紙にはこう書いてあるわ。『これからのあなたの人生は自分で選び取っていってください』って。あなたはどちらを選ぶつもり? これからも照屋康恵の娘として生きるのか。それとも、倉橋日登美の娘として生まれ変わるのか。どちらを選ぶかで、これからのあなたの人生は大きく違ってくると思うわ」
「それなら……」
選ぶも何もないと火呂は即座に答えた。自分はこれからも「照屋火呂」として生きる。それ以外の人生などありえない。将来の設計もおぼろげではあるが既に立ててある。今在学している大学の教育学部を卒業したら、沖縄に帰り、養母のように小学校の教師になるつもりだ、と。
「そこまで決心しているなら」
日美香が咎《とが》めるように言った。
「どうしてわたしに会おうと思ったの? わざわざ興信所を使ってわたしのことを調べて会いに来たのは何のため?」
「何のためって……」
火呂は口ごもった。
興信所を使って調べたのは自分じゃない。叔母《おば》の蛍子が心配して勝手にやったことだ。それに、会おうと思ったのも、別に何か目的があったわけではない。理由などない。ただ、一度会いたかっただけだ。自分の分身ともいうべき存在に……。
そう言いたかったが、なぜか言葉にならなかった。
「今、一人で暮らしているの?」
黙っていると、日美香が聞いた。
「いえ……」
上京してからは、弟の豪と共に、母がたの叔母のマンションに世話になっていたが、今はそこを出て、幼なじみと部屋を借りて一緒に住んでいると火呂は答えた。
「恋人はいるの?」
日美香はさらに訊《たず》ねた。
火呂がいないというようにかぶりを振ると、
「でも、いつかできる……」
日美香は独り言のように呟《つぶや》いた。その顔に暗い影がさしたように見えた。そういえば、蛍子から聞いた話では、日美香は大学の先輩にあたる男と付き合っており、その男とは婚約寸前までいっていたそうだが、なぜか、その話は日美香の方から断ったということらしかった。
まさか、それは……。
火呂は、真鍋の本に書いてあった、「日女は生まれながらの神妻として生涯独身でいなければならない」という言葉を思い出していた。
養母の姓を捨てて、神家の籍に入ったということは、日美香自身は、「倉橋日登美の娘」としての道を選んだということだろうか。ということは、大学を卒業したら、日の本村に帰り、彼女も実母のような巫女になるつもりなのだろうか。
ふとそんな考えが頭に浮かんで聞いてみると、日美香は首を振り、
「いいえ。わたしは日女にはならないわ」
ときっぱり言った。
「ただの日女にはね……」
神姓になったからといって、今後、日の本村に帰る気もないし、巫女として生きるつもりもない。伯父《おじ》をはじめとする村の人々も自分にそれを望んではいない。
「だって、わたしには『お印』があるから……」
日美香はやや誇らしげにそう言った。
「お印?」
「この手紙によれば、それはあなたにもあるはずよ」
日美香はじっと双子の妹の目を覗《のぞ》き込むように見た。
「胸のところに、蛇の鱗《うろこ》状の薄紫の痣《あざ》が」
火呂ははっとして、思わず、片手を胸のあたりに持っていきそうになった。やはり、日美香の胸にも、自分と同じような奇妙な痣があったのか……。
「この痣は、『大神の意志を継ぐ子』であるという証《あか》しなのよ。伯父の話では、千年以上も続く神家の歴史の中でも、このお印が女児の身体《からだ》に出たことはかつてなかったらしいわ。わたし……いえ、わたしたちがはじめてなのよ」
子供の頃から、この気味の悪い痣には悩まされてきた。なるべく人の目に触れないように気をくばってきたが、痣の意味を知ってからは、このような痣を持って生まれたことがとても誇らしいことだと思えるようになった。
日美香はそう語った。
「だから、あなたもこの痣のことで悩む必要はないわ。間違っても、手術で取ろうなんて思わないで……」
胸の痣を手術で取ろうなんて思ったことは一度もないし、これからもないと火呂は答えた。
日美香と違って、子供の頃から、この痣のことで悩んだことなどなかった。ごく自然に自分の身体の一部として受け入れてきた。友達と海で泳ぐときも、何のためらいもなく、陽の光の中に肌をさらけ出していた。赤ん坊の頃から、痣のことは近隣に知れ渡っており、「海蛇《イラブー》の生まれ変わり」などと言われもした。誰からも気味悪がられることはなかった。
それというのも、火呂が生まれ育った村には、古くから海蛇への篤い信仰があり、海蛇を海神《わだつみ》の聖なる遣いとして崇拝する風習が根付いていたからかもしれない。
そう話すと、
「あなたは幸せな環境で育ったのね。この手紙を読んでも、あなたのお養母《かあ》さんという人が尊敬できる女性だったという事がなんとなく感じ取れるし……」
日美香は呟くように言った。
火呂はその言葉に調子づいて、夢中で家族のことを話した。養母のことは、母親という以上に一人の女性として本当に尊敬していたし、小学校の教師になろうと決めたのも、養母のようになりたかったからだ。海難事故で亡くなった養父も我が子以上に可愛《かわい》がってくれた。三歳年下の異父弟も、今回のことで血のつながりが全くないことが分かっても、今までどおりの接し方をしてくれる。上京してから何かと世話になった叔母の蛍子にしても————
「ねえ、火……照屋さん」
それまで黙って聞いていた日美香が突然遮るように言った。その声にはどこか思い詰めたような響きが感じられた。
「わたしたち、会うのはこれが最初で最後ということにしない?」
「え?」
「もう二度と会わないということ」
「……」
「あなたはわたしのことを忘れた方がいいわ。わたしもあなたという存在のことを忘れるから。これからも『照屋火呂』として生きるつもりならば、その方がいいわ。わたしのことだけでなく、母に関することはすべて忘れた方がいい。日の本村にも行かない方がいい。神家ともかかわらない方がいい。今までどおり、弟さんや叔母さんとの生活だけを大切にして、そして、いつか好きな人ができたら、その人と結婚して子供を産んで、あなたが育ったような家庭を作るのよ。あなたは、そんな平凡でささやかな人生を送るべきだわ……」
火呂はそんなことを言い出した姉の顔を声もなく見つめていた。