「鍵《かぎ》、ここに置いとくよ」
シャワー室から出てくると、一足先に汗を流し、真新しいTシャツに着替えていた武が、テーブルの上に鍵らしきものを置くと、そう言い残して、リビングを出て行こうとした。
「ちょっと待って。どこ、行くのよ?」
彼女は慌てたように言った。
「どこって、うちに帰るんだよ。さっき言っただろ。ここに住んでるわけじゃないって」
廊下に通じるドアの手前で立ち止まると、少年は当然のように言った。
「帰るって……まだ何もしてないじゃない」
「そういうつもりで連れてきたわけじゃないよ」
武は苦笑しながら言った。
「家出して今夜泊まる所ないって言うから。ホテルとかに泊まる金もないんだろ? だったら、ここに泊まればいい。二、三日分の食料なら冷蔵庫に入ってるし。好きなだけいたらいいよ」
「誰か来たらどうするのよ……?」
彼女は少年の鷹揚《おうよう》さに半ば呆《あき》れながら言った。
「誰も来ねえよ。ここのことは俺《おれ》と親父《おやじ》しか知らないし。親父も今度の総選挙が終わるまでは寄り付かないはずだよ。マスコミの目とかあるからね。もし、来たとしても、俺の友達だって言えばいい。それで万事OKさ」
「そんなにたやすく信用していいの? さっき会ったばかりなのに。この部屋にあるものを盗んで逃げるかもしれないわよ」
「別に信用してるわけじゃないさ。ここで何があっても俺の知ったことじゃないってだけ。それに、盗むったって、あいにく、この部屋には現金も貴重品の類いもいっさい置いてないからね。言っとくけど、そこのシャガールの絵にしても複製だし、この花瓶にしても……」
武は、ドアの傍らの三角コーナーの上のロココ調の派手な花瓶を手にとると、わざとそれを床に落として割った。
「うっかり手が滑って割っちゃったとしても、二束三文のガラクタだから、どうってことないし。こんなもんばっかだよ、ここにあるのは。贅沢《ぜいたく》そうなのは見かけだけ。こんなんでよければ、いくらでもどうぞ。この部屋で何がなくなったって、親父が盗難届けを出すことはまずないしな。鍵はロビーの郵便受けにでも放りこんでおいてくれればいいよ。じゃあね」
そう言うと、バイバイというように左手を振り、右手をドアノブにかけた。
「待ちなさい」
押し殺したような低い声がした。
「なんだよ、さっきから待て待てって。俺、もう面倒臭いの嫌なんだよ。あの先生でこりごりだ」
武はうんざりしたように言うと、振り返りもせず、ドアを開けようとした。
「待てと言ってるのよ。さもないと……」
さきほどよりも間近で声がした。
「うるせえな……」
そう言いながら、振り向いたときだった。一瞬、視界が黒い影で遮られたかと思うと、右|脇腹《わきばら》に、焼け火箸《ひばし》を押し当てられたような衝撃が走った。痛いというよりも熱いという感触だった。
「……なに……したんだ?」
武は、右脇腹を手で押さえて、顔を歪《ゆが》めた。
目の前に、あの女が両手にサバイバルナイフを握って立っていた。ナイフの刃は赤く濡《ぬ》れており、女の白いTシャツにも赤い飛沫《しぶき》が飛び散っている。
脇腹から離した手のひらにもべっとりと赤いものがついてきた。
「刺したのかよ……?」
武は、真っ赤に染まった自分の手を信じられないように見ながら、泣き笑いのような表情を浮かべた。急に脚から力が抜けて、ドアにもたれるようにして、ずるずると身体《からだ》が沈んでゆく。
「待てと言ったのに待たないからよ」
女はナイフを握り締めたまま、冷ややかに言い放った。
「だからって……刺すことないだろう?」
「まだ儀式が済んでないわ」
「儀式……?」
武は、ドアを背に半ばしゃがむような姿勢で、右脇腹を手で押さえながら、愕然《がくぜん》とした顔で目の前の女を見上げた。
指の隙間《すきま》から鮮血が後から後から噴き出るように溢《あふ》れている。身体中の血が一気に抜け落ちていくような脱力感に襲われていた。立ち上がろうとしても、脚に全く力がはいらない。
「あなたは儀式に必要な生き贄《にえ》。だから、帰すわけにはいかないわ」
女は笑いながら言った。