真っ青に晴れ渡った秋空の下、自転車のペダルをこぎながら、村長夫人に教えられた通りの道を行くと、車道を少しはずれたところに、朽ちかけた木の鳥居がやや傾いて立っていた。
村長夫人の話では、蛇ノ口の入り口には、傾いた鳥居が立っているということだったから、おそらく、ここがそうなのだろう。
周囲には、「関係者以外立ち入り禁止」とか「この先、底無し沼有り。危険。入るべからず」などと書かれた標識が立っていた。それらの標識は、雨風にさらされて文字が薄れていたのを、最近になって、上から書き直したような跡があった。
鳥居には、貫《ぬき》の部分に張り巡らされたしめ縄以外にも、通行禁止というように、両柱の下方を一本の荒縄で結んであった。
蛍子は自転車を降り、鳥居のそばに停めると、あたりを見回し、人の目がないことを確認してから、その鳥居の柱を結んだ荒縄をまたぎ越した。
鳥居を抜けると、あたりは、生い茂る巨木の枝で空を覆い隠され、よく晴れた日の午前中だというのに、夕暮れのような薄暗い気配が漂っていた。
周囲の古木から落ちた枯れ葉や枯れ枝が長い間に蓄積してできたような地面は、足を踏み入れると、ずぶずぶとめり込むような薄気味悪く湿った感触がある。
侵入者の気配に驚いたような野鳥の鳴き声と、枝から枝へ飛び移る羽ばたきの音だけが静寂さの中で耳についた。
野鳥の中には烏もいるらしく、ぎゃあぎゃあと喚《わめ》くように鳴く耳障りな声が、おそるおそるという物腰で沼に近づいていく蛍子の不安をいっそう駆り立てた。
しばらく行くと、鮮やかな朱色の小さな社が見えてきた。近づいて見ると、「一夜日女命」と書かれた札が貼《は》られており、花と一緒に、キャラメルやらお菓子の袋、動物のぬいぐるみが供えられていた。
菓子袋の一部は烏にでも狙《ねら》われたのか、地面に落ち、袋が破けて中身が飛び出していた。
どうやらここが話に聞いていた「一夜日女」を祀った社らしい、とあたりを見回しながら蛍子は思った。
手前には、赤褐色のほぼ円形の沼があった。沼の表面はどろりと澱《よど》んでいて、あちこちに、水中の腐った葉や葦《あし》などから出るメタンガスらしき気泡がふつふつと湧《わ》いている。
まさしく、大蛇の口のようだ。
ここに伊達のライターが落ちていたということは、伊達もここに立ってこの沼を見ていたということだろう……。
それにしても、妙だ……。
蛍子は手の中のライターを握り締めて思った。
伊達はここでライターを落としたことに気づかずに村を発《た》ってしまったのだろうか。
いや、それはありえない。
伊達がここを訪れたのが九月二日だったのか三日だったのかは分からないが、どちらにせよ、四日の朝までライターをなくしたことに気づかなかったとはとうてい考えられない。タバコを喫おうとすればライターがないことにすぐに気づいたはずだ。
前に会ったとき、子供ができてから一日に喫うタバコの本数もだいぶ減ったというようなことを言っていたが、それでも、一日に一箱喫いきってしまうというヘビースモーカーに属する彼が、ここを訪れたあと、四日に村を出るまで、一本もタバコを喫わなかったとはとても思えない。
伊達はライターをなくしたことに気づいていたはずだ。それなのに、探そうともせずに村を出てしまったのか。それとも、一応探してはみたものの、見つからなかったのであきらめたのか。
蛍子のおぼえている限りでは、伊達はこのライターをとても大切にしていた。聞いた話では、十年ほど前、脳卒中で亡くなったという父親が、最期に握り締めていたのが、タバコに火をつけようとして手にしたこのライターだということだった。これを見るたびに愛煙家だった亡父のことを思い出すとよく言っていた。そんな大事な形見の品をなくしたと分かれば、滞在を延ばしてでも探しまわるような気がした。
たとえ、滞在を延ばすことができず、探すのをあきらめたとしても、このまま黙って村を出てしまったというのはどうも腑《ふ》に落ちない。
もし、自分なら……。
蛍子は思った。
誰かに、たとえば、宿泊先の住職にでも、発つ前に一言伝えておくだろう。そうすれば、後で見つかったときに連絡してもらえるからだ。
でも、住職からはそんな話は聞いてはいない。伊達はライターをなくしたことを住職には話さなかったのだろうか。それとも、住職がうっかり忘れているだけなのだろうか。
寺に帰ったら、そのことを住職に問いただしてみよう……。
蛍子はそう思った。