その夜。
シャワーを浴びてパジャマに着替えた蛍子は、ノートパソコンの電源を入れた。いつものようにメールチェックをしてから、沢地逸子のホームページを訪れてみると、コラムの項が新しく更新されていた。
今度は少し長いようだったが、さほど眠くもなかったので、そのまま読んでみることにした……。
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ヤマトタケルとは
ヤマトタケルといえば、まさに日本神話の英雄中の英雄であり、その物語は、今もなお、芝居、小説、映画、漫画、アニメなどの素材として、繰り返し使われるほど人気の衰えぬ人物である。その人気の秘密は一体どこにあるのだろうか。
記紀によれば、景行天皇の双子の皇子《みこ》の片割れとして生まれ、成人してからは、父王の命を受けて、西は九州から東は東北と、短い生涯の大半を「大和朝廷にまつろわぬ者の討伐」に捧《ささ》げ、ようやく、その使命を果たして大和に帰る途中、伊勢の能褒野《のぼの》というところで病に倒れ、死んだ後はその魂が大きな白鳥となって飛び去ったといわれている。
また、神話中の人物といっても、スサノオやオオクニヌシなどと違って「神」ではなく、あくまでも「人間」であるという設定から、そのモデル説も様々である。
たとえば、幼名をワカタケルと言い、武勇の誉れ高かったという雄略天皇説、あるいは、記紀が作られた時代の立役者の一人ともいえる大海人皇子《おおあまのおうじ》こと天武天皇説。
あるいは、この天武の第三皇子であり、弱冠二十四歳の若さで刑死した悲劇の皇子、大津皇子説。
また、やはり天武の第一皇子で、壬申《じんしん》の乱の折りには、父王の片腕となり、よく働いたが、母の身分が低かったために、第一皇子に生まれながらも、天皇にはなれず、異母弟たちの臣下としての生涯を運命づけられた高市皇子《たけちのみこ》説などなど。
この中でも、大津皇子説が有力であるように思える。というのは、日本書紀や懐風藻によれば、大津皇子は、風貌《ふうぼう》が大きく逞《たくま》しく、文武両道にすぐれ、臣下の人望も篤《あつ》かったとあるし、なによりも、同母の姉が伊勢神宮初の斎王(巫女《みこ》)であり、残された歌などから見ても、姉弟《きようだい》仲は睦《むつ》まじかったようであるから、やはり伊勢神宮の斎宮であった叔母《おば》のヤマトヒメに何かと助けられるヤマトタケルの物語とも符合するからである。
しかも、周囲から次期天皇と嘱望されながらも、謀反の罪で若くして刑死させられたという悲劇的な最期も、結局天皇になれずに旅先で病死したヤマトタケルの最期と通じるものがある。
ヤマトタケルと景行天皇の父子関係は、日本書紀では、非常に良好であったように描かれているが、古事記においては少し違う。この父子の間に何らかの確執があったのではないかと思わせるような描写がある(こういう描写があるところが、古事記が日本書紀より物語としては優れているゆえんだろう)。
ヤマトタケルが父の命でクマソ討伐を終えて大和に帰って来たとき、父王は、今度は東に討伐に行って来いと命じるのである。ヤマトタケルは、そんな父王の態度に疑惑と不満をおぼえたらしく、「父上は私に死ねというのか。西の討伐から帰ってまもないというのに、休む暇《いとま》も与えず、兵もろくにくれずに今度は東へ討伐に行ってこいなどと……」と泣いて、叔母であるヤマトヒメに訴えている。
ヤマトタケルの父王に対して抱いたこの疑惑もあながち考えすぎとはいいきれないものがある。景行にしてみれば、この勇猛果敢な息子は、頼もしい片腕でもあるが、裏を返せば、いつ妙な野心に駆られて自分の寝首を掻《か》かないとも限らない「危険人物」でもある。いわば、諸刃《もろは》の剣的な存在なのである。
西へ東へと追いやって、いっそのこと戦闘中に死んででもくれたら、大和朝廷に刃向かう敵はいなくなるし、危険人物もいなくなるしで、まさに一石二鳥というわけである。皇子なら他にもいるのだから、後はもっとおとなしい安全な人物に継がせればいい。父のそんな黒い思惑を、息子は敏感に察したともいえる。
古事記の、このあたりの父子の描き方に、天武天皇と、その父天武に対して、「謀反」の心を抱いたといわれている大津皇子との関係が色濃く反映しているようにも見える。
ちなみに、大津皇子の「謀反」は、実は、自分の産んだ子である第二皇子の草壁皇子を天皇にと願った天武の皇后(後の持統天皇)一派の謀略であるとの説もある。
大津皇子もそれなりの野心家ではあったようだから、完全な濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》ではなかったかもしれないが、あえて「謀反」など起こさずとも、いずれ、時が来ればすんなり天皇になれるだけの資質と条件が備わっていた皇子の境遇から考えれば、「謀略説」はかなり信憑性《しんぴようせい》が高いようである。
また、大津が刑死したとき、狂乱して夫の遺骸《いがい》にすがりついた后《きさき》の一人が、すぐさま自分も夫の後を追って自殺したという話も、この皇子が臣下だけでなく、后たちにも深く慕われていたことを物語るとされ、それは、夫の病死を知って、地面を這《は》い回るようにして泣き叫んだというヤマトタケルの后たちとも共通しているように見える。
もっとも、これらの話は、単に「殉死」の風習や、天皇や皇子などの身分の高い者が死んだとき、葬儀の場で、その死を大袈裟《おおげさ》に嘆き悲しむ演技をする「泣き女」の風習などを物語にからめて記しただけなのかもしれないが……。
それはさておき、このように、大津皇子とヤマトタケルには共通点が幾つもあるように見える。が、だからといって、大津皇子がそのままヤマトタケルのモデルかというと、そうは思えない。おそらく、ヤマトタケルには特定のモデルなどいないのだろう。あるいは、大津皇子をはじめ、先にあげたような天皇や皇子たちすべてがモデルといえばモデルだったのかもしれない。
つまり、ヤマトタケルとは、神武以来の「日嗣《ひつぎ》の皇子《みこ》」と呼ばれた天皇家の皇子たちを総称し、類型化した人格にすぎないのではないだろうか。
ところで、記紀の中では、「大和の英雄」と讃《たた》えられたヤマトタケルであるが、それはあくまでも大和朝廷側から見た場合であって、天誅《てんちゆう》の大義名分をもって殺された各地の「まつろわぬ者」こと先住民の王たちにしてみれば、彼は「英雄」どころか、憎むべき「侵略者」であり「虐殺者」でもあったわけである。
たとえば、クマソ討伐の折り、その地の首長であったクマソタケル兄弟を殺すとき、ヤマトタケルは女装して女に化け、敵が油断しているすきに刺し殺したとある。
このような戦い方にしても、あのヤマタノオロチを倒したスサノオの話同様、記紀においては、英雄の「力」だけではなく「知恵」を示すものとして褒めたたえているが、クマソ側にたってみれば、堂々と戦わず、女に化けるとは卑劣この上ないという見方だってできるだろう。
それにしても、このクマソ討伐の話で、非常に不可解に思うのは、いくら顔立ちが秀麗だったとはいえ、双子の兄の手足を素手でもいで殺してしまうような人間離れした怪力の持ち主で、筋骨たくましい大男(身長が一丈、というのだから、三メートル近くあったことになる)だったらしいヤマトタケルが、女装したからといって、はたして、本当に女に見えたのだろうかということである。
ただ、この「女装」の件は、その女の衣装というのが、叔母のヤマトヒメから借りた「巫女装束」だったということから考えて、別の解釈もできるので、それは後で改めて触れるとして……。
でも、たとえ、ヤマトタケルを「体制の手先」としての「侵略者」という、否定的な視点で見たとしても、それで、その魅力が消えてしまうわけではない。このへんにヤマトタケルという人物の人気の根強さがあるように思える。おそらく、ヤマトタケルの魅力の根拠がその並外れた強さにあるのではなく、それだけの強さをもちながらも覇者にはなれず、悲劇的な最期を遂げたということにあるからだろう。
一つの体制をうちたてるための縁の下の力持ち的な苦労ばかりを押し付けられて、体制が整った後の権力の旨《うま》みを味わうこともなく、志半ばで倒れた青年戦士的なイメージが、この人物を否定的に見ようとする人たちの同情さえも誘うのである。
もし、これが、伊勢の能褒野で倒れず、あのまま大和に凱旋《がいせん》し、父景行の後を継いで天皇となり、腐るほど子供を作ったのちに老衰で死んだとでもいう話であったならば、ヤマトタケルの名ははたして後世に残っただろうか。とっくに民衆から忘れ去られているだろう。
ヤマトタケルの魅力はその早すぎる死によって生み出されたといってもよい。彼は死ぬことによって永遠の生命を得たのである。これこそが「英雄」の条件ではないだろうか。ただ偉業を成し遂げたとか、ある分野において並外れた能力を発揮した、というだけでは、「英雄」とは呼べない。
まだ「英雄」の絶対条件を満たしてはいない。その絶対条件とは、若いうちに悲劇的な死を遂げること、である。そうなって、はじめて「英雄」の名を永遠にできるのである。なぜなら、「英雄《ヒーロー》」の本質とは、貪欲《どんよく》な神に捧げられた「贄《にえ》」なのだから。
そして、この貪欲で美食家の神は、けっして老いて固くなった肉を好まないのである。
三人の巫女
ヤマトタケルの物語には、三人の重要な女性が登場する。一人は、景行天皇の妹でもあり、伊勢神宮の斎宮でもあった叔母《おば》のヤマトヒメである。
今一人は、后の一人で、東征の途中、走水の海(今の浦賀水道)で、海が荒れたとき、海を鎮めようとして入水《じゆすい》して果てたオトタチバナヒメ。
そして、最後が、やはり后の一人で、ヤマトタケルから託された神剣「草薙《くさなぎ》の剣」を生涯かけて守り通したミヤズヒメである。
ヤマトタケル物語の魅力の一つは、この三人の女性とのかかわり、とりわけ、二人の后《きさき》とのラブロマンスにあるといえるかもしれない。武勇伝だけでは男性ファンを楽しませても、女性ファンまでは勝ち取れないだろう。
いや、女性だけでなく、「夫を苦境から救うために自らの命を犠牲にした」オトタチバナヒメの「妻の鑑《かがみ》」ともいうべき「献身愛」や、亡夫の形見である剣を守るために、神社を建て、その後の生涯を独身で過ごしたというミヤズヒメの「一途《いちず》な純愛」は、男性読者すら喜ばせそうである。
実際、こうしたラブロマンスがあるからこそ、老若男女を問わず、この英雄物語が長く愛されてきたのだろう。
それゆえ、これから私が書くことは、こうしたヤマトタケルと后たちの「純愛」物語に水をさすようで、少々気が引けるのだが、まあ、あくまでも勝手気ままな空想の産物として読み流して戴《いただ》きたい。
二人の后の「考察」をする前に、まず、叔母であるヤマトヒメの話からはじめよう。
ヤマトタケルにとって、ヤマトヒメとはまさに母神的な存在である。その数々の偉業も自らの「武力」だけで成し遂げたわけではなく、伊勢神宮の最高|巫女《みこ》でもあった叔母の「霊力」の介添えによって遂げられたといっても過言ではない。
たとえば、相模《さがみ》の国(古事記では駿河《するが》となっているが)で、その国の賊に野原におびき出されて、焼き殺されそうになったとき、ヤマトヒメから預かってきた「草薙の剣」と「火打ち石」を使って、草を払って迎え火を放ち、逆に敵を焼き殺して難を逃れたとある。
まさに、「剣」と「石」に籠《こ》もったヤマトヒメの強い霊力が、ヤマトタケルを守ったわけである。
さらにいえば、前に書いた、クマソ討伐の折りの「女装」の件も、「女装」して敵をあざむいたのではなく、巫女の「霊力」の籠もった衣装を、「お守り」として身につけ、その「霊力」を借りて、強敵に打ち勝ったという話であったとも読める。
こうした、「武力」と「霊力」の結合による偉業の達成という話は、古代の「まつりごと」の仕組みを暗に象徴しているのではないだろうか。
古代において、「まつりごと」とは、政治を意味する「政《まつりごと》」と、宗教的な祭祀《さいし》を意味する「祭りごと」の両方を意味し、天皇が「政治」を、皇后(ないしは天皇の姉妹)が、巫女として「祭祀」の方を司《つかさど》ったと言われているからである。
もし、こうした読み方が許されるならば、走水の海での、オトタチバナヒメの入水の一件も、単なる「妻の献身愛」ではなかったとも考えられる。
オトタチバナもまた巫女だったのではないだろうか。単に妻の一人としてではなく、海神を祀《まつ》る巫女として同船していたのではないか。
走水の海が荒れて船が立ち往生してしまったとき(海が荒れたのは、日本書紀によると、航海に先立って、ヤマトタケルが、「走水の海など大したことはない」というような言挙げ、つまり、神をないがしろにする言葉をはいて、海神を怒らせたからだとある)オトタチバナは、「私が御子《みこ》に代わって海に入りましょう」と申し出たというが、そのとき、すぐにドボンと海中に飛び込んだわけではなく、「菅畳《すがたたみ》八重、皮畳八重、絹畳八重を波の上に敷いて、その上におりた」とある。
これは、人身御供《ひとみごくう》の作法というより、何やらこの上で海を鎮めるための呪術《じゆじゆつ》的な行為をしたように見える。しかし、それでも海が鎮まらなかったので、最終的に、巫女である我が身を海神に捧《ささ》げたのかもしれない。
つまり、走水の海でのオトタチバナの入水は、「夫の身を案ずる妻」の行為というよりも、巫女としての責任を果たしたといった方がいいのではないだろうか。
また、この入水事件の七日後に、オトタチバナの櫛《くし》が浜辺に打ち上げられ、ヤマトタケルは嘆きながらその櫛で墓を作ったとある。
古代における「櫛」とは、単に「髪を梳《す》く道具」ではなく、「奇《く》し」にも通じて、何か呪術的な意味をもつものであったようだ。
たとえば、ヤマタノオロチ神話においても、一説によれば、スサノオはヤマタノオロチと戦う前に、クシナダヒメを一本の「爪櫛《つまぐし》」に変え、それを髪に挿して戦ったとある。これなども、ヒメの巫女としての霊力の籠もった「櫛」を身につけることで、自らの「武力」を「霊力」によってパワーアップしたとも読める。
「櫛」を神聖視するのは、櫛の素材である「樹木」を神の依《よ》り代《しろ》として神聖視することに端を発しているように思えるが、あるいは、古来、「髪」は「神」にも通じ、霊力の宿るもの、とりわけ「女の髪」には霊力が宿るという信仰があったことから、その髪に挿す櫛も神聖視されるようになったのだろうか。
それにしても、ここでふと思うのは、ヤマトタケルがオトタチバナの形見ともいうべき櫛を拾ったとき、それで墓など作らず、「お守り」として身につけていたら、彼を襲った後の不運も免れていたかもしれないということである……。
それはともかく、ヤマトヒメだけではなく、オトタチバナも巫女だったのではないかと私は書いた。それでは、「第三の女」ともいうべき、ミヤズヒメはどうだったのだろうか。
結論から言ってしまえば、私は、ミヤズヒメも、というか、このヒメこそ巫女であったと思う。また、そういう説も既にある。その一つの根拠として、古事記では、このミヤズヒメのことを、「尾張国造《おわりくにのみやつこ》の祖《おや》」と書いていることを挙げたい。
ミヤズヒメとヤマトタケルは、夫婦の契りはかわしているが、二人の間に子供ができたという記録はない。また、ミヤズヒメが他の男との間に子供をもうけたという記録もないようだ。このヒメを祀る地元の神社でも、「ミヤズヒメはヤマトタケルに操をたてて生涯独身を通した」などというように、その「貞節」ぶりを紹介しているようである。
どうやら、少なくとも資料の上では、子供を産んだように見えないこのヒメが、なぜ「尾張国造の祖」になりうるのか。
もっとも、「尾張国造の祖はミヤズヒメ」と書いているのは古事記だけであって、日本書紀や『熱田大神宮縁起』等には、「尾張国造の祖」は、ミヤズヒメの兄であるタケイナダネノミコトであると記されているらしい。
古事記と日本書紀等ではなぜ記述の内容が違うのかという謎《なぞ》の答えとして、このような説がある。それは、兄が「政《まつりごと》」を、妹の方が「祭りごと」を受け持っていたのではないかというのである。
天皇と皇后(あるいは天皇の姉妹)が共同して「まつりごと」を司ったという話は先に書いたが、こうしたやり方は、地方の豪族なども同じだったようで、というより、古い豪族の統治の仕方が、新興豪族にすぎなかった天皇家にも伝わったというべきかもしれないが。
しかも、祭祀などに深くかかわった氏族などでは、「祭祀」担当である女性の方を尊重して、「氏族の祖」と呼ぶことがあったといわれている。より古い伝承ほどそのように伝えているらしい。つまり、古事記の方が、日本書紀等よりも、より古い伝承を元にしているのではないかということである。
たとえば、あの「卑弥呼《ひみこ》」もこうした祭祀に深くかかわった氏族の巫女王のようなものだったのかもしれない。
実際、「卑弥呼」には、夫はいなかったようだが、「弟」が一人いて、これが「政治」を担当していた旨の記述がある。
そして、近親婚がタブーではなかった時代には、この「弟」がそのまま実質的な「夫」も兼ねていたとも考えられよう。
ヤマトタケルが活躍した時代には、まだ父系制度は広く定着しておらず、母系制を掲げる「女王国」のようなものが各地(とりわけ、九州など)に割拠していたらしいことは、日本書紀にも記されている。
ひょっとしたら、「尾張国」もまた、こうした「女王国」の一つだったのではないだろうか。そして、そこの「巫女王」がこのミヤズヒメだったのではないか。
ミヤズヒメが、このような「巫女王」だったのではないかと推察するもう一つの根拠として、「月経」に関する記述があることを挙げたい。
また「生理」の話かとうんざりする向きもあろうが、少し我慢して貰《もら》いたい。
東の討伐をほぼ終えて尾張の館《やかた》に立ち寄ったヤマトタケルと再会したとき、ミヤズヒメが「生理期間中」であったことが、古事記にはわざわざ記されている。
それはこうである。
館で酒などのもてなしを受けていたとき、ミヤズヒメの裳裾《もすそ》に「月のもの」が付いていることを、目ざとく見つけたヤマトタケルが、「今夜、あなたと一晩過ごそうと思ったのだが、裾に月が出ているね……」という意味のことを歌に託して言うと、ミヤズヒメは、臆《おく》することもなく、「こんなに長く待たされたのですから、月も出るでしょうよ、日の御子様」と軽くいなすようにも見える返歌をしている。
ちなみに、「待たされた」というのは、実は、ヤマトタケルは東の討伐に出掛ける前に、一度この館に寄ってヒメと会っているのである。しかし、このときは夫婦の契りは結ばず、「婚約」のようなことだけをして、討伐に出掛けてしまったのである。
それにしても、なぜ、ここで「あえて」ミヤズヒメが「月経中」であったことを記しているのだろうか。
結局、ヒメがそういう状態であったにもかかわらず、二人は夫婦の契りを結んでしまうことから、この二人がいかに愛し合っていたかという情熱の表れとして書き留めたのだろうか。
それとも……。
一説によると、古くは、「月経の日に交わると子供ができる」という考えがあったそうで、ユダヤなどでも、「父親の白い精液と母親の赤い精液が混じり合って子供ができる」という考えがまことしやかに信じられていたらしく、このような「非科学的」迷信から、あえて生理期間中に交わったのではないかという人もいる。
また、「ヤマトタケルの後の不運は、このとき、月経中のミヤズヒメと交わったことで、その聖性が穢《けが》されたからだ」というようなことを言う人もいるが、それは、後世の仏教的ないしは神道的な視点に立ちすぎた見方のように思われる。この物語の背景となっている時代には、まだ「経血が聖なるものを穢す」という「血の穢れ」思想は定着していなかったように見えるからだ。もし、この仏教的な思想が既に定着していたら、さすがにヤマトタケルも、ヒメとの同衾《どうきん》は差し控えただろう。
むしろ、話は逆で、この頃にはまだ、月経中の女性と交わることは、「穢れ」どころか、「パワーアップ」につながるという、道教的な「経血崇拝」のようなものがあったのではないだろうか。
太古、女性の「経血」には、魔を退け、我が身を守る不思議な力が備わっていると考えられていたことから、戦いの際には、男も女も、この「月の血」を身体中に塗りたくったという。また、この「月の血」を貴ぶゆえに、大事な神事は、巫女《みこ》の月経期間中に行われたことは何度も書いた。
ヤマトタケルが、あえて月経中のミヤズヒメと床入りしたという話は、こうした「血の儀式」ともいうべき古代の神事を物語化したものだったのではないだろうか。
古い伝承などを元にして作り上げたせいか、記紀、とりわけ古事記には、古くから伝わる呪術や神事の様をストーリー化したと見られる話が少なくないそうである。
先のオトタチバナの入水《じゆすい》の際の描写なども、「ナントカ畳を何枚も重ねてその上に座り云々《うんぬん》」というのは、海神を祀るときの呪術ないしは神事の様子を物語化したもののようにも思える。
また、ヤマトタケルが相模の国で賊に襲われ、野原に火をつけられたという話にしても、あれは、焼畑農耕を指しているのではないかという見方もある。あるいは、そうした古い農耕法を模した神事の様を物語にして語ったとも考えられる。
さらにいえば、クマソ討伐の「女装」の件も、男が「女装」して行う何らかの神事の様を語ったものなのかもしれない。もともと、祭祀《さいし》は女性の担当分野であったことから、男性が神事にかかわるときは、「女性化」、つまり「女装」したり「女の名前」を名乗ったりすることがあったからである。
話を元に戻すと、ゆえに、月経中のミヤズヒメと交わるということは、単に夫婦としての契りというより、それは、巫女とかわす儀式《イニシエーシヨン》に近く、その儀式によって、「月の血」の霊力を身につけ、さらなる力を蓄えたということになるのではないか。
だからこそ、この後、伊吹山の神を退治してくれんと、勇んで、近江に出かけて行ったのである。
ところが……。
その結果は無残なものと終わった。伊吹山の神に害されて、山の神を討つどころか、おのれが心神喪失のような状態で帰ってくることになるのである。そして、このとき得た病が元で、大和に帰る途中、伊勢の能褒野で、終《つい》に力つきるのである。
ところで、記紀では、伊勢の能褒野で亡くなったと記されているが、藤原|不比等《ふひと》の子、藤原|武智麻呂《むちまろ》が著した『武智麻呂伝』によると、伊吹山の民間伝承では、ヤマトタケルが死んだのはまさに伊吹山においてであって、「山の中程まで登ったとき、山の神に害せられて、白鳥となって飛び去った」とあるという。この伝承は、記紀が編まれる前からあったものらしいから、ひょっとしたら、能褒野まで至る話は記紀制作者が何らかの意図(たとえば、地名の由来を説明するためなど)で後で付け加えたものなのかもしれない。
いずれにせよ、この伊吹山でのことが、ヤマトタケルの命取りになったことは間違いない。
「月の血」に守られて、パワーアップしたはずのヤマトタケルが、なぜ、伊吹山の神には勝てなかったのだろうか。
もし、ミヤズヒメが巫女だとしたら、ヤマトヒメやオトタチバナヒメは、その霊力をもって、ヤマトタケルを守りきったのに、なぜミヤズヒメだけが守りきれなかったのか。
しかも、伊吹山の祭祀をしていたのは尾張氏であったという。ということは、まさに、伊吹山はミヤズヒメの管轄内であり、このヒメならば、「伊吹山の神」を鎮めるだけの力をもっていたはずである。
それなのに、なぜ……?
ミヤズヒメと草薙の剣
疑問はまだある。
この物語を読む多くの人たちの頭に浮かぶであろう、最大の疑問、それは、ヤマトタケルはなぜ、伊吹山に赴くときに、それまでけっして手放すことのなかった、神剣「草薙の剣」をミヤズヒメの元に置いて行ったのかということである。
この剣は単なる武器ではなく、ヤマトヒメの霊力の籠もった強力な「お守り」であり、また、王権を象徴する王章《レガリア》でもあったはずである。
普通ならば手放すはずがない。伊吹山での敗因は、明らかに、この「草薙の剣」を手放したことにあるように思える。あのアーサー王伝説でもそうだが、「剣の英雄」にとって、分身ともいうべき大切な剣を手放すということは、そのまま「英雄の死」を意味しているのである。
ところで、愛知県、火上《ほのかみ》山の麓《ふもと》に熱田神宮の摂社でもあり、元宮ともいわれる氷上姉子《ひかみあねこ》神社という社がある。祭神はミヤズヒメである。
神社の由緒によると、この社は、元はミヤズヒメの兄、タケイナダネノミコトの館跡であり、父や兄亡き後、ヤマトタケルから預かった「草薙の剣」を収め守るために、ミヤズヒメがここに社を建てたのだという。
現在は熱田神宮にあるといわれている「草薙の剣」(一説には、この剣は壇ノ浦の戦いで安徳天皇と共に海の藻屑《もくず》と消えたとされているが)は、最初はこの社に保管されていたらしい。さらに、その由緒によれば、ヤマトタケルが伊吹山に赴く際、その剣をミヤズヒメに「床守りにせよ」と託して行ったというのだが……。
この「ご由緒」をそのまま信じるならば、ヤマトタケルは「草薙の剣」を「自分の意志で」ヒメの元に置いて行ったということになる。
確かに、ヤマトタケルは死ぬ間際、こんな歌を詠んでいる。
嬢子《おとめ》の床の辺に 我が置きし つるぎの太刀 その太刀はや
この歌の意味は定かではない。剣に託してミヤズヒメのことを思い出しているようにも取れるし、あるいは、戦士らしく、最期まで我が魂ともいうべき「剣」のことを気にしていたとも取れる。
私としては、なんとなく、この歌に、ため息まじりの「後悔」のようなものを感じてしまうのだが。「ああ、なんであのとき、あそこに太刀を置いてきてしまったのか……」とでもいうような。
つまり……。
ヤマトタケルは「草薙の剣」をうっかり置き忘れたのでもなく、あるいは、自分の意志で置いたのでもなく、三番目の理由で、「仕方なく」ミヤズヒメの元に置いて行ったのではないか。
その三番目の理由とは、当のミヤズヒメに「所望」されたというものである。
一晩を過ごした愛《いと》しい女性に強く「所望」されれば、男たるもの、「まずいな」と内心では思いつつも、つい相手の言う通りにしてしまうのではないか。
あるいは、筋肉バカといってはなんだが、あまり思慮深いとはいえず、すぐに大言壮語したがる癖のあるこの男のことだから、「あなたは、伊吹山の神くらい、素手で取れないのですか」とミヤズヒメに挑発されれば、「なーに、俺《おれ》様ならそんなことは朝飯前だ」くらい言いそうである。
「だったら、こんな剣はいらないでしょ」
「い、いや、それは」
「わたしの床守りにちょーだい」
「で、でも……」
「ねえ、あなただと思って大切にするから、わたしにちょーだい」
「…………」
まるでコギャルと援交中のサラリーマンのような会話になってしまって恐縮だが、こんなやりとりが(むろんもっと厳粛に)二人の間にあったのではないだろうか。それで、ヤマトタケルは一抹の不安を抱えながらも、丸腰で伊吹山に出向くはめになったのではないだろうか。
それでは、なぜ、ミヤズヒメはそれほどまでに「草薙の剣」を欲しがったのか。
ちなみに、このヒメが祀《まつ》られている神社だが、昔は、「火上姉子《ほのかみあねこ》神社」という名前だったという。また、このあたりの地名は、現在では、「大高氷上」と呼ばれているが、昔は「火高火上」と呼ばれていたらしい。「火上」から「氷上」に名がガラリとかわったのは、このあたりでよく火災がおき、社や民家が被害にあったことから、「火」という字を忌んで、「氷」に変えたということらしい。
また、「熱田」という地名の由来も、ミヤズヒメが「草薙の剣」を守る社を造ったとき、そこの楓《かえで》の木が自然に燃え出したため、「熱田」と付けたという。
この社がある山も「火上山」といい、妙に「火」が関係しているのである。ひょっとすると、古来「火」にまつわる聖地か何かで、ミヤズヒメというのは、その「火」を守り祀る巫女だったのではないだろうか?
一方、「草薙の剣」も「火」にまつわる剣なのである。古事記には、ヤマタノオロチの尾から出てきた剣で、またの名を「天叢雲《あめのむらくも》の剣《つるぎ》」というとあることから、雨乞《あまご》いの儀式などに使う呪術用《じゆじゆつよう》の剣、すなわち「水を呼ぶ剣」であるという見方が有力のようだが、一説には、「草薙の剣」と「天叢雲の剣」は別物であるとも言われている。この件に関しては前にも書いたので、そちらを参考にして戴きたい。
どちらにせよ、少なくとも、ヤマトタケルの物語においては、「草薙の剣」は、明らかに「火」との関係で語られている。
ある資料によると、この「草薙の剣」というのは、弥生後期あたりの銅剣であるらしい。熱田神宮に収められたその剣を見た人の話では、この剣は、奇妙な保存のされ方をしていたという。それは、赤土で剣を包んで箱に入れ、さらにそれを再び赤土で包んで箱にいれるという、赤土と箱によって二重に包まれていたというのである。
この奇妙な保存の仕方は、古代、剣を土中に埋める習慣があったことと何か関係があるのではないかと言われている。たとえば、出雲地方の荒神谷《こうじんだに》遺跡などには、銅剣を地中に埋め、その回りで烈しく火を焚《た》いたような跡が残されているのだという。これは、武器としての剣を鍛えるというより、剣を武器以外の目的で使った呪術的な行為、すなわち、火祭りをした跡ではないかと考えられている。
「火祭り」に使う剣と、「火」を祀る巫女。
そのような構図で捉《とら》えれば、ミヤズヒメがこの剣を「所望」した理由もおぼろげに見えてくるような気がするのだが……。
伊吹山について
ミヤズヒメと草薙の剣の関係について、さらなる考察を続ける前に、ここで、少し視点を転じて、伊吹山について触れておこう。
滋賀県と岐阜県との県境にある、標高一三七七メートルといわれる、この山は、古くから霊山として崇《あが》められてきたようである。
奈良時代、役行者《えんのぎようじや》によって開かれた山岳仏教の信仰地としても有名だろうが、霊山としての歴史はさらに古く、縄文の時代にまで溯《さかのぼ》ることができるらしい。というのも、伊吹山の山頂から、縄文期のものと思われる石のやじりが発見されているからである。
石のやじりといっても、それを作ったときに出た石屑《いしくず》のようなものも一緒に発見されていることから、縄文人が狩りをしていて落としていったという類《たぐ》いのものではなく、わざわざ山頂で、石のやじりを作っていたということになる。何らかの祭祀《さいし》に使ったのではないかと言われている。
山頂ということから考えて、月ないしは星(北斗星や北極星)等の天体(太陽信仰はもう少し後のような気がするが)にかかわる祭祀だったのではないだろうか。
ところで、ヤマトタケルを害したという「伊吹山の神」とはいかなるものだったのだろうか?
古事記では、それは「白猪」であったといい、日本書紀では、「蛇」であったと記されている。
どちらが正しいともいえないが、「山の神=猪」に立った見解として、面白いものがある。それは、ヤマトタケルには「穀物神」としての性格があって、そのために、「猪」に殺されたのではないかという説である。つまり、「穀物」を食い荒らすのは、野山の猪というわけである。
「英雄神」が「猪」に殺されるというパターンの神話は、世界中において見られるという。有名な話では、あのギリシャ神話の「アドニス」の話である。フェニキアの王子であり、愛の女神アフロディテの恋人でもあった、美貌《びぼう》の狩人アドニスが、ある日、狩りの最中に、巨大な猪に出会い、「股間《こかん》」を牙《きば》で抉《えぐ》られて死ぬという話である。
また、日本神話においても、あのオオクニヌシの話の中に、やはり、「猪」が出てくる。オオクニヌシが兄弟神たちに騙《だま》されて、山の上から転がされた「赤く焼けた大石」を「赤猪」だと思いこみ、捕まえようと抱きとめて死ぬ話(母神の力ですぐに復活している)であるが、こうした、「英雄神」が「猪」に殺されるという話は、昔、山や大地の豊饒《ほうじよう》を祈る儀式などにおいて生き贄《にえ》が捧《ささ》げられていたことを物語るものといわれている。
なるほど、焼畑農耕を思わせる相模の国でのエピソードといい、また、東征の際、水軍を率いて副将軍として付き従ったのが、「稲種」という名前をもつ、ミヤズヒメの兄のタケイナダネノミコトだったことも、ヤマトタケルが「稲」なり「農耕」と深くかかわっていたことを思わせる。
ヤマトタケルの西や東への遠征は、「朝廷にまつろわぬ者を退治する」という軍事目的だけではなく、「稲作」を広めるという文化的な目的もあったのかもしれない。それこそが日本列島を「あまねく太陽の光で照らし出す」、いいかえれば「完全に支配し統治する」ための、「日の御子《みこ》」の最大の使命であったとも取れる。
そんな使命をもったヤマトタケルが、伊吹山の山中で、「穀物」の敵ともいえる「猪」に殺されるというのは、話の筋も通っていて、面白いのだが……。
しかし、伊吹山にまつわる伝承や民話の類いを当たってみると、「蛇」に関する話が少なくないことに気づくのである。
たとえば……。
その一つは、伊吹山を作った巨人と言われ、山頂付近の池の名前にもなっている「伊吹弥三郎」伝説である。
一説によると、この「伊吹弥三郎」とは、あの大江山の酒呑童子《しゆてんどうじ》の父とも言われている酒好きの巨人で、九州の大人弥五郎《おおひとやごろう》なる巨人とは兄弟だという。弥五郎の方は、九州討伐の際に、ヤマトタケルによって殺されたのだといわれている。
それなら「巨人」か「鬼」の話の類いで、「蛇」とは関係ないじゃないかと思われるかもしれないが、なんと、この「伊吹弥三郎」は、あの出雲のヤマタノオロチの末裔《まつえい》だというのである。いわば蛇の血を引く巨人というわけである。無類の「酒好き」も、ヤマタノオロチの血筋であるせいらしい。ということは、そうか、酒呑童子の酒好きはヤマタノオロチの血だったのか……などと合点してもしょうがないような、典型的な後付け譚《たん》にすぎない気もするが(この手の妖怪《ようかい》の多くが酒好きだというのは、彼らが古き神々の成れの果てであることの証拠である。古くはこうした神々に酒を捧げる習慣があったからである)、伊吹弥三郎なる巨人が伊吹山の「主《ぬし》」だったとすれば、この「山の神」がヤマトタケルを恨むのも当然だろう。
草薙の剣とは、元は出雲のヤマタノオロチの所有物であったのだから、それを奪った天孫《てんそん》族の直系の子孫であり、しかも、九州の兄弟を殺した張本人でもあるヤマトタケルには、まさに二重の恨みを抱いていたことになる。恨み骨髄とはこのことである。それこそ、弥三郎にしてみれば、「あいつがこの山に登ってきたら、即刻、取り殺してくれん」と、てぐすねひいて待っていたに違いない。そんなところに、丸腰同然でノコノコ入って行ったのだから、はなから勝負はついていたようなものである。
それはさておき。
伊吹町に伝わる民話には、さらに面白いものがある。いわゆる「蛇女房」譚である。これは、伊吹山というより、むしろ琵琶湖《びわこ》がらみの話であるかもしれないが、非常に興味深い話なので、紹介しておこう。
ある日、与助という鍛冶《かじ》職人が子供たちに苛《いじ》められていた蛇を助けた。すると、この蛇が美女に化けて訪ねてきて、恩返しにと、与助の女房になる。すぐに男の子が生まれるが、蛇女房は子供を残して琵琶湖に帰ってしまう。赤ん坊がひもじがって泣くと、与助は子供を抱いて琵琶湖に出掛け、蛇女房を呼び出した。すると、蛇は、金の弄玉《あめだま》をくれた。それを子供に与えると、子供は泣き止んだ。しばらくして、また子供が泣くので同じことをすると、やはり、蛇は金の弄玉をくれた。実は、その金の弄玉のように見えたものは、蛇の両眼だった。蛇は、子供|可愛《かわい》さから、自分の両目を抉り取って与えていたのである。
やがて、与助は殿様から三井寺《みいでら》の鐘を作るように命じられ、立派な鐘を作って、殿様に献上するが、この鐘は殿様がついてもカンとも鳴らなかった。怒った殿様に作り直しを命じられたとき、蛇女房の血を引く、与助の子がその鐘を無心につくと、鐘は高らかに鳴ったという。
まさに「鶴の恩返し」と「羽衣伝説」を合わせたような話であるが、こうした「蛇女房」の話は、諏訪信仰の項でも触れたが、太古の母神信仰が根底にあるように思える。
ちなみに、このような「女蛇」にまつわる伝説は、各地に見受けられるが、大きく分けて二タイプの話があるようだ。ひとつは、この民話のように、「女蛇が自分の子供ないしは見初めた男を窮地から救う」という「守り型」であり、今ひとつはこの逆で、あの道成寺《どうじようじ》伝説に見られるような、「見初めた男を襲って殺す」という「迫害型」である。
これは、こうした伝承が、古代の母神信仰における「豊饒と破壊」という相反する二つの側面をおぼろげに伝えているような気がしてならない。もっとも、母神信仰における「破壊」とは、「破壊」のための「破壊」ではなく、あくまでも「豊饒」を得るための一時的な「破壊」ではあるが。
ところで、道成寺伝説といえば、やはりあの話の中にも「鐘」が出てくる。「蛇」と「鐘」とは何か関係があるのだろうか。
さらにいうと、前に語った「伊吹弥三郎」伝説にも、「鐘」ではないが、鐘の素材である「鉄」がからんでくる。この巨人がたたら製鉄にかかわっていたように描かれているのである。
伊吹弥三郎が出雲のヤマタノオロチの末裔といわれるのも、実はこの「製鉄」にまつわる相似性ゆえとも考えられる。
ヤマタノオロチもまた、「水神」あるいは「穀神」という見方以外にも、製鉄などにかかわる氏族に祀《まつ》られていた「鍛冶神」ではないかという説がある。
「ヤマタノオロチ=斐伊《ひい》川」説によれば、ヤマタノオロチの「腹がいつも赤い血で爛《ただ》れていた」という描写は、この斐伊川流域でかつて行われていた「野だたら」のことを暗に示しているのではないかというのだ。そして、オロチの尾から出てきた「草薙の剣」とは、こうした斐伊川流域の「野だたら」で作られた剣が朝廷に献上されていたことを、あのような形で伝えられたのではないかというのである。
確かに、ヤマタノオロチには、「火」と「水」という相反する要素がつきまとう。蛇の本質らしく「水神」であるようにも見えるが、同時に、「火神」でもあるように見える。しかし、これも、「鍛冶」の神であるという視点でみれば、すんなりと説明がつく。「鍛冶」には、常に「火」と「水」が必要だからである。それゆえに、「鍛冶」にたずさわる人々は、「火」と「水」の両方の神格をもつ神を祀る必要があったと思われるからである。前に私は、ヤマタノオロチとはイザナミノミコトのことであり、「火山」にまつわる太母神信仰がこの神話の根底にあるのではないかと書いたが、ヤマタノオロチを「鍛冶神」と見る説にも大いに頷《うなず》けるものがある。
ヤマタノオロチを太古の「母神」と見る見方と、「鍛冶神」と見る見方は、「時間の経過」という概念を考慮に入れれば、けっして矛盾するものではない。
諏訪信仰のミシャグチ神のように、その時代に必要とされた様々な「神格」が、時間をかけて、一つの神に重なり合っていったと考えられるからである。
ヤマタノオロチの神格の最も古層には「母神」的なものがあったと思われる。それが、稲作や製鉄技術などが広まり定着するにつれて、「鍛冶神」としての神格をも持つようになったのではないだろうか。
そして、最終的には、ヤマタノオロチは「太陽神」としての神格をも持つに至ったのではないか。
なぜなら、鍛冶に必要なのは、「火」と「水」だけではない。「風」も必要である。おそらく、原初においては、「火」「水」「風」にそれぞれ固有の神がいて、それらを信仰していたに違いない。
しかし、やがて、こうした信仰が一本化されるようになったのではないか。この三つの要素を統合しえるのが、「日」あるいは「天空」信仰なのである。
「太陽」は、空で燃える「火」であり、時には、「水」を降らせ、そして、時には、「風」を起こす。すべての要素を持っているわけである。「太陽」を信仰することで、「火」も「水」も「風」も制御できると考えられるようになったのではないか。いわば「信仰の合理化」が行われたのである。
しかし、この「合理化」には犠牲者、つまり切り捨てられた者が存在した。それは、オールマイティの「太陽神」にとってかわられ、もはや用済みとなった古き神々である。火の神であり、水の神であり、風の神であり。そして、彼らの多くが、「太陽神」にたてついた「悪逆の妖怪」ということにされて、日の光のささない、じめついた暗闇《くらやみ》に追いやられることになる。
「闇」とは、いつも、こうした「強すぎる光」によって作り出されるものだ。「悪」という概念が、「善の強調」によって生み出されるように。
そういえば、ギリシャ神話においても、大地女神ガイアが生んだ神々は、みな山を思わせるような巨人であり、その本性は蛇であり、ヘパイストスのような鍛冶神もいた。
そして、彼らは、太古、火山や海を支配していたが、やがて、「天」を統治するゼウスや「太陽神」アポロンらによって「退治」されたのである。
それはあたかも、「火と水」を信奉する母系制の古き民族が、「日」を信奉する父系制の民族に侵略され、滅ぼされ、もしくは、その新しい体制の中に否応《いやおう》なく組み込まれていった様をほうふつとさせる。
あるいは、それは、他民族の侵略などではなく、同一民族の中で生じた必然的な「進化」だったのかもしれないが……。
尾張氏について
さて、ここでまたミヤズヒメの話に戻ろうと思うのだが、その前に、少し尾張氏について触れておこう。
記紀によれば、尾張氏の祖神《おやがみ》は、天火明命《あめのほあかりのみこと》といって、これは、天照大神の孫にあたり、皇祖神でもあるニニギノミコトの兄ということになっている。
一説には、ホアカリとは、「穂熟」とも記し、「稲穂の赤く実るさま」を言うことから、「稲作」にまつわる神であるようにも思われるが、播磨国《はりまのくに》風土記によれば、この神は、オオナムチ(オオクニヌシの別名ともいわれる)の子で、暴風雨などを起こす乱暴な性格の蛇神(海蛇)であるという記述がされている。
どちらともいえないが、尾張氏がもともとは海人《あま》族であることを考えると、「海蛇」説もまんざら見当違いとも思えない。陸に上がった海人族が稲作を行うようになったことから、このように祖神の神格が変わったのだとも解釈できよう。
また、尾張氏が鍛冶にたずさわる氏族であったということからみても、「火明」というのは、鍛冶に使う「火」を指しているようにも思える。
ここで少し余談になるが、「鍛冶と火」といえば、山岳仏教(密教)などで、最も重要な明王の一人とされ、大日如来の憤怒《ふんぬ》形ないしは化身とも言われる、あの「不動明王」とは、ひょっとしたら、「鍛冶」にかかわる「仏」ではないのだろうか。
不動明王の塑像や絵姿を見ると、両目をかっと見開いているものもあるが、なぜか、両目の大きさが違うものがある。左目をやや閉じるようにして、右目を大きく見開いているのである。背に大火炎を背負い、憤怒の形相で、片目をつぶり、片目を大きく開けて、歯を食いしばっている様は、「鍛冶」にたずさわる者が火を見つめている様を連想してしまう。鍛冶にたずさわる者は、一種の職業病として片目を害することが多かったともいわれているからである。
また、この不動明王は、元はといえば、インド神話の「創造と破壊の神」であるシヴァ大神が仏教に取り入れられ、「仏」化したものだといわれているが、そのシヴァ大神の元をただせば、この神の后《きさき》の一人とされている太母神カーリーが「男性化」したものなのである。そして、カーリー女神の本性は「蛇」である。
つまりは、蛇女神が男性化したシヴァを「仏」化した不動明王の本性も「蛇」だということになる。
しかも、不動明王は、右手に剣、左手にケンジャクと呼ばれる縄をもっていることが多い。この「剣」と「縄」は、一説によれば、仏の教えに従わない悪人どもを見つけだし懲らしめるための道具であるというのだが、もとをいえば、「剣」も「縄」も共に「蛇」を表すシンボルなのである……。
とまあ、余談はこのくらいにして、話を元に戻すと、この天火明命には、別名があり、それは「ニギハヤヒノミコト」であるという。
このニギハヤヒというのは、古代の大豪族、物部氏の祖神でもある。つまり、尾張氏と物部氏は同一の祖神から派生した氏族であるというのである。これには異論もあるが、とりあえず、同一神ということで話をすすめると……。
記紀によれば、この神は、天孫族の一人で、神武天皇に先立って大和に「天降り」していたのだが、神武が大和入りした際、「心よく」国譲りに応じたとある。そのとき、その土地の首長であり、ニギハヤヒの義兄(妻の兄)でもあったナガスネヒコが国譲りに反対したために、ニギハヤヒは、ナガスネヒコを即座に切り捨てたとある。
ただし、物部氏の伝承によると、ニギハヤヒはナガスネヒコを切り捨てたのではなく、大和から追放しただけということになっており、このナガスネヒコが東北に至り、外物部ともいうべき氏族の祖になったのだともいう。
この逸話から何か思い出さないだろうか。そう。あの出雲の国譲り神話である。天照大神の使いである神に対して、出雲の王であるオオクニヌシは心良く国譲りに応じたが、その息子であるタケミナカタは反対し、そのために諏訪に追放されたという、あの話である。
神話や伝承の類《たぐ》いにありがちなパターンの繰り返しにすぎないのかもしれないが、それにしても話が似すぎている。
それゆえ、あの出雲における国譲りの話は、実は、この大和における国譲りの話を模したものではないかという説もある。
それはともかく、神話の中では、「国譲り」などと穏やかな書き方をしているが、むろん、これは、神武側の「侵略」であり、おそらく、血で血を洗う戦闘は避けられなかったのではないか。
それでも、神話の中では、このニギハヤヒのことを、他の先住民の王のように「まつろわぬ者」扱いせずに、一応「天孫族」と認め、敗者に対して敬意をはらうような書き方をしているのは、この神を祀《まつ》っていた物部氏の一部が、いわば内物部として、大和朝廷の中に取り込まれたからだろう。
この後、物部系のヒメが天皇の后となることで、物部氏の血脈は女系を通して天皇家に伝わっていくのである。これでは、敗者といえども、あまり悪し様な書き方はできなかったに違いない。
また、それ以上に、大和朝廷が物部氏に対して「気を遣った」のは、物部氏が三輪山を根拠とする強力な呪術《じゆじゆつ》集団であったからかもしれない。物部氏というと、「武士《もののふ》」の語源にもなっていることから、軍事集団であったように思われることが多いが、それ以前に、祭祀《さいし》集団でもあったのである。
おそらく、三輪山の祭祀は、物部氏の力なくしては無理だったのだろう。それで、やむなく物部氏に「祭祀権」を明け渡したのではないか。
今もなお、この三輪山の麓《ふもと》には、大神神社という古社があり、そこの祭神は「大物主」という大蛇の神だという。
つまり、物部氏が祀っていたのは蛇であり、物部氏とは蛇神族でもあったのである。また、一説には、この「大物主」が、物部氏の祖神ニギハヤヒであるともいわれている。しかも、この神は蛇であるだけでなく、「鍛冶《かじ》神」でもあり、「太陽神」でもあったというのである。そして、このニギハヤヒという男神こそが真の「天照大神」であったともいう。
天照大神の本性が「蛇」で、しかも「男神」ではないかという、伊勢神宮内部からも聞こえてきたという噂《うわさ》の根拠は、どうやら、このあたりにあるようだ。
ただ、この「ヤマト[#「ト」に傍点]ノオロチ」ともいうべき、三輪山の「大物主」も、最も古層においては、「母神」的な存在だったのではないだろうか。それは、この神が、「日神」とされる前から、「水と火」の神とされていた痕跡《こんせき》があるからである(今でも、「酒造りの神」として信仰され、元旦には、火祭りともいえる行事が行われている)
それが「男神化」したのは、この神を祀る氏族が、母系制から父系制に移行したからにほかならない。それが他民族の侵略によるものだったか、あるいは、内部からの必然的な変化によるものだったかは分からないが。
この神を祀っていたという物部氏が父系制をとっていたことは、「物部古事記」ともいうべき『先代旧事本紀《せんだいくじほんぎ》』という資料(偽書説もあるが)を見ても明らかである。
しかし、ひょっとしたら、物部氏が大和入りする前に、母系制の蛇神族が既に住み着いていたのかもしれない。それがニギハヤヒが「婿入り」したというナガスネヒコ一族だったのではないだろうか。ちなみに、ナガスネヒコというのは、その名前からも推測できるように、「足の長い巨人」だったといわれている。
そして、おそらく、このナガスネヒコ一族(母系制の祭祀一族だとすれば、ニギハヤヒの妻になったというナガスネヒコの妹ミカヤヒメの方が一族の首長であったようにも思える)こそが、大和に最初に住み着き、三輪山の神たる「大蛇母神」を信仰していたのではないか。
それが、ニギハヤヒを首長とする父系制の物部氏によって「侵略」され、その体制の中に組み込まれた結果、三輪山の神たる「大物主」の神格も、「母なる大蛇」から「父なる太陽神」に変わっていったのではないだろうか。
日本神話における「太陽女神の創造」には、このような二重の転換ともいうべき複雑な背景があったのではないだろうか。まず、三輪山の「母なる大蛇」が「男性化」して「太陽神」となり、その「太陽神」が伊勢に移されてからは、再び「女性化」したというわけである。
この「女性化」の大きな要因は、記紀が編まれた頃の天皇が持統という女帝だったことにあると思うが、同時に、三輪山の神の本性がもともとは「母なる蛇」であることが、まだこの時代にはおぼろげながら伝承などによって残っていたからかもしれない。
もっとも、こうした「自然神」が男か女かという詮索《せんさく》は馬鹿げているといえば馬鹿げている。もともと、「太陽(自然)」そのものには性別などなかったものが、それを祀る者が死んで祀られるようになることで、祀る者の性が「太陽」と同一視されるようになったにすぎないからである。「太陽」を祀っていたのが巫女《みこ》ならば、次第に「太陽神」は「女神」の性格を帯び、男巫ならば、「男神」の性格を帯びるようになったともいえるわけだから。
尾張氏の話をするつもりが、いつのまにか物部氏の話になってしまったようである。ついでといってはなんだが、もう少し物部氏の話をすると、実は、あの諏訪信仰においても、この物部氏が関係しているのである。
諏訪信仰において最も重要な社である上社前宮の背後には、守屋山なる山があり、これが御神体でもあるのだが(古社であればあるほど、本殿はもたず、こうした山や大岩などを御神体としていることが多い)、実はこの「守屋山」の「守屋」という名前は、物部守屋から来ているというのだ。
物部守屋といえば、仏教をめぐって蘇我氏との政争に敗れ、物部氏滅亡のきっかけとなった人物だが、このとき、守屋の一子|弟君《おとぎみ》が、家臣に守られ諏訪の地まで逃げ延び、当時は「守矢山」と呼ばれていた山麓《さんろく》に隠れ住んだのだという。やがて、その地を支配していたモリヤ氏の保護を受けて弟君は成長し、これが後に「神長武麻呂《かんながたけまろ》」となったという。
もし、これがよくある落人《おちうど》伝説の類いではないとしたら、物部氏の血が、諏訪信仰を支える神官の系譜にも流れこんでいるということになる……。
蛇から鳥へ
世界の神話をざっと眺めても、「蛇」は「大地信仰」のシンボルであり、「太陽信仰」のシンボルは「鳥」である。
しかし、信仰の中心軸が、「大地信仰」から「太陽信仰」に移行する過程で、「蛇」が「太陽」のシンボルとなることもあった。
これは、蛇の「脱皮による再生力」が、昇っては沈み沈んでは昇る「太陽」の「再生力」と同一視されたからだともいえるが、大地信仰を制圧していく過程で、その信仰を支えていた蛇の神格を取り入れたと考えることもできよう。
たとえば、古代アステカの太陽神は、ケツァールコアトルという「羽毛ある蛇」であることは前にも書いたが、ケツァールとは「胸の赤い鳥」のことであり、コアトルとは太陽神の母でもある大地女神の名で、「蛇」の意味がある。つまり、「蛇」が「鳥」を生んだともいえるわけである。
それはあたかも、海から陸にはい上がってきた「蛇」が、やがて、その鱗《うろこ》が羽毛化して、翼が生え、「鳥」に進化していく様を見るようである。
「翼ある蛇」というのは、進化論的にいうならば、まさに、「地の蛇」と「天の鳥」との中間に存在する「始祖鳥」であるともいえよう。
三輪山の神である「大物主」も、これと同じような変化をとげているように見える。蛇の神格をもつ太陽神も、三輪山から伊勢に移されたときには、既に、そのシンボルは、「蛇」ではなく「ヤタガラス」という三本足の鳥になっていたのであるから。
ところで、ヤマトタケルの物語にも、この「太陽神」の「蛇から鳥へ」の変化の描写がシンボリックに語られているような気がしてならない。
ヤマトタケルが伊勢の能褒野で息絶えたとき、その魂が大きな白鳥となって大空を飛んで行ったという話は、記紀にもちゃんと記されており、この哀切で美しいイメージの最期があるからこそ、ヤマトタケル物語が不滅の人気を得るようになったのだと思うのだが、もしも、もしもである、ヤマトタケルが「鳥」になる前に「蛇」になっていたのだとしたらどうだろうか?
私の深読みにすぎないのかもしれないが、古事記の中にどうしても気になる描写がある。それは、伊吹山で「山の神」に害されたあと、ヤマトタケルが大和に帰る途中の描写である。
伊吹山で得た病が次第に重くなり、だんだん衰弱して行く様が、妙に「足」にこだわって描かれているのである。
たとえば……。
当芸《たぎ》という地に至ったときには、「今吾が足え歩かず、たぎたぎしくなりぬ」と言って、びっこをひきはじめる。「たぎたぎしい」とは、「高かったり低かったり」の意があり、びっこを引くときなどに使われたようである。
そして、進むにつれて、衰弱はさらに増し、今度は杖《つえ》をついて歩くようになる。やがて、三重に至ったときには、「吾が足、三重の勾《まが》りなして、いたく疲れたり」と嘆くのである。
「足が三重の勾りをなす」とは、一体どういう状態を言うのだろうか。グニャグニャに曲がってしまったということなのか。疲労が激しくて歩けなくなった様を言うにしても、奇妙な表現である。もはや歩けなくなったことを言うならば、「地面に膝《ひざ》をつく」つまり「二重の勾り」とでもいうならまだ理解できるのだが……。
ところで、この「三重の勾り」に似た表現が他にも古事記の中にはある。それは、かの三輪山の「大物主」に関するエピソードで、いわゆる蛇婿|譚《たん》である。
イクタマヨリヒメという美女が自分の元に夜な夜な通ってくる男の正体を知ろうと、ある日、その男の裳裾《もすそ》に麻糸を通した針を刺しておいたところ、翌朝、麻糸は「三勾《みわ》」だけ残して、あとは戸口の鍵穴《かぎあな》から消えており、その跡をたどっていったら、三輪山の社に行き着いたという話であるが、この「三勾」とは、「三重の輪」、ひいては、三輪山の神が蛇神であることから、「三重のとぐろ」を示している。
ということは、「三重の勾り」とは、足がグニャグニャになって「三重のとぐろ」を巻いたようになってしまったということではないのだろうか。これは、ヤマトタケルの「足」がだんだん「蛇」のようになっていく様、その「蛇体化」を暗に語っているのではないか。
世界の神話においても、「足」に特徴のある神がよく登場する。それは、「一本足の神」であったり、「両足の長さが違う神」であったり、「びっこを引く神」であったり、「足が悪く杖をついている神」であったり、「足が悪くジグザグに歩く神」であったりと表現は様々なのだが、その本性は「蛇」であることが多い。
たとえば、ギリシャ神話の鍛冶《かじ》神ヘパイストスもやはり、足が不自由でジグザグに歩くと言われる神であった。そして、この神の子供であるエレクトニクスの足は生まれつき「蛇の尾」であったと言われている。
もし、伊吹山の神が「蛇」だったとしたら、この蛇の祟《たた》りにあって、ヤマトタケルは自らが「蛇体化」したのではないか。ヤマトタケルが伊吹山で得た「病」とは、今風にいうならば、「蛇神憑《へびがみつ》き」とでもいうような症状だったのではないか。
ちょうど、あの甲賀三郎が山(一説によれば伊吹山といわれている)の神たる大蛇を殺した罰で自らが蛇体化したように。
しかも、后《きさき》たちが、ヤマトタケルの遺体を納めた柩《ひつぎ》をあけてみると、遺体は既になく、衣だけが残されていたとある。それで、夫の魂が白鳥となって飛び去ったことを知ったとあるのだが、これなども、蛇の「脱皮」を暗示しているのではないか。ヤマトタケルは、「白鳥」となって飛び去ったのではなく、その前に「蛇体化」し「脱皮」し、そして、「翼をもった蛇」として飛び去ったのでないだろうか。
もちろん、この伊吹山から能褒野に至るまでの話は、先にも語ったように、「当芸」とか「三重」とかの地名の由来を説明するための後付けにすぎず、ヤマトタケルの「足の変化」の描写も、地名にこじつけるために誇張して描かれたのかもしれないが……。
ミヤズヒメと山の神
だいぶ話がそれてしまったような気もするが、ここで、今度こそ本当にミヤズヒメの話に戻ろう。
もし、ヤマトタケルが自らの意志で「草薙の剣」をミヤズヒメの元に置いて行ったのではなく、ヒメに「所望」されて置いて行ったのだとすれば、なぜ、ミヤズヒメはそれほどまでにこの剣を欲しがったのか。
「火」を祀《まつ》る巫女が、「火」の祭祀《さいし》に使う祭具を欲しがったというだけではなさそうである。
ミヤズヒメは、王権を象徴するレガリアとしての「草薙の剣」を欲しがったのではないか。いや、欲しがったというよりも、「奪還」しようとしたのではないか。
なぜなら、「草薙の剣」とは、彼女の祖神《おやがみ》である天火明命《ニギハヤヒ》が、その昔、神武軍に攻め込まれたとき、「王権譲渡の印」として与えた剣であったのだろうから。
神話の中では、「草薙の剣」とは、出雲のヤマタノオロチから奪った剣ということになっているが、実際には、ヤマトノオロチこと「三輪山の神」から奪った剣であったのかもしれない。
この大蛇神の末裔《まつえい》でもあり、祖神を祀る巫女王《みこおう》でもあるミヤズヒメは、いうなれば、剣が象徴する「王権」を尾張氏の手に取り戻そうとしたのである。そのためには、その剣を所持するヤマトタケルを害することになろうともかまわなかったに違いない。かまわないどころか、彼女の祖神から大和の主権を奪った神武の子孫にあたるヤマトタケルは、彼女にとっては最初から「敵」でしかなかったのかもしれない。
ヤマトタケルを「守る」どころか、「害する」ことがヒメの目的だったともいえる。彼女が饗応《きようおう》の際、ヤマトタケルに向けて詠んだ「長いことお待ちしていました」という意味の歌も、恋に燃える乙女の言葉というよりは、祖先の復讐《ふくしゆう》に燃える女首長の不気味な宣戦布告のようでもある。
そして、実際、彼女の目的は達せられるのである。なぜなら、ヤマトタケルが亡くなったあと、景行の後を継ぎ天皇になったのは、尾張氏のヒメを母にもつ皇子であったのだから。
また、尾張氏が大和の主権を握るのは、単に物語の中だけではなく、あの大海人皇子こと天武天皇が実はこの尾張氏の出身であり、兄といわれる天智天皇とは兄弟ではなかったという説もあることからすれば、「草薙の剣」に象徴される「王権」が尾張氏の元に「奪還」されたのは史実ともいえるのである。
実際、日本書紀の中には、この「草薙の剣」にかかわる奇怪な記述があるという。「天智七年(668)草薙の剣が盗まれた」とあり、「後に天武天皇に祟った」とあるという。この記述の意味は不明らしいが、これなども、暗に、尾張氏である天武が、「王権奪還」に一役買ったことをほのめかしているともいえよう。
とまあ、こうした当時の政争がらみで、ヤマトタケル物語を解釈することは、既に多くの研究家がなしえていることなので、いまさら、この視点から、これ以上の追求をする気にもなれない。
私にとって、より興味深いのは、こうして見てくると、これまで、「亡夫の形見である神剣を生涯守り通した貞女」というイメージで語られてきたミヤズヒメに全く別の貌《かお》がほの見えてきたということである。
それは太古の太母神の貌である。
ミヤズヒメにも、太母神を暗示する重要なシンボル、すなわち、月、血、火、蛇がつきまとっている。あの「月経」に関する描写も、古代の「血の儀式」を暗示するとともに、「日の御子《みこ》」であるヤマトタケルに対して、ミヤズヒメが「月の巫女」であったことを強調しているようにも見える。
そう考えると、ミヤズヒメとヤマトタケルの物語は、英雄と地方妻の物語などというものではなく、太母神(あるいはそれを体現化した蛇巫女王)と生き贄《にえ》の話のようにも思えてくる。
たとえば、物語の中では、ヤマトタケルを「害した」のは、伊吹山の神となってはいるが、この神を「蛇」だとすれば、「山の神」とは、蛇神の末裔である「蛇巫女王」ミヤズヒメのことを指しているのではないだろうか。
まるでそのことをほのめかすような表現が古事記においてなされている。
それは、ヤマトタケルが東征に赴く際、一度ミヤズヒメの館《やかた》に寄ったときに、ヒメに向かって「また還《かえ》り上りなむときに婚せむ」と言う言葉は、伊吹山に赴いたとき、途中で出会った山の神に向かって、「今とらずとも、還らむ時にとりなむ」という言葉と妙に符合するのである。
これは、たいして意味のない定型表現にすぎないのかもしれないが、「ミヤズヒメ=伊吹山の神」という物語の構図を暗に物語っているとはいえないだろうか。
さらにいうと、この「帰りに寄る」パターンとでもいうべき物語の型は、やはり「女蛇」がらみで、後の今昔物語集の中にも見受けられる。
それは、あの道成寺伝説の原型ともいわれる話で、かいつまんで紹介すればこうである。
熊野|詣《もう》でに来た美僧を見初めた女が、この僧を口説き、「帰りに寄る」という僧の言葉を信じて待つが、女犯の罪を恐れた僧は、違う道を通ってスタコラ逃げてしまう。それを知った女は閨《ねや》に閉じこもり、そこで憤死をとげる。そして、死んだ後は大毒蛇となって、逃げた僧を追いかける……。
という、いわば、女ストーカーの元祖のような話である。しかも、その女は「蛇」だというのだから、文字通りのストーカー(這《は》い寄る者)である。
ところで、「女蛇」にまつわる伝承の類《たぐ》いには二通りあって、一つは「守り型」であり、もう一つは「迫害型」であることは前にも書いたが、この「迫害型」にもさらに二通りあって、それは、「川(あるいは海)渡り型」と「室籠《むろこ》もり型」である。
つまり、女が蛇に変身するときに、川や海などの「水」に浸かることで変身するタイプと、部屋などに籠もって変身するタイプとがあるということである。これなども、こうした伝承が、古代の巫女が「みそぎ」や「籠もり」によって蛇神と同一化するという儀式の様を伝えているように思える。
ところで、もし、「ミヤズヒメ=山の神」という視点でこの物語を考察し直してみると、「草薙の剣」の意味も全く違うものに見えてくる。
「草薙の剣」が、単なる武器ではなく、火祭りに使う呪術《じゆじゆつ》的な祭具であると同時に「王権」を象徴するレガリアでもあったということは前にも書いた。でも、ここで、もう一つ、この「剣」が象徴しているものがあるように思える。それは、「男根」、つまり、男性のセックスシンボルである。
剣とか矢とか鉾《ほこ》とか、こうした硬直した棒のイメージのある物は、しばしば、神話の中では、「男根」の象徴として使われることが多い。
たとえば、「矢」の例でいえば、あの三輪山の「大物主」がらみの逸話で、古事記にこんな話がある。セヤタタラヒメという美女がトイレ(古代のトイレは川の上に作られていた)で用を足していたときに、このヒメを見初めた大物主が「丹塗《にぬ》り矢」に化けて、このヒメの「ホト」を下から「突いた」という、そのものずばりの話である。
また、一般に、「山の神」とは女の神様で、「おこぜ」と「男根」が好物であるといわれている。
今でも、山で仕事をする男たちは、山の天候が急に荒れたり、狩りの収穫が乏しかったりしたときなどは、自分の下半身をさらして、「山の神」のご機嫌を取ることがあるのだという。
「古女房」のことを「山の神」などと言うのもここから来ているようだ。「山の神」のおこぜ好きがいかなる理由によるものなのかは分からないが、「男根」好きの理由はおぼろげに推察できる。
現在では、「山の神」のこの奇妙な嗜好《しこう》を、単なる「男好き」というように、ややユーモラスに解釈しているようだが、そのルーツはそんな微笑《ほほえ》ましいものではなく、おそらく、これは、太古、山の豊饒《ほうじよう》を祈《いの》る儀式などにおいて、生き贄《にえ》が捧《ささ》げられていたことの記憶によるものだろう。
そして、その儀式を司《つかさど》っていたのが巫女であったことが、いつのまにか祀る者が祀られるようになって、「山の神=女神」と信じられるようになったに違いない。
これは日本に限った話ではなく、あのギリシャ神話の中でも、先に語った「股間《こかん》を猪《いのしし》の牙《きば》で抉《えぐ》られて死んだ狩人《かりうど》アドニス」などは、まさに「山の神」に捧げられた生き贄の話である。
つまり……。
ヤマトタケルがミヤズヒメと一夜を過ごした後に、「それまでけっして手放すことのなかった神剣」をヒメの元に置いて行くという話は、蛇巫女王との「血の儀式」の後に「去勢」されたことをシンボリックに物語っているのではないだろうか。
「剣」を失う、すなわち「去勢」によって「男性性を喪失」したからこそ、伊吹山において、もはや以前のような「力」を発揮することはできなかったのである。
では、なぜ「去勢」されたのか。
それは、ヤマトタケルが皇子《みこ》であると同時に男巫だったからだろう。こうした神に捧げられる「生き贄」とは、古くは、祭事を司る神官(あるいは巫女)であった。祭政一致の時代には、こうした神官(巫女)がそのまま氏族の王であり女王でもあったから、王や女王が神の「生き贄」にされていたのである。
しかし、その王たちがだんだん自らの命を惜しみだして、我が子を身代わりに差し出すようになった。さらに時代が下ると、生き贄の「質」はもっと落ちて、奴隷だとか敵の捕虜だとかになるのだが。
古くは、長子相続ではなく、末子相続だったというのも、そのルーツはこの「生き贄」儀式にあったのではないだろうか。上の子から順々に神に捧げてしまうので、王の後を継ぐのは、一番下の子になってしまうのである。
神話をルーツとした民話や伝承の類いに、「末子が主人公」であったり、あるいはその「主人公が兄や姉たちに苛《いじ》められる」という「いじめられっ子」パターンが東西を問わず多く見受けられるのは、もしかしたら、こんなところに要因があるのではないか。
王族の「末子」とは、「生き贄」に捧げられた兄や姉たちの「怨念《おんねん》」を背負って、その血筋を後世に伝えていく「呪《のろ》われた存在」でもあったのだから……。
そういえば、ヤマトタケルの双子の兄オオウスが、物語の初期において、ヤマトタケル自身の手によって、「八つ裂き」という、まるで「処刑」のような殺され方をしているのも、こうした「生き贄」儀式の記憶が、物語の背景にあるからでないだろうか。
ヤマトタケルといえば、勇猛な戦士のイメージが強いが、その本質は、男巫、すなわちシャーマンであったのではないか。
ヤマトタケルの物語とは、英雄物語というよりも、一シャーマンの成長と死の記録ではなかったか。
そう考えると、あのクマソ討伐の折りの、奇妙な「女装」の件も合点がいく。やはり、あれは「巫女《みこ》」となって神事を行うためだったのである。そして、それは、おそらく、ヤマトタケルの身分が「日の御子」であるということから考えて、太陽|祭祀《さいし》であったのではないかと思われる。
しかも、このとき、ヤマトタケルはまだ「ヤマトタケル」とは名乗っていない。「ヤマトオグナ」と名乗っている。「オグナ」とは「童男」と書く。まだ成人前の「少年」である。中性的な「少年」であったからこそ、「女装」だけで「巫女」になりえたのだろう。
そして、この後、父王に東の討伐も命じられて、泣き言を言いに行ったヤマトヒメの元で、「草薙の剣」を授かるという話も、ここではじめて「剣を得る」、すなわち性的に「成人」したことを暗示しているのではないだろうか。しかも、「剣」と共に授けられたのが「袋に入った火打ち石(二個の石?)」であったということも……。
相模の野原でのエピソードも、焼畑農耕を模した神事とか、様々な解釈ができるだろうが、「剣と石」を「男性器」のシンボルと見た場合、何やら「大地」にからんだ「火」を使う「性的な儀式」だったようにも思えてくる。
しかし、男として「成人」しても、シャーマンとしてはまだ半人前だったに違いない。なぜなら、走水の海では、海神を鎮める呪術に失敗しているからである。あのオトタチバナの入水《じゆすい》の一件も、海神を鎮めることに失敗した見習いシャーマンに「かわって」、上級巫女ともいうべきオトタチバナが海神を鎮めることに成功した話とも読めよう。
そして、ついには、尾張の蛇巫女王によって「血の儀式」を受けたあと、「去勢」され、大地(この場合は山)の豊饒《ほうじよう》を得るための「聖なる生き贄」として殺されたのである。
ヤマトタケルの最期に見られる「白鳥化」は、このような贄を「神格化」することで、その魂を鎮魂しているようにも見えるのである。
しかも、この「白鳥化」は、伝承の原型においては、「蛇体化」だったのではないかと思われる。
甲賀三郎の話にもあるように、物語における主人公の「蛇体化」というのは、仏教説話などでは、それは「蛇の祟《たた》り」であったり、「仏罰」であったりとか、「忌まわしいことの結果」として語られることが多いが、これは、「蛇=悪」という後世の思想のもとに作られた(作り直された)話にすぎなく、こうした「善を強調するために悪を作り出そうとする濁った」思想に侵されていない太古の蛇信仰においては、「蛇体化」とは、「神への昇格」を意味していたのである。
ちょうど、あのギリシャ神話の英雄ヘラクレスが、「蛇毒」に侵されて死んだ後、神に昇格し、永遠の生命を得たように。
ヤマトタケルの並外れた大きさ強さ美しさ、そして、彼が成し遂げたという偉業も、すべて実際にあったことを物語にしたというよりも、ありもしないことを、言葉によって「造り出し」、大袈裟《おおげさ》に美化して讃《たた》えることで、生き贄となった一シャーマンの魂を慰めようとしたのではないか。
こうした見方は、ヤマトタケルだけでなく、同じ「英雄神」スサノオにも当てはまるのである。物語の中では、荒々しく雄々しく、きわめて男性的なイメージの強いスサノオであるが、やはり、その本質は、戦士というより、男巫ではなかったか。
「長い髭《ひげ》が胸元に伸びるまでなきわめいていた」とか、「神聖な機織り小屋の天井を破って逆はぎにした馬の死体を投げ込んだ」などという、一見常軌を逸したような荒々しい行動も、スサノオの呪術を司るシャーマンとしての一面を描いたものではないかとも言われている。
個人的には、あのヤマタノオロチ退治のエピソードも、しつこく言うようだが、蛇を殺すことで蛇の繁栄を祈る「豊饒」の儀式だったと思う。
スサノオの本質が「男巫」だったとすれば、ヤマタノオロチの尾から得た「草薙の剣」を自分のものにはせずに、姉神である天照大神に「献上」したという話も、やはり「神剣の喪失」、つまりは「去勢」を暗示しているのではないだろうか。
「英雄」ないしは「英雄神」が物語の中では、殊更に、雄々しく勇ましく男性的に描かれているのは、実は、彼らが、こうした「男性性」を喪失した、というか、喪失させられた者であったからではないか。だからこそ、彼らの死後、「言葉」の力によって、その失われた「男性性」を美化し強調して補う必要があったのである。
むろん、鎮魂のために……。
そもそも、「英雄神話」とは、「生き贄となったシャーマンへの鎮魂」のために生み出されたものだったのではないだろうか。