蛇ノ口を出ると、蛍子は再び自転車に乗り、今度は白玉温泉館に向かった。
村長夫人に教えられた通りの道を行くと、やがて、それらしき建物が見えてきた。いわゆる健康ランドというほどではないが、ただの銭湯というには、かなり立派な建物だった。造りも比較的最近建てられたことを示すように新しい。
「白玉温泉館」という大きな看板の立てられた入り口近くに自転車を停めると、中に入ってみた。
玄関を入ると、すぐに広いロビー風の造りになっていて、いかにも湯上がりといった風情の老若男女が思い思いの格好でくつろいでいた。
備え付けのテレビを見る者、テーブルに菓子類を並べてお茶を飲む者、うちわを使いながら将棋に興じる者、マッサージ器にかかる者……。
殆《ほとん》どが地元の人らしく年配客が多かった。
番台というか受付のところで規定の料金を払い、観光客用に置いてあった洗面セットを買うと、それを持って、テーブルに集まってお茶を飲んでいた老人たちに近づき、それとなく話しかけた。
あたりさわりのない世間話など少しして、ややうちとけたところで、伊達浩一のことに話を向けてみたが、残念ながら、この中には、伊達と直接話した人はいないようだった。
収穫なしかとあきらめかけたとき、
「……あ、そういや、伝さんがよそ者に小銭借りたとか言ってなかったけか」
心地良さそうに目をつぶってマッサージ器にかかっていた五十年配の男が、ふいに思い出したというように、ぽっかりと目を開けて言った。
男の話では、その「伝さん」という老人が、九月の初め頃、ここで知り合った観光客らしき「よそ者」に、缶ビール代として小銭を借りたのだという。その「よそ者」は日の本寺に泊まっているということだったので、翌日の午後、寺まで小銭を返しに出向いたところ、その男は既に旅立っていたというのである。
借りたといっても数百円足らずの金額らしいのだが、「伝さん」というのは、かなり律義な性格の人らしく、見も知らない人間に小銭とはいえ借りっ放しになっていることを気にしていたという。
「そのよそ者があんたの言う伊達ちゅう人かどうかは知らんけどね」
「それで、伝さんという人は?」
蛍子は聞くと、
「伝さんなら今|風呂《ふろ》に浸《つ》かっとる。そのうち上がってくるじゃろ」と五十男は答えた。リウマチの持病をもつ「伝さん」は殆ど毎日のようにここに来ているらしい。
「伝さん」が出てくるまで、ここで暇をつぶそうと決め、何げなくあたりを見回した蛍子の目が、テーブルの上に投げ出されていた数冊の古い週刊誌の表紙の上で止まった。
一番上の週刊誌の表紙の顔に見覚えがあった。白い歯を見せて精悍《せいかん》に笑う男の顔。大蔵大臣の新庄貴明だった。
「そういえば、大蔵大臣の新庄さんがこの村の出身とか……」
蛍子はその週刊誌を手に取りながら、何げなく雑談でもするような口調で言った。見ると、そこに投げ出されていた数冊の週刊誌は、何カ月も前の古いものから最近発売の新しいものも含めて、すべて新庄貴明がらみの記事を大きく扱ったものばかりだった。
話が「地元出身の大臣」のことに及ぶと、たむろしていた老人たちは俄《にわか》に活気づき、その口もうるさいほど滑らかになった。
「地元」といっても、数年前に急逝した前大蔵大臣新庄信人の女婿としてその地盤を引きついだ新庄にとって、ここが選挙区というわけではないはずだが、それでも、ここの人たちにしてみれば、この村の出身で、来月半ばに予定されている総選挙で、下馬評通り、今の与党が圧勝して政権維持となれば、最も有力な新総理候補とも言われているこの男が自慢でならないのだろう。
神家の総領として生まれた彼が、スポーツ勉学すべての点で群を抜いており、「神童」とまで呼ばれていたという子供時代の話からはじまって、一月ほど前、奇《く》しくも彼の次男が被害者として巻き込まれたあの猟奇事件の話に至るまで、蛍子が水を向けなくても、老人たちの噂話《うわさばなし》は滔々《とうとう》と続いて途切れることがなかった。
「……あの人があそこまでご出世されたのも、みんな大神のお力じゃよ」
「んだんだ。あの人には大神の御霊《みたま》がとり憑《つ》いておられるんじゃ」
それは、「噂話」というより、殆ど「礼讃《らいさん》」に近かった。まるで、何かの宗教の信者たちが寄り集まって「教祖様」の話でもしているように見えた。
ただ、これは新庄の生まれ故郷であるこの村だけの現象ではないようにも思えた。最近読んだ雑誌の中で、この男のことに触れて、辛口で有名な或《あ》る政治ジャーナリストが、
「……こう不景気が長引き世相が暗くなると、人は本能的に強い輝きを発する者にすがりつきたくなるものらしい。彼の登場は、まさしく、天の岩戸を押しあけて、常夜《とこよ》ゆく世界に燦然《さんぜん》と現れた『太陽神』のようでもある。しかし、この『太陽神』が暗黒にとざされた世界に光をもたらしにきた救世主なのか、或るいは、より破壊的な暗黒をもたらすためにやって来た、救世主を装った悪魔なのか、その黄金の輝きに目が眩《くら》み、ひたすら頭《こうべ》をたれて額《ぬか》ずく信者と化した者には到底見分けがつかないだろう……」
こんな論調で、新庄の生家がその「太陽神」を祀《まつ》る古社であることを知ってか知らずか、この男の異常なまでの「人気」を、「政治家」というより、新興宗教の「教祖」のようだと揶揄《やゆ》するように書いていたのを蛍子は思い出していた。
「……確か、新庄さんは学生時代に今の夫人と知り合って、新庄家に養子に行かれたんですよね?」
老人たちの話が沈静化したころを見計らって、蛍子はそう聞いてみた。
「神家のご長男だったのに、日の本神社の宮司職を継がなくてもよかったんでしょうか」
「継がなくてもいいんじゃなくて、もともと継げなかったんですよ、あの人には。たとえ本人が望んだとしてもね」
そう言ったのは、少し離れたところで、浴衣《ゆかた》姿でうちわを使いながら将棋を指していた四十年配の男だった。
将棋に熱中しているように見えたが、背中で蛍子たちの話を聞いていたらしい。
「え、それは一体……?」
蛍子が聞き返すと、その男が言うには、日の本神社の宮司をはじめとする神職は、すべて日女が産んだ者にしか許されておらず、たとえ宮司の子でも、母親が日女ではなかった新庄貴明には、はなから神職につく資格はなかったのだという。
「でも、たとえなれたとしても、ならなかったんじゃないかな。田舎の神主とか坊主なんて辛気臭くて御免だって子供の頃からよく言ってたからね……」
聞けば、その男は新庄と同い年で、小学校のときは机を並べたこともある同級生ということだった。
今でこそ、テレビなどに映る彼の姿は、百八十をゆうに越える日本人離れした長身をブランド物のスーツで颯爽《さつそう》と包み、いかにも都会的でスマートな印象を与えるが、小学校時代は、そのへんの野山を自分たちと一緒に駆け回ることを日課にしていた山猿なみの腕白小僧だったらしく、当時から、同年配の子供たちのがき大将的存在だったという。
もっとも、同級生として親しくしていたのは小学校の頃までで、小学校を卒業すると同時に、それ以上の教育を東京で受けるために上京して下宿生活をはじめた新庄とは、次第に疎遠になってしまったということだったが、それでも、中学生くらいまでは、夏期休暇などで郷里に帰ってきた彼と会って遊ぶこともたまにあったという。
「帰ってくるたびにこう都会慣れしたというかあか抜けた感じになっていって、もう俺《おれ》たちなんか迂闊《うかつ》に声もかけられないような存在になっていたなぁ。それでも、時々、気がむいたときには向こうから声かけてくれることもあったんだよ。そういえば、もうあの頃から将来は政治家になるってことを口にしていたね」
男は将棋盤を見つめながら何げなくそう言った。
「え。中学の頃から? でも、週刊誌の記事によると……」
蛍子はやや意表をつかれて言った。前に読んだ女性週刊誌か何かで、新庄が政治家になった理由として、インタビューに答えて、「本当は弁護士になりたかったのだが、たまたま、大学時代に知り合った妻が大物政治家の一人娘だったことから、結婚の条件として、舅《しゆうと》から婿入りして跡を継ぐことを要求され、悩んだ末にしかたなく政治家の道を選んだ」というようなことを言っていた記事を思い出し、そのことを言うと、それまで動いていた男のうちわがぴたりと止まった。
「それじゃ、新庄さんが政治家を志したのは、奥さんとの出会いがきっかけというわけではなかったのですか。もっと前から……?」
そう聞くと、男は、「つい口が滑った」とでも言うように、うちわで自分の口を覆った。
「い、いや、それは……えーと……そうそう、あれは中学じゃなくて大学のときの話だったかな。ど、どうも記憶が混乱してしまって」
それまで滑らかだった男の舌が突然もつれたようにしどろもどろになった。救いをもとめるようにあたりをきょろきょろさまよっていた男の視線がある方向で止まって、いいものを見つけたという顔になると、
「あ、伝さんだ」
と、うちわを口から離して言った。
何げなく男の視線の方を見ると、男湯と書かれたのれんをはねのけて、六十年配の浴衣姿の男が出てくるところだった。