十月二十四日、土曜日の午後だった。
床の中でうつらうつらとしていた神耀子《みわようこ》は、ふと目を覚ました。
何やら外が騒がしい。
子供たちの甲高い歓声や笑い声。
中庭で人が集まって何かしているらしい……。
耀子はゆっくりと起き上がってみた。今日はわりと気分がいい。起きるとき、いつも悩まされる目眩《めまい》のような嫌な気分や、身体のだるさがない。
夏あたりからずっと体調が思わしくなかった。病気というのではないが、夏ばても手伝って、とにかく身体がしんどくて、この三カ月間というもの、寝たり起きたりの日々が続いていた。
床から出て、寝間着の上にカーディガンを羽織っただけの姿で、中庭の見える縁側まで行って外を見てみると、庭では、子供たちが集まって相撲をしていた。
神家の子供だけではない。近所の子供たちの顔も見える。
地面に円を描いて作っただけのシンプルな土俵の上では、高校生くらいの長身の少年と、小学一年生くらいの少年が四つに組み合っていた。
小学生の方には見覚えがあった。
副村長の長男の矢部俊正だった。
もう一人の方の少年は……。
あれは、確か、貴明さんの次男の武《たける》……。
療養と受験勉強を兼ねて、しばらくこちらで預かることにしたと、弟の聖二からは聞かされていた。
十年ほど前に、一度、家族連れで来たことがある。そのときは、ちょうど今の俊正くらいの年齢だった。当時は男の子というより、はにかみやの少女のような印象を受けたものだが、その幼顔はかすかに残っているとはいえ、外見だけは、見違えるように逞《たくま》しくなっていた。
年上の少年相手に踏ん張っていた俊正があっけなく土俵の外に投げ出されると、土俵を取り囲んでいたギャラリーからまた歓声が起こった。
ギャラリーの中には、子供にまじって大人の顔もあった。
その中に日美香の顔もあった。
倉橋日登美によく似た顔が……。
しかし、耀子を少なからず驚かせたのは、その日美香のそばに義妹《いもうと》の美奈代の顔を見つけたときだった。
美奈代は笑っていた。
大きな口をあけて楽しげに。
信じられないものでも見たような気がした。
あの美奈代があんな風に屈託なく笑う顔を何十年ぶりで見たことだろうか。
耀子は、やはりこうして縁側越しに見た二十年近くも昔のある光景を突然思い出していた。
中庭をふと見ると、聖二と美奈代が肩を並べて散策していた。あれはまだ美奈代がこの家に嫁いでくる前だった。
あのとき、まだ二十歳そこそこだった美奈代は、婚約したばかりの弟と並んで、ああして弾けるように笑っていた。
若い頃は明るくてよく笑う娘だった。
でも、翌年、この家に嫁いできて、やがて、よく笑う娘の顔から次第に笑顔が拭《ぬぐ》ったように消えていった。
いつしか、美奈代は笑わない女になっていた。
それが、まるで少女の頃に戻ったように、屈託なく笑っている……。
彼女をたとえ一時にせよ、昔の彼女に戻したのは一体何だったのだろうか。
この久しぶりにからりと晴れた秋空らしい天気のせいだろうか。
いや、美奈代だけではない。
あの娘……。
日美香も少し変わったように見える。
聖二と養子縁組をしたあとも、週末などを利用して、ここにはたまに訪れてくるだけだったが、会ったときの印象は、いつも、どこか心を閉ざしたような冷ややかな感じだった。
それが、今、義妹同様、楽しげに白い歯を見せて笑っている。
武の家庭教師を兼ねて、ここにしばらく滞在するという話だが、彼女も心なしかよく笑うようになった気がする。
笑わない女たちをこんなに明るくしたのは一体何の力なのだろう。
日美香や美奈代だけではない。
このわたしにしても……。
今日もそうだが、ここ数日、妙に気分がいい。晴れた日によく感じるような、何か特別にいいことがあったわけでもないのに、なんとなく浮き浮きする。そんな気分だ。
この家では何かが少しずつ変わりつつある。
あの少年が来てから……。
そうだ。この変化の要因は、あの少年にある。今、「暑い、暑い」と言って、上に着ていたトレーナーを無造作に脱ぎ捨て、半袖《はんそで》のTシャツ一つになって、かたわらにあったヤカンの水をがぶ飲みしているあの少年。
新庄武がこの家に来てから、何かが変わった。
それは、まるで、今まで雲に隠れていた太陽がようやく顔を出し、その光を全身に浴びて、みんな、それを喜んでいる……。
そんな風にも見えた。
「姉さん……」
つい食い入るように中庭の光景を見つめていると、背後から声がした。振り返ると、聖二が入ってきた。