十月十四日。水曜日の午後。
その特別病室のドアを軽くノックした後に、何げなく開けた新庄美里《しんじようみさと》は、室内を見るなり、思わず仰天して、もう少しで手にさげていた紙袋を取り落としそうになった。
おとなしくベッドに横たわっていると思っていた息子の武《たける》が、ベッド脇《わき》の床に腹ばいになって、腕立て伏せのようなことをしていたからである。
「ちょ、ちょっと、あなた、何してるの!」
悲鳴に近い声をあげると、息子は床に腹ばいになったまま、戸口に立ちすくんだ母親の方を平然とした顔で見上げた。
「何って、見れば分かるだろ。運動してるんだよ」
「やめなさい。そんなことして傷口が開いたらどうするの!」
美里は、さらに続けようとする息子のそばに駆け寄ると、慌てて、その腕を取って立たせた。
「大丈夫だってば。傷ならもう完全にふさがってるし。ほら」
渋々立ち上がると、武は、パジャマの上着の裾《すそ》をめくって、傷口の上に貼《は》りつけられたガーゼをむしり取ると、母親に裸の脇腹を見せた。
一カ月に及ぶ入院生活でも日焼けの色の褪《さ》めない筋肉質の引き締まった腹部についた傷痕《きずあと》は、とてもそれが、ほんの一カ月ほど前に縫合手術を受けた痕とは思えないほどに完全に癒着していた。腸にまで達するほど深い刃物傷だったというのに……。
「こっちだって、ほら」
武はさらに言って、パジャマのズボンを少しずらして、太ももも見せた。右|大腿部《だいたいぶ》につけられた刃物傷の方も完全に治癒していた。それどころか、茶色く変色して、まるで一年も前の古い傷のようにさえ見える。
驚くべき回復力だった。
「十八歳という若さと、スポーツで身体を鍛えていたことを考慮に入れても、この回復力は驚異としか言いようがありません……」
担当の医師から、こんな言葉で息子の回復力の異常なまでの早さについては聞かされていたものの、こうして間近に、殆《ほとん》ど完治している傷口の状態を見せられて、美里も驚嘆せずにはいられなかった。
もっとも、これは今回に限ったことではなく、武には、小さい頃からこういう傾向があった。とにかく傷の治りが異常に早いのだ。普通なら完治に一、二週間はかかる切り傷や刺し傷が、武の場合は一日もあれば完全に治ってしまっていた。
細胞の再生力が異常に高いとでもいうのか、それはもって生まれた特異体質といってもよかった。
「ねえ、もう退院してもいいでしょ? 傷も治ったことだし。俺《おれ》、全然平気だよ。前より調子いいくらいだ。これ以上、こんなとこに閉じ込められていたら、退屈で気が変になっちゃうよ」
武は不満そうに言った。
「退院なんて……だめよ!」
美里はぎょっとして、即座に言い返した。
「なんでよ? 今朝、担当の先生に聞いたら、無理さえしなければ、退院してもかまわないんだがって言ってたよ」
「だめです。げんに、こうしてすぐに無理するじゃないの。腕立て伏せなんかして」
「…………」
武はベッドの端に腰をおろすと、恨めしげに母親を見返していた。
まだ退院させるわけにはいかない。外に出して、また何か問題を起こされてはかなわない。監視の目の行き届くこの病院に居て貰《もら》わなくては困る。だからこそ、この病院の院長が新庄家の遠縁にあたることに甘えて、こんなホテルの一室のような特別室を用意してもらったのだ。
この特別室は若い手負いの猛獣を閉じ込めておく格好の檻《おり》の役目も果たしていた。とにかく、今度の総選挙が無事に済むまではここに居て貰わなければ……。
美里は、口にこそ出さなかったが、胸のうちでそう呟《つぶや》いていた。
「それより、新しいパジャマと下着もってきたから、これに着替えてちょうだい。あと、洗うものがあったら出して」
美里は、これ以上退院の話題を避けるように素早く言うと、持参した紙袋から真新しい着替えを取り出した。
「あれ、買ってきてくれた?」
武は、母親を説得するのをあきらめたように、パジャマのボタンをはずしながら、ふいに聞いた。
「あれ?」
「週刊誌だよ。今週発売の。買って来てくれって頼んどいただろ」
「ああ……」
美里は、ようやく思い出したように、紙袋の底を漁《あさ》って、途中で買い求めてきた一冊の週刊誌を取り出した。
手に取るのも恥ずかしいような、けばけばしい表紙の、芸能人や有名人のゴシップばかりを扱うことで有名な女性週刊誌だった。十八歳の少年が好んで読むような代物とは思えない。
暇つぶしに漫画でも読みたいというならまだしも、よりにもよって、どうして女性週刊誌なんか、と頼まれたときは不思議に思っていた。
そういえば、前にも数冊の週刊誌を所望されて買ってきたのだが、それには、彼自身が巻き込まれた猟奇殺人事件に関する記事が大きく載っていたので、単なる暇つぶしというより、それに興味があったのだろうと思っていたのだが……。
あれから一カ月以上もたって、熱しやすく冷めやすいマスコミの興味は、既に犯人の自殺によって解決した事件などにはないようで、あの事件のことを記事にする週刊誌もめっきり少なくなっていた。
それなのになぜ……という疑問は、書店の店頭に並んでいたこの週刊誌の表紙を一目見たとき、美里の中で一気に解消した。
そこにはでかでかと夫の貴明のことに触れた記事の見出しが出ていたからだ。
おそらく、武は、この記事が読みたかったに違いない……。
即座にそう察した。
案の定、週刊誌を渡すと、武は、パジャマのボタンを途中まではずしかけたままの格好で、それをひったくるようにして手に取ると、お目当ての記事があったらしく、いきなりその箇所を開いて読み始めた。
美里は息子のそんな様子を苦々しい思いで見ていた。
「現場のマンションは愛の巣だった?!」というタイトルが気になって、店頭でざっと目を通していたので、その記事の内容がどんなものなのか、既に知っていた。
それは、一言でいえば、武が犯人に刺された現場となった高級賃貸マンションに関する疑惑を面白おかしく記事にしたものだった。
そのマンションというのが、数年前に夫の名義で借りられたものであったことから、表向きは、「浪人中の次男の受験勉強用に借りた」ということになっているが、実は、新庄貴明自身の「愛人との密会用の隠れ家」ではなかったかというような憶測がまことしやかに書きなぐられていた。
「……そんな根も葉もないデタラメな記事を真に受けるんじゃないわよ」
美里はたまりかねて、そう一言クギを刺した。
「母さん、これ、読んだの?」
記事を食い入るように見ていた武が、顔をあげて聞いた。口の端を歪《ゆが》めて、どこか面白がるような顔をしている。
「選挙中は反対陣営の差し金もあって、イメージダウンを狙《ねら》った、そういう中傷記事がよく出回るものなのよ。家族がそんなものにいちいち振り回されてどうするの。あなたもそのくらいのことは分かっているでしょう?」
「中傷? 根も葉もないデタラメ? そうかなぁ。この件に関しては、しっかり根も葉もあるんじゃないの。母さんだって、本当はそう思ってるんだろ?」
「……」
「あのマンションのこと、親父《おやじ》はなんて説明したの?」
「……」
「なんて説明したんだよ」
「……一人になれる空間が欲しかったそうよ。その……書斎代わりに借りたんだって」
美里は渋々そう答えた。
「書斎!」
武はおどけたように言い返した。
「書斎ならうちにばかでかいのがあるじゃないか。中から鍵《かぎ》かけていつでも好きなときに一人になれるやつが。なんでもう一つ『書斎』が必要なんだよ? しかも、夜景付きの、ダブルベッド付きの『書斎』なんて聞いたことねえよ。そんなふざけた言い訳、信じたんじゃないだろうね?」
「もうやめて、その話は。お父さんとの間でそれはもう了解済みのことなんだから。子供にとやかく言われる筋合いの話じゃないわ」
息子の指摘が図星だっただけに、美里はさすがに情けなさと腹立たしさで、つい、きつい声をあげた。
「母さんはいつもそうだ。親父のいいなりになって、自分ばかり我慢して。婿養子ってことで、逆に遠慮しすぎてるんじゃないの?
だから、なめられるんだよ。もっと言いたいこと言ったら? 浮気されてるなら、胸倉つかんで怒ったら? せっかく、俺が、そのチャンス与えてやったのに……」
武は苛立《いらだ》たしげにそう言ったあと、最後の言葉を呟くように漏らした。
「そのチャンス与えてやったって……あなた、まさか」
美里ははっとした目で息子を見返した。
「あのマンションの存在を公にするために、わざとあの女を……」
「そこまで計算してたわけじゃないよ。サテンで声かけてくるなんて、なんかうさん臭い女だなとは思ったけど、まさか、あの事件の犯人だなんて夢にも思わなかったし。あのときは、ただ、得体の知れない家出女、あそこに泊めて、あとで何かトラブルでも起これば面白いと思ってただけだよ。盗難とかさ。そうしたら、親父のやつ、さぞ慌てるだろうなって」
「……あなた、どうして、いつもそうなの?」
美里はため息まじりの声で聞いた。
「どうして、お父さんを困らせるようなことばかりするの? そんなにお父さんのことが嫌いなの?」
「むかつくんだよ。あの偽善者ぶりに」
武は吐き捨てるように言った。
「あの絵に描いたような良き夫、良き父親っていう糞《くそ》イメージに。何が良き夫だ。女房一筋みたいな顔して、陰で浮気しまくってるくせに。何が良き父親だ。息子が死にかけてるときに、真っ先に心配したのが息子の命じゃなくて、マスコミ対策だったくせに……」
「それは誤解よ。武。あなたはお父さんを誤解してるわ」
美里は慌てて言った。
「どこが誤解だよ。こんなにあいつを正しく理解してるのは日本中で俺くらいのもんだよ。誤解してるのは、あんなインチキ野郎を日本のリーダーになんて本気で考えてる馬鹿有権者どもじゃないか———」
ぴしりと小気味の良《い》い音が、なおも言い募ろうとする武の片|頬《ほお》で炸裂《さくれつ》した。
「痛えなぁ……ほんとのこと言ってるのに殴ることないだろ」
武は打たれた頬を手で押さえて、顔をしかめた。
「何が本当のことよ。あなたは何も分かってない。分かったようなつもりでいるだけで何も分かってないのよ」
「何が分かってないんだよ」
武は仏頂面のまま聞いた。
「あのとき……。あなたが刺されたと聞かされたとき、お父さんがどれほどショックを受けられたか、どれほどあなたの身のことを心配したか、あなたは何も分かってないじゃないの」
「…………」
「マスコミ云々《うんぬん》のことを口にしたのは、手術が無事に終わって、あなたの命に別条はないとお医者様に言われて安心したからなのよ。それまでは……」
美里はそこまで言って、言葉を詰まらせた。
知らせを聞いて駆けつけてきた夫が、赤ランプの灯《とも》った手術室の前の長椅子《ながいす》で、手術が終わるまで、じっとものも言わず、両手で頭を抱えるようにして座っていた姿が脳裏に蘇《よみがえ》ったからだ。
あんなに打ちのめされた様子の夫を見るのははじめてだった。
ああ、この人はやっぱり武を愛してるんだ……。
その人目もかまわない姿に、美里はそう感じずにはいられなかった。
「それに……」
美里は迷いながらも続けた。
「これはお父さんに口止めされていたから、今まで言わなかったけれど、あのとき、あなたはお父さんの血を輸血されたのよ」
「輸血……?」
「そうよ。出血多量ですぐに輸血が必要だとお医者様に言われて、同じB型だからって、お父さんが自分から言い出して。ろくに寝る暇もないほど忙しくて、疲れていたというのに、いくらでも必要なだけ取ってくれって」
「……そんなの、あいつ一流のパフォーマンスだよ」
武が憎々しげに言い放った。しかし、その声には先程までの挑戦的な響きが消えていた。
「パフォーマンスって……」
「瀕死《ひんし》の息子に即座に輸血を申し出る父親か。いくらでも取ってくれ? 泣かせるねぇ。良き父親のイメージをアピールするには絶好のチャンスじゃないか。こんな美談がマスコミを通じて世間に知れわたれば、自分のイメージアップにつながるからな。選挙にも有利になる。そういうことまでちゃんと計算してるんだよ、あいつは」
「あなたって子は……」
美里はもう一発ひっぱたいてやろうかと思いつつも、それをなんとかこらえて、深いため息をついた。
親の愛情ですら疑ってかかるのか。いつからこんなひねくれた物の考え方をするようになってしまったのだろう。小さい頃はもっと素直な子だったのに……。
「あれがパフォーマンスだとしたら、どうして、そのことがいまだにマスコミに伝わってないのよ。どこの週刊誌がそのことについて書いていた? どこも書いてないでしょう? それはね、お父さんが、輸血のことを知ったらあなたが後でいやがるかもしれないと言って、先生方にも口止めしたからなのよ。だから外部にも漏れなかったんじゃないの。これのどこがパフォーマンスなのよ」
「……どうせ口止めしたって、おしゃべりな看護婦か何かの口から外に漏れることを計算に入れてたんだろ」
武はなおもそう食い下がった。
「まったく……あなたにはもう何を言っても無駄のようね」
美里は、ほとほと愛想《あいそ》がつきたというように、あきらめと腹立ちの入り交じった声で呟《つぶや》いた。
「いいから、早く着替えてしまいなさい」
そう付け加えると、額に手をあて、眩《まぶ》しそうに窓の方を見た。西日が入り始めている。ブラインドをおろそうと窓に近づいた。
武は、仏頂面のまま、のろのろとパジャマを脱いでいた。
ブラインドを半分ほどおろして、何げなく振り向き、背中を見せている息子の方を見たとき、美里は、おやというように目をこらした。
新しい下着に手を通そうとしている武の剥《む》き出しの右肩の下あたりに奇妙なものを見つけたからだった。
それは、大人の手のひらくらいの大きさの薄紫色の染みか痣《あざ》のように見えた。むろん、生まれついてのものではない。三日ほど前、濡《ぬ》れタオルで息子の身体を拭《ふ》いてやったときには、こんな痣はついてはいなかった。
「あなた……ここ、どうしたの?」
美里は思わず手を伸ばして、日焼けの色を残した息子の肩に触れた。
「え?」
「どこかにぶつけた? 痣みたいなものができてるけど……。痛くない?」
その部分を軽く指で押してみた。
「別に。なんともない」
武は痛がる様子もなくそうこたえた。
「そう。何かしら。魚の鱗《うろこ》みたいで、気味悪いわね……」
美里はそう呟いた。
「魚の鱗……?」
武は振り向いて背中を見ようとしたが、よく見えないらしく、ベッドから立ち上がって、鏡のはめ込まれた壁のところまで行くと、鏡に自分の背中を映して見た。
首をねじって見ると、母親の言う通り、右肩の下あたりに薄紫色の模様が浮かび上がっていた。
魚……というより、蛇か何かの爬虫類《はちゆうるい》の鱗を思わせる奇怪な模様が……。