「兄貴、ずるいや……」
信貴と一緒に部屋に戻ってくるなり、武は膨れっ面で言った。
窓から見える庭には、集まっていた人々もみな立ち去って、数人の子供たちがまだ遊びたりないような顔で残っているだけだった。
「あんなこと言うから本気じゃないのかと思って力抜いたら———」
「体育しか5が取れなかったおまえと、体育だけは5が取れなかった俺がまともに勝負したって、こっちが負けるに決まってるじゃないか」
信貴は捲《まく》りあげていたワイシャツの袖をおろしながら当然のように言った。
「だけど驚いたよ。何も言わずにいきなり来るんだもん。何しに来たんだよ?」
「何しに来たとはご挨拶《あいさつ》だな。こんな信州の山奥まで可愛《かわい》い弟の様子を見に来てやったのに」
そう言いながら、信貴は、さげてきたボストンバッグを開けると、一番上にあった四角い菓子箱のようなものを取り出した。
「というか、母さんにこれ頼まれたんだよ。ついでにおまえの様子見て来いって……」
「なに、それ?」
「おふくろ印のアップルパイ。おまえの好物だろうが?」
「ああ……」
武は兄の差し出した平たい箱を見て目を輝かせた。母の焼いたアップルパイは小さい頃から大好物だった。触ってみると、焼き立てらしく、まだ仄《ほの》かに温かかった。
「まあ、信貴さん。一言連絡してくれたら、お迎えにあがりましたのに」
茶菓を載せた盆をたずさえて美奈代が入ってきた。
「突然押しかけてすみません。一晩だけご厄介になります」
信貴はそう挨拶した。
「一晩とおっしゃらず何日でも。今、お部屋の用意しますから」
そう言って、テーブルに盆だけ置くと、そそくさと美奈代は立ち去ろうとした。
「叔母《おば》さん」
その叔母を呼び止めて、武は、兄から渡されたばかりの菓子箱を差し出した。
「これ、チビたちにやって」
「え……」
「アップルパイだって」
「あら、いいんですか?」
美奈代は一瞬とまどったように菓子箱を見た。
「おい、それは……」
信貴がそう言いかけたが、
「いいよ。俺はいらないから。このへんのガキどもはこんなコジャレタもん食ったことないから、きっと喜ぶよ」
「それじゃ、遠慮なく」
美奈代は菓子箱を受け取ると部屋を出て行った。
「あれはおまえに食べさせようとして母さんが焼いたものだぞ。それを……。好物じゃなかったのか」
信貴はやや咎《とが》めるように弟を見た。
「好物だったけど……。今はこっちの方がいいや」
武はそう言うと、美奈代が置いて行った盆の皿から信州名産のお焼きを一つとりあげると、中を割り、「お。野沢菜だ」と呟《つぶや》いた。
「おまえ……ホントに変わったな」
そんな弟の様子をじっと見ていた信貴はポツンと言った。
「そう?」
武は野沢菜入りのお焼きをほお張りながら兄の方を見た。
「それにしても元気そうじゃないか」
「まあね」
「傷の方はもういいのか」
「とっくに治ってるよ」
「受験勉強は? ちゃんとやってるのか」
「やってるよ」
「まさか、一日中勉強してるわけじゃないだろ?」
「勉強は午前中だけ」
「あとは何やってるんだ。こんな田舎じゃ暇のつぶしようがないだろうし……」
「そうでもないよ。けっこうやることはある。薪割《まきわ》りとか」
「薪割りって、おまえ、そんなことやってるの?」
信貴は驚いたように聞き返した。
「だって、ここ、いまだに薪くべてわかす風呂《ふろ》使ってんだぜ。これから冬になると、雪とか降るから、その前に使う分だけ蓄えておかないとね。毎日薪割りよ」
「だからって、そんなこと、おまえがやることないだろう?」
「お印の出た子にそんな下男みたいな真似はさせられないって、最初は叔母さんもやらせてくれなかったんだけどさ。でも、何もしないでお勉強ばかりしてても身体なまるだけだし。東京にいたときは、ジム通ってたけど、ここじゃ何もないからね。薪割りって、やってみるとなかなか難しいんだ。力の配分とかバランスとかね。でも、全身の筋肉使うから、あれを毎日やるだけでも、良《い》い運動になるんだよ。それに、いくら親戚《しんせき》とはいえ、ただ飯食いの居候だもん。家の手伝いくらいしなくちゃね」
「……ようするに、おまえは田舎生活を満喫していると考えていいのか」
「うん。けっこう楽しんでる」
「田舎嫌いじゃなかったのか」
「うーん……。なぜか、ここは性に合うみたいなんだ」
「それを聞いたら、母さん、がっかりするだろうな」
「がっかりする? なぜ」
「本当いうと、俺が今日来たのも、そろそろ一週間になるから、おまえが田舎暮らしに退屈しはじめてるんじゃないかって、おふくろが……。それで、もし、帰りたがっているようだったら一緒に連れて来いって」
「幼稚園のガキじゃあるまいし。帰りたくなりゃ、一人で帰るよ」
武はそう吐き捨てたあとで、
「今んところ、帰る気なんか全然ないけどね」
と付け加えた。
「それじゃ、好物届けさせて、里心をつけようとしたおふくろの作戦は見事失敗に終わったってことかな……」
信貴は独り言のように言った。
「それに……」
武が言った。
「今、帰るわけにはいかないんだよ」
「なぜだ?」
「俺、今度の大神祭で、三人衆やることになっちゃったから」
「三人衆って……」
「蓑《みの》とか笠《かさ》とか面とかつけて、大神の役やるやつ。ほら、昔、ここに来たとき、兄貴も聞いたことあるだろ。あれを俺《おれ》にやれってさ。ふつうだったら、この村に生まれ育った人間しかできないらしいんだけど、お印が出たから特別なんだって」
「へえ……」
「だから、少なくとも、大神祭が終わるまではここにいないとね」
「まさか、おまえ……。一生、ここにいるつもりじゃないだろうな」
信貴はおどけたように聞いた。
「え?」
「そういえば、おふくろがさ」
信貴はそう言いかけ、少しためらったあとで、「いや、何でもない」と言った。
そのとき、美奈代が入ってきて、「あちらにお部屋用意しましたから」と信貴に告げた。