喜屋武蛍子は、「NIGHT AND DAY」のドアノブに手をかけ、一瞬、ためらうように手を添えていたが、ためらうことは何もないと思い直すと、思い切ってドアを開けた。
「いらっしゃい」
老マスターの声がいつものように迎えてくれた。
店内には既に先客がいた。二十代後半と思われる赤いスーツを着た女性だった。独りでカクテルのようなものを飲んでいる。伊達かほりだった。
蛍子が入って行くと、すぐに振り向き、やや強ばった笑顔を見せた。
あのあと、電話では話しづらいこともあるので、一度会えないかと伊達の妻に言われて、退社後、会うことを約束したのである。この店の名前を先に出したのは、伊達の妻の方だった。
「主人とは以前お付き合いがあったそうですね……?」
隣に座ると、伊達かほりは、やや不自然な微笑をたたえたままの顔で言った。
「わたしのことは伊達さんから?」
そう聞き返すと、伊達の妻はかぶりを振った。彼からは何も聞いてない、興信所の報告書で知ったのだという。
「興信所?」
蛍子はぎょっとしたように聞いた。
「といっても、結婚前の話なんです。知人を通して、縁談の話が出たときに、父が勝手に彼の身上調査を興信所に依頼して、そのときの報告書にあなたのことが……。このこと、伊達には内緒にしてあるんです。同業者にこっそり調べられていたなんて知ったら、きっといい気持ちはしませんもの」
「でも、わたしたちは、今は……」
興信所に調べられたのが結婚前のことと知って、蛍子は幾分ほっとしながらも、慌てて言いかけた。
「ええ、分かってます。その報告書にも、お付き合いはしていたようだが、ちゃんと別れたというように書いてありましたから。ただ……」
九月二日以降、伊達と連絡が取れなくなったことを不安に思い、伊達の経営する探偵社に行って、伊達が最近どんな仕事をしていたのかスタッフに尋ねたら、昔の知り合いからの依頼で、何か独りで調べていたと教えてくれたのだという。
「スタッフの人も依頼の内容までは分からないって言うんです。主人は誰にも手伝わせずに独りでやっていたらしくて。でも、その昔の知り合いというのが女性らしいと聞いて、女の勘とでもいうのか、ふっと、あなたのことじゃないかって思ったんです。それで、あなたならもっと詳しいことをご存じではないかと思って……」
この店のことは、前にクリーニングに出そうとした夫のズボンのポケットから店のマッチが出てきたことがあったので、行きつけの店なのだろうと思っていたと、伊達の妻は語った。
「確かに、伊達さんには、ある人の身上調査を依頼してました……」
蛍子は、伊達とは何度かこの店で会ったことは事実だが、それはあくまでも、「探偵と依頼人」としての関係だということを必要以上に強調しながら、伊達がかかわっていた件に関して、あたりさわりのない部分だけを話した。
「それでは、主人は、その日の本村という所へ行ったのではないかと?」
蛍子の話を聞き終わった伊達かほりは言った。
「ええ。たぶん。なんでも長野の山奥だそうですから、もしかしたら、携帯も使えないのかもしれませんね……」
「あの日、朝、出掛けるとき、二、三日滞在してくるというようなことを言っていたんです。もし、何らかの事情で滞在が延びたとしても、そのことを知らせてくるはずです。たとえ携帯が使えなくても、滞在している旅館とかに電話くらいあるはずですよね? それなのに、どうして何も……」
伊達かほりの疑問はもっともだった。いくら、山奥の村だといっても、電話も引かれていないとは思えない。それなのに、何の連絡もしてこないのは、伊達の意志としか考えられなかった。あるいは、何か、連絡したくても、できないような状況にいるのか……。
伊達の妻の話を聞いているうちに、蛍子の胸には何やら黒い雲のような不安が湧《わ》き上がってきた。
「伊達さんが泊まった旅館に連絡してみれば、何か分かるのではありませんか?」
蛍子はそう言ってみた。
「そうですね。村というなら、旅館の類いもそんなに沢山はないでしょうし、観光案内で調べればすぐに分かると思います」
伊達かほりは、気を取り直したような口調で言い、
「あの……本当のことを言うと、わたし」
と、口ごもりながら続けた。
「ひょっとしたら、主人、あなたと一緒なんじゃないかと疑ったりして……」
「え?」
蛍子はびっくりして思わず隣の女を見た。
「小さい子供が二人もいるのに、まさかとは思ったんですけれど、最近、そういえば、ちょっと様子がおかしかったので、もしかしたらって……」
しばし唖然《あぜん》としていたが、伊達かほりの言わんとすることがようやく呑《の》み込めると、蛍子は、「そんなことはありえない」ときっぱりと否定した。
「ええ……失礼なこと言ってごめんなさい。あなたとお会いしてみて、わたしの勘違いだったということがよく分かりました。すぐに日の本村の旅館のことを調べてみます」
伊達かほりは、幾分ほっとしたような表情で言った。