「さあ、もう一勝負しようぜ。誰か相手はいないか」
新庄武は、しばらく休んでいた縁側から勢いよく立ち上がると、また土俵の真ん中に進み出て、ギャラリーを見渡した。
「もう誰もいないよ。武兄ちゃん、強すぎるんだもん。みんな、負けちゃったよ」
最後の対戦相手だった矢部俊正が、投げ飛ばされたときに擦りむいた右|肘《ひじ》をさすりながら、くやしそうに口をとがらせた。
「なんだよ。もうおしまいか。もっと手ごたえのあるやつはいないのか。敗者復活戦でもいいぞ」
武は挑発するように言った。
負けた少年たちはみな恨めしそうに互いの顔を見合わせている。
「誰でもいいからかかってこい。また投げ飛ばされるのがこわいのか。弱虫だなぁ、おまえらは」
武はからからと笑った。
「おこちゃま相手に何いきがってるんだよ」
そのとき、背後でそんなあざ笑うような声がした。
振り返ると、玄関に通じる植え込みの陰から、小型のボストンバッグをさげた背広姿の人物が現れた。
「兄貴……」
武は、突然現れた人物の方を信じられないように見た。
兄の信貴《のぶたか》だった。
「信貴さん」
美奈代も驚いたように、もう一人の甥《おい》の出現に目をまるくしていた。
「玄関で何度か声かけたんですが」
声をかけても誰も出てこないし、庭の方が何やら騒がしいので来て見たのだと信貴は言った。
「兄貴、どうしたんだよ」
「俺《おれ》が相手になってやる」
信貴は訪問の理由も告げず、そう言うと、手にさげていたボストンバッグをその場に置き、背広を脱いでワイシャツ姿になり、ネクタイを緩め、銀縁のメガネまではずした。
「相手って……」
入院中も一度しか見舞いに来ず、しかも、十分ほどいただけでさっさと帰ってしまった兄が、こんな山奥まで突然訪ねてきただけでも十分|驚愕《きようがく》ものなのに、今ここで、自分と相撲を取ろうとしているらしいことに、武は心底びっくりしていた。
どうしたんだ、一体……。
「何突っ立ってるんだ。早くしろよ。それとも投げ飛ばされるのがこわいのか」
信貴は、ワイシャツの袖《そで》をまくりあげて、腰を落とし、かりそめの土俵に両|拳《こぶし》をつき、弟を見上げてからかうように言った。
「すごい。世紀の兄弟対決だ」
「ワカタカだ」
口々に囃《はや》す声がした。
武は、どうも状況が呑み込めず唖然《あぜん》としながらも、しかたなく、自分も兄と向かい合って土俵に両拳をついた。
「はっけよい」
の掛け声で兄とがっぷり四つに組むと、
「手加減しろよ……」
耳元でこそっと信貴の囁《ささや》く声がした。
その一言でつい力を抜いてしまったところを、いきなり足を払われて、ずでんと土俵に尻餅《しりもち》をついてしまった。
「わーい。ノブタカニイチャンの勝ちー」
負け組の少年たちから割れんばかりの拍手と歓声があがった。
「武兄ちゃん、弱ちぃー」
「あっけねー」
「尻餅、かっこわりぃー」
「餅は正月につけー」
「おこちゃまにしか勝てねーのか」
ここぞとばかりに罪のない罵声《ばせい》があちこちから飛ぶ。ギャラリーがまたどっと沸いた。
「ちぇ」
武は苦笑いしながら立ち上がった。
信貴は、作戦勝ちとでもいいたげに、自分の額を指さして愉快そうに笑っていた。