日美香と食事を済ませて別れたあと、聖二がホテルの部屋に戻ってきたのは、既に午後十時をすぎた頃だった。
ざっとシャワーを浴びて、備え付けのタオル地のガウンを羽織っていると、テーブルの上に投げ出してあった携帯が鳴った。
出てみると、兄だった。
「今日はご苦労だったな……」
「いえ。今こちらからかけようと思っていたんですよ」
「美里から大体の話は聞いた。長野行きのことも」
「そうですか。この前の話では、武のことは私に一任するってことだったので、勝手に話を決めさせてもらいました。承知してもらえますね?」
「もちろんかまわないよ。それどころか、もっと早くにそうすればよかったとさえ思っている。武《あれ》は俺《おれ》よりおまえになついていたからな。でも、正直なところ、ほっとしているよ、最悪なことにならなくて……」
「それは私も同じですよ。これがペットの犬か何かなら、育て方を間違えても、保健所送りにでもすれば事は済みますが、人間の子供となると、そう簡単にはいきませんからね」
多少皮肉をこめてそう言うと、兄はしばらく黙っていた。
「大丈夫です。武は変わりますよ。長野から帰ってきたときは別人のようになっているかもしれない。今ももう、かなり意識が変わってきていますからね。あの事件は、武にとっては、むしろ良かったのかもしれません。あの子は、もともと、生死を分けるような危険な目にあうことで大きく成長する星の下に生まれついたようなところがありますから」
「……そうだな。とにかく、後はおまえに任せるよ。好きなようにやってくれていい」
貴明はそう言いかけ、
「そういえば、美里が妙なことを言っていたんだが」と何かを思い出したように言った。
「妙なこと?」
「武の背中に変な痣《あざ》が出てきたとか……。蛇の鱗《うろこ》みたいな気味の悪い痣だったというのだが、まさか……」
「そのまさかだと思います」
「お印か?」
貴明は誰かに聞かれるのをはばかるように、声を潜めて聞き返した。といっても、おそらく近くには誰もいないだろうが、と聖二は思った。
家族に聞かれたくない密談めいた話をするときは、鍵をかけて書斎にこもり、そこから電話をすることが多かったからだ。
今もおそらく書斎からかけているのだろう。
「見たのか」
「見ました。お印に間違いないと思います」
「し、しかし、なぜ、日女《ひるめ》の子でもない武にお印が出たんだ? しかも、こんな突然に……」
「解りません。あの事件と何か関係があるのかもしれません。犯人の女に切り刻まれたことで、武の中で何かが大きく変わったとしか思えません。あるいは、あの事件の刺激によって、生まれつき彼の身体に潜んでいたものが顕在化したのかも……」
「たまたまお印によく似た痣が出たにすぎないということはないのか」
貴明は食い下がるような口調で言った。その口調から、なぜか、兄は武の身体に出たのが神紋であることを認めたくないらしいと、聖二はふと感じた。
「その可能性も否定はできませんが、私の目にはお印にしか見えませんでした。その点については、明日、皮膚科や内科の検査を受けるそうですから、その検査待ちってことになりますね。もし、検査結果から、何らかの病気の前触れではないことがはっきりしたら、あれはお印と考えて間違いないでしょう」
「そうか……」
「それで、そのことで兄さんに言っておきたいことがあるんです」
「……なんだ?」
「武の身体にお印が出た以上、武は、大神の意志を継ぐ子になったということです。今までは、新庄家の人間ということで、こちらも干渉は控えてきましたが、これからは、神家の人間として扱うつもりです」
「それはかまわないよ。どうせ、跡取りは長男の信貴とはなから決まっているのだし、武をどうしようと、親戚《しんせき》連中からも文句は出ないだろう」
「私が言いたいのは、そういうことではなくて」
聖二はやや苛《いら》ついたように言った。
「武はあなたの子であって、もはやあなたの子ではなくなったということです。たとえ、父親のあなたでも、軽々しく武の身体に指一本触れることはできなくなったということです。彼の将来に関しても、あなたに口出しする権利は一切なくなったということなんですよ。このことは、それとなく義姉《ねえ》さんにも伝えておいてほしい。今後、武の将来を含めたすべてのことは、この私が決めます。私が彼の実質的な保護者になります。よろしいですね?」
「……せいぜい肝に銘じさせてもらうよ。いっそ、これからは、あれのことを武様とでも呼ぼうか。昔、親父《おやじ》の前では、弟のおまえをそう呼んでいたみたいに」
貴明は、機嫌を損ねたような陰険な声音で言った。
「そこまでやる必要はないでしょうが、ただ、気持ちの上では、そのくらいのつもりでいてほしいですね。それと、これはまだ決定したことではありませんが、今度の大神祭で、武に大神の御霊《みたま》をおろそうと思っています。あの痣がお印であることがはっきりした段階で大日女を通じて公表するつもりでいますが」
「大神の御霊をおろすって、三人衆にするということか」
「そうです。考えてみると、武には三人衆になれるだけの条件が備わっているんですよ。十八歳から三十歳までの独身男子であること。日女の子ではないこと。この条件は文句なく満たしています。ただ、生まれ育ったのがあの村ではないことがネックといえばネックですが、それも、お印が出たということで問題にはならないでしょう」
「…………」
「さらにもう一つ。日美香のことですが」
聖二は、不機嫌そうに黙った兄を無視するように淡々と続けた。
「彼女と二人きりで会ったそうですね?」
「…………」
「まずいですよ。若い娘と二人きりで食事なんかしているところをマスコミの連中に嗅《か》ぎつかれたら……。少々軽率でしたね」
「別にかまわんだろう? 誰だと聞かれたら、姪《めい》だと答えれば済むことじゃないか。弟の養女《むすめ》だと。親戚の娘とたまに食事をすることのどこが悪いんだ」
「二人きりというのは避けた方がいいと言っているんです。あんな人目を引くタイプでなければ、私も心配はしないんですが。マスコミが彼女に興味をもって、身辺や過去を探りはじめたら厄介なことになりますよ」
「まさか、あれの出生のことまでは分からないさ」
「楽観はできません。あの達川という週刊誌記者の例もあります。とにかく、スキャンダルの種は作らないに限る。今後、彼女に会いたいときは私に言ってください。誰に見られても不自然ではない場を作りますから。それと……日美香がご自分の娘だということをくれぐれもお忘れにならないように」
「当たり前じゃないか。あの娘《こ》と会ったのも、父親として何か力になれることはないかと思ったからだよ。知らなかったとはいえ、ずっとほったらかしてきたわけだからな。聞けば、母子家庭で育って苦労してきたそうじゃないか。これまでの償いとして、俺にできることなら何でもしてやりたい。むろん、『父親』として……」
「それは私も同じですよ。だから、養子縁組という形を取ったのです。あなたが直接動かなくても、私に言ってくれれば、私が何でもしてやりますから」
「わかった、わかった。これからは気をつけるよ」
貴明は、その話題はもういいというように遮ったあとで、
「それより、まずいといえば、日美香を武の家庭教師にする方がずっとまずいんじゃないのか。あの二人をわざわざ接近させるようなことをして、おまえこそ軽率じゃないのか? 日美香の方はともかく、武は何も知らないんだぞ。万が一、あの二人が……」
「そのときはそのときです。いざとなったら、二人を結婚させてしまえばいいだけです」
「おいおい、心臓に悪い冗談をいうなよ」
「冗談ではありません。真面目《まじめ》に言ってるんです。成り行きとしては、それもありえます。表向きは従姉弟《いとこ》ということで、法的には何ら問題はないし、当人同士が望むなら、私は許すつもりでいます。なんでしたら、武を日美香の婿として神家に迎えるという形にしてもいい。そうすれば、彼は名実ともに神家の人間になれる……」
「ちょっと待てよ。法的に問題はなくても、倫理的に問題があるだろう!」
貴明は興奮のあまりつい声が大きくなりそうになるのを必死に抑えるような声音で言った。
「異母|姉弟《きようだい》だということがそんなに問題ですか」
聖二は涼しい声で言い返した。
「大問題だよ。倫理的に見て……」
「あなたの口から倫理という言葉が聞けるとは思っていませんでした」
「…………」
「今でこそ近親婚はタブーということになっていますが、少し過去に溯《さかのぼ》れば、異母きょうだいが堂々と結婚できた時代もあったんですよ。倫理なんてものは国や時代によっていくらでも変わりうるものです。絶対的なものではない。げんに国によっては、日本では許されているいとこ同士の結婚がタブーになっているところもある。それに、近親婚が危険だというのも、近親による交配が何代も続けばの話ですしね」
「しかし……」
「もし、武の身体にお印が出たのでなければ、私も、あえてタブーを犯してまで、二人を結びつけようとは思わなかったでしょうが、武の身体にもお印が出た以上、これは大神の意志だということです」
「大神の意志……?」
「そうです。大神の意志なんですよ。神紋をもつ二人を結び合わせよ、という。家伝書の序《はじめ》にあった『陰陽の蛇が交わるとき……』とは、まさに、『陰の蛇』たる日美香と、『陽の蛇』たる武を結び合わせよという意味だと解釈できるんです。それが大神の意志なんです。この世に絶対的なものがあるとしたら、それは、大神の意志だけです。これだけはすべてを超越する唯一無二のものです。この意志の前には、たかが一国の、一時代にしか通用しない倫理だとか法律なんてものは塵芥《じんかい》にも等しい……」