「……ライオンの檻《おり》に放り込まれたウサギって、わたしが?」
神日美香《みわひみか》は、血の滲《にじ》んだ霜降り牛のかけらを刺したフォークを口元に運びながら、少々心外という顔つきで、そう聞き返した。
「あなたに会えば、義姉《あね》もただのウサギじゃないことは一目で分かるでしょうが、二十歳の女子大生と聞けば、頭に浮かぶイメージはそんなものでしょう」
「たとえウサギだとしても」
日美香は言った。
「ろくにたてがみも揃《そろ》っていないライオンの子に取って食われるほどやわなウサギじゃありません」
「へたをすれば、ウサギの方がライオンの子を取って食いかねない……」
聖二が赤ワインを目の前の日美香の空のグラスに注《つ》ぎ足しながら言うと、
「ひどい」
日美香は笑いながら抗議した。
病院を出たあと、神聖二は、上京した際の定宿にしている新宿のホテルにいったん帰り、そこから、日美香の携帯に電話をかけて、「食事でもしながら話したいことがる」と言って、ホテルの一階にあるレストランに呼び出したのである。
日美香と養子縁組をして以来、上京した折りには、こうして一緒に食事をとることが半ば習慣のようになっていたのだが、いつの間にか、聖二はこの時間を何よりも楽しみにするようになっていた。
五十近い中年男にとって、若く溌剌《はつらつ》とした美しい娘は、見ているだけで気持ちが華やぐものだが、彼女はそれだけの存在ではなかった。
もし、日美香が自分の血を分けた実の娘だったとしても、これほどの親近感は感じなかったに違いない。年齢差や性別を越えて、自分とこの娘との間には、「お印」を持って生まれた者同士の強い連帯感のようなものが存在している。そう感じていた。
それは、口に出して言わなくても、まるでテレパシーで感じあうように、互いに感じあっていた。
彼女といると、自分だけのために特別に作られた椅子《いす》にゆったりと身をゆだねているような心地よさを感じた。
それは日美香の方も同じようで、自分といるときは本当にくつろいで楽しそうに見える。嫌々ながら義務で付き合っている風には見えない。
それが聖二の自惚《うぬぼ》れではない証拠に、急な用で上京したときなど、突然電話で誘い出しても、都合がつかないと断られたことは一度もなかった。
たとえ他に用があるときでも、そちらの方をキャンセルして、必ずなんとかやり繰りして出てきた。養父というより、まるで年上の恋人にでも会うような浮き浮きした顔で……。
「で、どうですか、この話は?」
聖二がそういうと、日美香は、考えるような顔をしていたが、
「その……武って子、どの程度の劣等生なんですか。中学レベルの基礎学力もなくて、まさか、足し算掛け算のやり方から教えなくてはならないとか……?」
「いや、そこまでひどくはない。基礎的なものはできているはずだし、頭も悪いわけじゃない。むしろ、知能は標準よりもかなり高い。それが学業に全く反映しないのが不思議なくらいに。だから、家庭教師といっても、四六時中ひっついて、手取り足取り教える必要はないんだよ。要は、競走馬の鼻先につけたニンジン役とでもいうか、彼の発奮材料になってくれればいいんです」
「ウサギから今度はニンジンですか」
日美香は苦笑しながら言った。
「まあ、言葉は悪いかもしれないが、若い男なんて、美人がそばにいるだけで、いいところを見せようと勝手に頑張るからね。そういう意味だよ。それに、新庄家といえば、閣僚の資産公開でも、常にベストファイブに入っているような金持ちだから、報酬にしても、ふっかければ、いくらでも出すだろうし、並のバイトよりも効率はいいんじゃないのかな」
「そうですね……。引き受けてもいいんですけれど、ただ、一つ気になるのは」
日美香はそう言って、言葉を探すように黙っていたが、
「彼はわたしのことをどのくらい知ってるんですか」
と思い切ったように口にした。
「何も知らないだろうね。名前くらいは聞いているかもしれないが、殆《ほとん》ど何も知らないと言っていいだろう」
「それで……いいんですか?」
「いいって?」
「わたしと彼が接近しても……。相手がまだ小さな子供とかいうならともかく、十八歳といったら、二つしか違わないし。わたしはあまり彼に接近しない方がいいんじゃないかしら」
「私も昨日まではそう思っていたよ。あなたのことを兄にだけ紹介して、新庄家の連中に紹介しなかったのもそのためだ。でも、その考えは、今日、武の身体に出たものを見て、百八十度変わった……」
「身体に出たものって?」
「お印が出た。背中の右肩の下あたりに」
「で、でも、あれは生まれついてのものだって」
「そういうことになっていたのだが、あれはどう見ても『お印』だ。念のために、明日、検査を受けることになっているが。しかし、ただの偶然とは思えない。あなたのことがなければ、私もあれが『お印』だとは絶対に認めなかったと思う。でも、女であるあなたの身体に出たものが、日女《ひるめ》の子ではない武の身体に、こんな風に突然出たとしても、もはや不思議がることではないのかもしれない。『お印』が日女が産んだ男児のみに出るというのは、これまでの調和が保たれてきた世界での決まり事であって、その調和が壊れはじめている世界ではもはや意味がないともいえる。何かが起こりつつある。この異変はその何かの前触れだという気もする……」
「……」
「だから、家庭教師|云々《うんぬん》というのは、口実にすぎないんだよ。義姉《あね》を含めて新庄家の連中にはそう思わせておけばいい。今のところは、武本人にもね。家庭教師だとか受験勉強だとかいうレベルのことは私にはどうでもいいんだ。ただ、武とあなたを会わせる良い口実にはなる。それに、此《こ》の際、武にもあなたにも神家のことをもっと知ってもらいたい。神家には、代々の宮司が書き残した家伝書というものがある。門外不出で神家の人間しか読むことができないものだが、これを、あなたがたにも読んでおいてほしい。ただ、何巻もある長いものだし、全部読むとなると、少なくとも一カ月はかかるだろう。どうしても、ある程度の滞在期間が必要になってくるんだよ。今回はそれができるいい機会だということだ。武にとってもあなたにとっても。腹を割って、本音をいえば、そういうことなんだ。解ってくれますね?」
「……解りました。そういうことでしたら、この話は、喜んでお引き受けします」
日美香は強い目をしてきっぱりと言った。
「そうか」
聖二は満足したように頷《うなず》いた。
日美香といて、何が楽しいかというと、まさにこういう瞬間だった。ぐだぐだと説明する必要がない。要所だけをかいつまんで口にしただけで、ほぼ完璧《かんぺき》に理解する。それも、理解した振りをするのではなく、本当に解っている。
言葉というより、殆ど一種の精神感応で会話をしているようなものだ。こういう相手は得難い。今までは、これができるのは、兄の貴明だけだった。その兄にさえ、言えないことはあったし、必ずしも胸襟を開き切っていたわけではない。
しかし、この娘に対しては、それができる……。
「あと、報酬などの詳しい話は、明日、義姉と会ったときに直接すればいい」
「はい。結局、こういう形で渡米費用は、父……いえ新庄さんから出してもらうことになるわけですね」
日美香は独り言のように呟《つぶや》いた。
「それはどういう意味?」
「実は……しばらく休学して渡米する話、わたしが自分で思いついたというより、この前お会いしたときに、新庄さんからもちかけられたんです。渡航費やあちらでの滞在に必要な費用はすべて自分が出すからと……」
「兄がそんなことを?」
「ええ。ご自分も若い頃、そうしたからと。学生の間にそういう経験はしておいた方がいいとおっしゃって。それに、本場の英語に触れて、日常会話くらいできるようになっておけば、どんな職業につくにしても、それが何かの役にたつと。それで、新庄さんが昔お世話になったという家庭と今も交流があるとかで、信頼のおける一家なので、ホームステイ先もそこを紹介してやると……。そのとき、費用の方は自分でなんとかすると言ってお断りしたんですが、ほかのことはお言葉に甘えさせてもらおうかなと」
「……兄とはよく会うの?」
「いえ、これで二度めです。一月ほど前に、ちょっと身体があいたので、食事でもしようと突然電話をもらったんです。ちょうど今日みたいに……。あの、まずかったでしょうか。二人きりでは会わない方がいいとは思ったんですけれど」
「そうだね。あまり頻繁に外で会っていると、義姉が不審がるかもしれない。それに、マスコミの目とかもあるしね。といっても、実の父娘《おやこ》なんだから、たまに会いたいと思うのは人情だろうが……。でも、今、あなたと兄の関係が義姉に知られるのはまずいな。単なる夫婦|喧嘩《げんか》程度では済まない恐れがある。おとなしそうに見えるが、あれでも、新庄信人の娘として、後援会の連中には一目置かれている人だからね。彼女にへそを曲げられると何かとやりにくくなる。これからは、兄に会いたいと思ったら、必ず私を通してください。私がなんとかするから。それと、兄から連絡があったときも、すぐに行動せずに、一応、こちらに知らせてほしい」
「はい、わかりました……」
日美香は素直に頷いた。
貴明がこっそり日美香に連絡をとり、二人きりで会っていたと聞かされて、聖二は不快感にも近いものを感じていた。
それと同時に、そこに微《かす》かな危険の匂《にお》いをも嗅《か》ぎ取っていた。
兄は、どういうつもりで日美香を呼び出して会ったのだろう。単に「父親」として「娘」に会いたかっただけなのだろうか。
しかし、兄には、果たして「父親」という自覚があるのだろうか。
自分の手元で生まれたときから育てていたならともかく、二十歳になるまで、その存在さえも知らなかった「娘」を、しかも、どんな男の関心さえも容易に集めそうなほど美しく成長した「娘」を、はたして、どの程度まで「娘」と認識しているのだろうか。
そもそも、親子だとかきょうだいとかの「家族意識」というものは、長年、同じ場所で生活を共にすることから自然に生まれてくるものだ。いくら血がつながっていても、生活を共にしたことがなければ、この意識は生じにくい。
兄の目には、日美香は「娘」というよりも、「若くて魅力的な異性」として映っているのではないか……。
同じことは、日美香の方にもいえる。
地位も名誉も金もあり、ルックスも並以上で、「親父臭くない」中年男は、彼女のような若い娘には、時には、同世代の男よりも遥《はる》かに頼もしく魅力的に見えるものだ。
同じ男を父親にもつ武と日美香の接近よりも、頭でしか「父娘」ということが解っていない兄と日美香の接近の方がより危険をはらんでいそうな予感がした。
これは、妙なことにならないうちに、兄の方にも一言|釘《くぎ》をさしておかなければ……。
聖二はそう腹の内で思いながら、自分が感じたこの不快感が、実は、嫉妬《しつと》という感情であることまでは自覚できていなかった。
そして、それが、どちらに対して感じた嫉妬であるのかも……。