「なんだろう……」
首をひねって、鏡の中のその痣に見入りながら、武は呟いた。
いつのまにこんなものが……。
痛くも痒《かゆ》くもないが、自分の身体に蛇の鱗でも生えてきたような気味悪さを感じた。
そういえば……。
こんな形の奇妙な痣をどこかで見た記憶がある。小さい頃に。あれはどこで見たのか……。
記憶の糸を手繰ろうとしていると、
「何かの薬の副作用かもしれないわね」という母の声に遮られた。
「薬って、痛み止めくらいしか打ってないだろ」
そう言い返すと、
「それとも、皮膚病の一種かしら。そのへんをうろつかなかった? 院内感染ということも考えられるし。ちょっと気になるから、先生に報告してくるわ」
美里はやや心配げにそう言ったかと思うと、そそくさと病室を出て行った。
武は、ベッドまで戻ってくると、そのままごろりと横になった。両腕を頭の下で組んで寝転んだまま、ぼんやりと白い天井を見つめていた。
父の血が輸血されていた……。
背中に突然現れた奇妙な痣のことよりも、そちらの方に気を奪われていた。輸血のことは誰からも知らされていなかったし、そんなことは夢にも思わなかった。
この身体に父の血が流れている。
実の息子なのだから、もともと半分は父かたの血が流れているわけだが、それとはまた違った意味で、父の血が自分の中に直に注ぎこまれたという事実に、不思議なくらい動揺していた。
動揺といっても、嫌悪とか不快感とかいうマイナスの感情ではない。それどころか、それとは全く逆の、胸のときめくような気持ち……。嬉《うれ》しい、とでもいう感じ。
そのことに気づいて、武はさらに動揺した。「嫌い」な人間の血など輸血されたと知ったら、ナイフを腕につきたててその血を絞り出してしまいたいと思うほど嫌悪に駆られるのが普通じゃないだろうか。
それなのに……。
「嫌い」なはずの人間の血を貰《もら》って、なぜ嬉しいと感じてしまうのか。
母に「そんなにお父さんのことが嫌いなのか」と聞かれて、あんな答え方をしてしまったが、あれはあれで本音ではあっても、ただ単純に「嫌い」というのではなかった。この「嫌い」という感情はもっと複雑で、ひょっとしたら、「好き」という感情の裏返しなのかもしれない。
小さい頃は父のことが好きだった。「尊敬する人は?」と聞かれれば、ためらうことなく、「お父さん」と即座に答えられるほど大好きだった。
父の方も、暇なときにはよく遊んでくれたし、可愛《かわい》がってもくれた。お互いにもっと素直に感情を出し合っていたような気がする。あの頃、小学校の頃までは……。
父との間に目に見えない溝のようなものができはじめたのは、中学へ入った頃からだった。
いや、その前から兆候はあった。
父の関心がいつも七歳年上の兄の方ばかりに向けられ、あまり自分に向けられなくなったことを感じはじめたときから……。
自分の中にかすかな欲求不満のようなモヤモヤしたものが次第に育ちはじめていった。
そして、それがハッキリとした形になったのは……。
そうだ。あのときだ。
武は思い出していた。
あれは、中学に入ってはじめての学期試験のときだった。数学のテストではじめて90点という高得点を取った。たいして勉強もしなかったのだが、事前にかけた山が当たったのだ。
嬉しくて、その夜、書斎で仕事をしていた父にわざわざ答案用紙を見せに行った。さぞ褒めてくれるだろうと期待に胸をふくらませてすっ飛んで行ったのに、意に反して、父の反応は冷たかった。
武がおずおずと差し出した答案用紙を面倒くさげにちらと見て、「90点満点なのか?」とだけ聞いた。「100点満点だけど……」と答えると、「後の10点はどうした?」と聞かれた。
答えられずに俯《うつむ》いていると、「この程度で満足してるのか。情けない奴《やつ》だな」と、父は軽蔑《けいべつ》したように呟き、「今度は満点取ったら見せに来い」と言い捨てて、くるりと背中を向けた。
もっと悪い点を取って叱《しか》られたときですら感じたことのなかった屈辱感に苛《さいな》まれながら、悔し涙がこぼれそうになる目で、壁のように立ちはだかる父の広い背中をただ睨《にら》みつけていた……。
そして、次の試験のとき、数学だけがむしゃらに勉強して、ついに満点を取った。でも、その答案用紙を素直に見せに行く気にはなれなかった。それに、今度行ったら、今度は、「ほかの教科はどうした?」くらい言われそうな気もした。満点だったのは数学だけで、あとは平均点にも満たない惨憺《さんたん》たるものだった。
それで、答案用紙をクシャクシャに丸めてボール状にすると、それを父の書斎の机の上に放り出しておいた。
いずれ目に止めて、何か言ってくるだろうと密《ひそ》かに期待して待っていた。怒られるか褒められるか。どきどきしながら待っていたのに、父はうんともすんとも言わなかった。
気づかないということは考えられなかった。無視されたとしか思えなかった。わざと丸めて放り出しておいた満点の答案用紙の塊は、まさに武のプライドの塊そのものだった。それを、父は、おそらくチラと見ただけで、何の興味も示さず、屑籠《くずかご》にでも捨ててしまったのかもしれない。そう思うと、また新たな屈辱感に苛まれた。
その答案のことが食卓で話題になったのは、それから一週間もしてからだった。しかも、父の口からではなく、母の口からだった。「今度の数学はよく頑張ったなって。お父さんが褒めてらしたわよ」と母は言って、父から預かったという、奇麗に広げられた皺《しわ》だらけの答案用紙を返してくれた。
ちゃんと見ていたのか。捨ててしまったわけじゃなかったのか。それが分かって、少し嬉しい気もしたが、手放しには喜べなかった。反発する気持ちの方が強かった。見ていたなら、なぜ、そのとき、すぐに何か言ってくれなかったのか。褒めてくれなくてもいい。たとえ叱責《しつせき》でも、父の口から何か言ってほしかった。たった一言でいい。「よくやった」と。父に認めて貰いたかったのだ。母ではなく……。
あんな反抗的な態度を取った自分も悪かったかもしれないが、それに対する父の反応も少し陰険だと思った。忙しくて忘れていただけだったのかもしれないが、一週間もたってから、しかも、自分の口では言わずに母を通して伝えるなんて。
今から思えば、あのとき、最初のボタンをかけ違えたのかもしれない……。
あの出来事がきっかけとなって、父に対して、小さいときのように素直に心を開いて接することができなくなってしまった。
そして、一度かけ違えたボタンは次々とかけ違えられていった。あのとき出来た小さな亀裂《きれつ》は、時がたつにつれて徐々に広がって、高校に入った頃には、もはや埋められようもないほどに大きく深い溝になっていった……。
ドアにノックの音がした。
武は物思いからはっとさめたように、寝転んだまま、ドアの方を見た。
母が戻ってきたのだろうか。
一瞬、そう思ったが、母ならノックなどせずに入ってくるだろう。
誰だろう。見舞い客だろうか。
「どうぞ」
そう言うと、ドアが開いて、一人の男が入ってきた。
武は思わず半身を起こして言った。
「叔父《おじ》さん……」