蛍子が日の本寺に戻った頃には、既に午後七時に近く、食堂には夕食の膳《ぜん》が並べられようとしていた。
今夜のメニューは田楽豆腐をメインにした豆腐尽くしの料理のようだった。
「なんだかお顔の色艶がよろしいですけど、どこかで温泉にでも……?」
膳を並べていた住職の妻が蛍子の顔をのぞき込むようにして見ながら、笑顔でそう話しかけてきた。
蛍子は、実は村長夫人から教えられて白玉温泉館という所に寄ってきたと答えた。
規定料金さえ払えば、何時間いてもいいと聞き、あのあと、何度か湯とロビーを出たり入ったりして時間を潰《つぶ》し、あそこに集う村民から少しでも多く情報を得ようとしたのである。
しかも、白玉温泉の湯というのが硫黄臭もなく、さらさらした癖のない湯だったことと、美肌効果が特に高いということで、ついここに来た目的も忘れて湯に浸《つ》かっているうちに、寺に帰ってきたときには、湯あたりにも近い症状すら出ていた。
その白玉温泉館で、あの日、伊達と会って小銭を借りたという老人の話をすると、それまでにこにこして蛍子の話を聞いていた住職の妻の顔から笑みが消えた。
「それで、その伝さんという人の話では、九月四日の昼ごろ、こちらに小銭を返しに来たということなんですが……?」
そう聞くと、住職の妻は、やや沈黙したのち、そう言われてみればそんなことがあったと、ようやく思い出したように言った。
「しかも、伝さんの話では、伊達さんは五日までこちらにいると言っていたそうなんです」
「それは変ですねえ。こちらには予約のときから二泊三日ということで入れておりましたし、滞在を一日延ばすという話は聞いてませんでしたよ。きっと、伝さんの聞き違いだとおもいますけどねえ。あの人ももうお年ですから……」
住職の妻はなぜか蛍子と目を合わせるのを避けるように微妙に視線をはずしながら言った。
「それと、実は、太田村長のお宅で……」
蛍子は、ハンドバッグに入れておいた例のライターを取り出して、それを住職の妻に見せながら、伊達が白玉温泉館を訪れたのち蛇ノ口に行き、そこでライターを落としたらしいという話をした。
すると、住職の妻の顔色が少し変わったように見えた。
「そのことで、伊達さん、何か言ってなかったでしょうか」
蛍子は聞いても、住職の妻は、「さあ」と言ったきり、膳を並べるのが忙しいような振りをしていた。見ると、皿を並べる手が微《かす》かに震えているようだった。齢七十は越しているように見えたから、この手の震えは、単に年のせいなのかもしれないが、内心の動揺が表れているようにも見えた。
蛍子はさらに、このライターが伊達の亡父の形見で、伊達がとても大切にしていたこと、どこかで無くしたことに気が付けば必ず探しにいくのではないか。すぐにあきらめて村を出てしまったというのはどうも納得がいかないというようなことを畳みかけて言うと、
「……あ、そうそう。そういわれてみれば」
住職の妻はやっと思い出したというように言った。
「あの日、九月三日のことですが、夕方頃、伊達さんから懐中電灯を貸してくれって言われたんですよ……」
「懐中電灯?」
「ええ。何に使うのかって聞いたら、昼間、蛇ノ口に行ったときに大事なものを落としたらしいと言うんですよ。お父様の形見のライターとか。これから探しに行くとおっしゃるので、とめたんでございますよ。あそこはご神域ですから、よその方は入っては行けないところですし、底無し沼があって危険だからと。ましてや、足元が暗くなってからではよけい危ないですからね。そんなに大切な品なら、後で誰かに探しに行かせますからって言ったら、伊達さんも分かってくださいましてね。翌朝、お発《た》ちになるときに、もし見つかったら宿帳に記しておいた住所に送ってほしいとおっしゃっていましたっけ。いやですねえ。わたしも伝さんのことを嗤《わら》えませんね。まだまだ物覚えはいい方だとうぬぼれていたんですけど、ヤッパリ、年ですかねえ。それを今の今まですっかり忘れておりました。でもまあ、そんな大事なもの、見つかってようございましたねえ……」
住職の妻はそう言って、口元に手をあてると、やや取ってつけたように、「ほほほ」と力なく笑った。
その夜、床にはいっても、蛍子はなかなか寝付かれなかった。予定では、明日の朝には発つことになっている。もし、何かあれば、滞在を延ばすことも考えていたが、今のところ、収穫といえるものはあのライターくらいしかなかった。
しかし、ライターの件にしても、伊達の失踪《しつそう》とは関係ないといえば関係ないようにも思える。九月三日の午後、蛇ノ口を訪れた伊達がそこでライターを落とした。そのことを住職の妻に告げたが、住職の妻はそれをうっかり忘れていた……。ようはそれだけのことだったのかもしれない。
でも……。
なんとなく住職の妻の態度に不自然なものを感じてもいた。本当に今まで忘れていたのだろうか。蛍子に追及されて、しかたなく思い出したような振りをしたようにも見える。しかも、あの話をしている間中、住職の妻は一度も蛍子の目をまともに見ようとはしなかった。まるで目を合わせることを恐れるように視線を外し続けていた……。
それに、あの伝さんという老人の話。伊達がこの村に五日までいるつもりだと言っていたという……。あれがどうも気になった。
住職の妻の言うように、伝さんの聞き違いにすぎなかったのかもしれないが、もしそうではなかったとしたら……。
伊達が五日まで滞在するつもりでいたとしたらどうだろう。それなのに、何らかの事情で、四日の朝にここを出た。なぜ? これが逆ならまだ分かる。四日まで滞在するつもりでいたのを一日延ばしたというのなら。むろん、それは、蛇ノ口でなくしたライターを探すためにだ。しかし、事実はそうではなく、伊達は出発を一日早めている……。
伊達はいつまでこの村にいるつもりだったのだろうか。白玉温泉館に集う村民にあたっても、伝さん以外には伊達と接触した者を見つけることはできなかった。まさか、村中の家々を一軒ずつ訪ねるわけにもいかない。これ以上、この村に留《とど》まっていてもしょうがないような気がする。
それよりも……。
宿帳に載っていた大久保という夫婦ものらしき泊まり客……。
九月三日にこの寺に泊まった彼らなら、伊達と接触していた可能性が高い。彼らから何か聞き出せるかもしれない。予定通り、明日このまま東京に戻り、大久保松太郎という人物に連絡を取ってみようか……。
布団の中で大きく寝返りをうちながら、蛍子はそう決心した。
ようやく瞼《まぶた》に重いものを感じながら、眠りに落ちる寸前、蛍子の脳裏に、ふいに、昼間見た蛇ノ口の禍々《まがまが》しい姿が浮かんだ。
近づき過ぎた者を容赦なく呑《の》み込んでしまう赤褐色の底無し沼。
少しずつ近づいているうちに、知らぬ間に越えてはならない境界を越えてしまい、気が付いたときには、足元からずぶずぶと深みにはまり、引き返すことはおろか、動くことすらできなくなっている……。
思えば、あの蛇ノ口という沼は、日の本村という村を象徴しているようだ。距離を置いて眺めているぶんには、それはどこにでもあるような、山奥ののどかな村にすぎないのだが、少しでも関心をもって近づいていくと……。
日の本村という村そのものがそんな得体の知れない底無し沼のような気がした。
もしかしたら、自分も、全く自覚のないままに、もはや踝《くるぶし》のあたりまでこの沼にはまり込んでいるのではないか……。
蛍子は眠りに落ちる直前、ふとそんなことすら思った。