新庄武は、両目を半開きにしたまま、寝そべるようにしてドアによりかかっていた。血に染まった腹部がかすかに上下していることから、かろうじて生きていることが分かる。もはや声を出す気力もない。鮮血は右|脇腹《わきばら》だけでなく、右|大腿部《だいたいぶ》からも噴き出していた。
電話の相手に聞こえるように、気力を振り絞ってわめいていたら、いきなり、「黙れ」と言われて、右脚の太ももにナイフを突き立てられたのだ。
それにしても、真名子の様子がどことなくおかしかった。電話を切ったあとも、右手にナイフ、左手にPHSを持ったまま、両手をだらりと脇にたらして、身じろぎもせず立ち尽くしている。
雷にでも打たれたような顔をして。
「……カズキって誰よ……?」
武は殆《ほとん》ど虫の息で聞いた。
真名子は答えなかった。
「もしかして……心臓病とかいう弟?」
「……」
「死んだの?」
「……なぜ?」
真名子が呟くように言った。武の質問に答えると言うより、独り言のようだった。
「なぜ、一希が死んだのよ? 約束したのに。他の男の子の心臓捧げたら、一希は救けてくれるって約束したのに……。もう、こんなことしても意味ないじゃない!」
真名子はそう叫ぶと、ナイフとPHSを床に放り出して、両手で髪を掻《か》き毟《むし》った。
両手の血がベットリと髪にもついた。
武は寝そべったまま、狂乱したように髪を掻き毟る女の姿を、半ば閉じかけた瞼《まぶた》の裏からじっと見ていた。
「……行かなくちゃ」
掻き毟っていた髪から両手を離すと、真名子ははっと顔をあげた。目に異様な光りが宿っていた。
「一希のところにすぐに行かなくちゃ。わたしを呼んでる。姉ちゃん姉ちゃんって。一人でさびしがっている。一希、待ってて。今、すぐに行くから……」
そう呟くと、何を思ったのか、床に落ちていたナイフを拾い上げ、それをひっさげて、武のそばにやってきた。
今度こそ殺される……。
武は思わず目を閉じた。
この部屋を出る前に、一思いに息の根を止めるつもりだ……。
しかし、真名子は、息がかかるくらいに間近までくると、掠《かす》れた声で囁くように言った。
「わたし、行かなくちゃならなくなった。時間がないの。もうすぐ船が出るから……」
船?
「一希が乗った船が出るの。わたしもそれに乗らなければいけない。兄弟が船出するとき、女の魂は白い鳥になって、どこまでもついていくの。だから、悪いけれど、儀式は中止よ。あなたに永遠の命を授けることはできなくなった。でも、その代わり、この世の命を授けてあげる」
そんな意味不明のことを言うと、武の右手をつかみ、掌を無理やり上に向けて開かせると、ナイフの切っ先で手首近くまで一直線に深い傷をつけた。
いまさら、この程度の傷をつけられても、痛くも痒《かゆ》くもなかった。たとえ、指を一本ずつ切り落とされたとしても、泣き叫ぶ力さえなかっただろう。
「ほら、これであなたの運命が変わった。生命線が少し伸びたわ。わたしの分まで……」
真名子はそう言うと、にっこりと笑った。そして、その血まみれの掌に、弟のために作ったという守袋を握らせると、「これもあげる」と言った。
こんなお守りをくれるくらいなら、そこに転がっているPHSで救急車でも呼んでくれないか……。
そう言いたかったが、声にはならなかった。
真名子の顔がすっと迫ってきたかと思うと、唇に生暖かい感触がした。かすかに血の味がする……。
「さようなら」
そう囁いて、真名子はすくっと立ち上がり、ナイフを投げ捨てると、まるで見えない糸に引っ張られるような奇妙な足取りで、ベランダに出られるガラス戸の方に歩いて行った。
どこへ行くんだ……?
武は、半ば意識を失いそうになりながら、必死に女の姿を目で追った。
真名子は、ガラス戸を開けると、ベランダに出た。
ためらう様子も見せずに、コンクリートの囲いに両手をついてよじ登った。
そして……。
まるで体操選手が平均台に立つようにバランスを取りながら、囲いの上に立つと、両手を左右に大きく広げた。
鳥が羽ばたくような仕草を見せたかと思うと、次の瞬間、その姿は消えていた。