目が覚めると、自分を見下ろしている顔があった。
父だった。
新庄武は、生まれたばかりの赤ん坊のように、父の顔をまじまじと見つめた。
「満身|創痍《そうい》とはこのことだな」
包帯だらけでミイラのようになってベッドに横たわっている息子を見下ろしながら、父は聞き取れないくらいの低い声で呟《つぶや》いた。
「……母さんは?」
武は母の姿を探すように目を動かした。さきほどまで病室にいて、世話を焼いてくれていた母の姿がない。いつの間にか眠ってしまい、目が覚めたら、父がいた。
父のそばにいつも忠犬のようにへばりついている兄の姿もない。父は独りだった。
「花瓶の水を変えると言って出て行った」
父はそう言ってから、
「どうだ。なますのように切り刻まれた感想は? 少しは懲りたか?」
薄く笑いながら、片手を伸ばして、寝ている息子の頬《ほお》に触れた。生きていることを確かめるような仕草だった。
そして、頬に触れた手をさらに伸ばして、髪に触れた。小さな子供の頭を撫《な》でるように、優しく髪を撫であげた。
「あまり心配させるなよ……」
武は息を詰めるようにして、父の温かい手の感触を全身で感じ取ろうとした。こんな風に頭を撫でられたのは、何年ぶりだろう。思い出そうとしても思い出せないほど遠い昔のことのような気がした。
意識を取り戻したあと、母から聞いた話では、救急隊員によってこの病院に運び込まれてきたときは、もはや、出血多量で生死の境をさ迷っており、連絡を受けて真っ先に駆けつけた母に、医師は、助かる確率は五分五分だというようなことを伝えたらしかった。
しかし、まだ若く体力にも人一倍恵まれていたことが幸いして、武は、爪《つめ》をたてるようにして死の淵《ふち》から這《は》い上がった。
ふだんは冷淡な父も、さすがに死にかけたとなれば、少しは優しい気持ちになるものらしい。
武は、そんなことを考えながら、幼い頃に戻って父に甘えたいような妙に甘酸っぱい気分を味わっていた。
「警察が事情を聴きたいと言っているが、話せるか?」
「うん。大丈夫……」
武は素直に答えた。こんなに素直な気持ちで受け答えしたのも久しぶりだった。
「判っていると思うが」
父は息子の髪を撫でつけながら、世間話でもするような口調で続けた。
「訊《き》かれたことだけ答えればいいからな。よけいなことは何も言うな。そのうち、マスコミの連中も取材に押し寄せて来るかもしれないが、あのマンションは、受験勉強に専念できるように、俺《おれ》がおまえに借りてやったものだということにしてある。いいな?」
「……なんだ」
武は、いっときの感傷からさめたような冷ややかな声で言った。
「心配させるなって、そういうことか」
「そういうことも含めてだ。おまえももう子供じゃないんだから、俺の立場というものも少しは考えろよ」
武は黙ったまま、父の手から逃れるように頭を動かした。
「信貴のようになれとは言わん。大学もおまえの入れるレベルに落としていい。ボクシングを続けたいならやってもかまわん。ただ……」
諭すように静かだった父の声の調子ががらりと変わった。
「俺の邪魔だけはするな」
そう言いながら、髪に触れていた父の手がすっと動いて、武の喉元《のどもと》に添えられた。
「判ったか?」
驚いたように目を見開いている息子の目の奥を覗《のぞ》きこみながら、喉元に添えた手の親指で、少年の喉仏を探りあてると、少しずつ指に力を加えていった。
見開かれた少年の目に恐怖が宿った。
「判ったかと聞いてるんだ?」
父の大きな片手はじわじわと真綿で締めるように武の首を締め付けていった。
「……本当は」
武は憎悪を目にこめて言った。
「死ねばよかったって思ってるんだろ?」
喉仏を指で押さえ付けられているので、しゃがれたような声しか出なかった。
「そうすれば、死人に口なしだもんな……。やっかい払いもできるし」
「そこまでは思ってないよ。今はな。おまえには何の期待もしていないが、血を分けた息子であることは変わりない。だが、これ以上、スキャンダルの種になるようなことをしでかしたら、たとえ息子だろうと……」
病室のドアがカチリと鳴った。誰かが中に入ってくるような気配がした。
「とにかく、おとなしくしていろ。俺が言いたいのはそれだけだ」
父はそう言うと、ようやく手を離した。
病室のドアが開いて、花瓶を手にした母が入ってきた。