宝生家での生活は悪くはなかった。
東京の一等地に広大な屋敷をもつ富裕な資産家だったから、物質的な面では何ひとつ不自由することはなかった。
明るく陽の差し込む広々とした洋間を与えられ、継母や年の離れた異母姉《あね》たちからも、愛人の子だからといって、苛《いじ》められたり邪険にされたりするようなことはなかった。
とはいえ、それは表立ってはということで、宝生家の女たちの内心には、外に愛人を作り、子供まで設けていた夫や父への怒りや不満がくすぶっており、それが、何かの拍子に、見えない波動となって、幼い少年に襲いかかるようなこともあった。
人一倍敏感なところがあった少年は、継母や異母姉たちの、うわべの優しさ上品さに隠された、真綿にくるんだ針のような刺々《とげとげ》しい感情にすぐに気づいてしまった。
そして、それから身を守るために、うちにいるときは、女たちとの接触をなるべく避けるために、何かと理由をつけて自分の部屋に閉じこもるようになった。
学校に行っても、田舎からの転校生ということで友達もできず、学校でも独り、家でも独りという孤独な日々が続いた。
もっとも、宝生自身は、こんな孤独な日々を送る自分をそれほど可哀想だとは思っていなかった。
というのも、元来、他人とわいわいやって賑《にぎ》やかにしているよりも、誰にも邪魔されない薄暗い部屋の片隅にひっそりと座り込んで、果てしもない空想にふけったり、自分で考えた独り遊びをするのが好きな、どこか孤独癖のある子供だったからだ。
ただ、家でも外でも孤立しているようにみえる息子の状態に密《ひそ》かに気づいた父が、不憫《ふびん》に思ったのか、九歳の誕生日が近づいたある日、ふいに、「誕生プレゼントに、何かペットを買ってやろう」と言い出したのである。
可愛い子犬か子猫でもそばにおいてやれば、幼い息子の孤独も少しはまぎれるのではないかと考えた父なりの親心だった。
しかし、そのとき、喜んだ少年が即座にねだったのは、父が考えていたようなありふれた犬猫ハムスターの類いではなかった。
なんと、蛇が欲しいと言ったのだ。
まさか、息子がそんなことを言い出すとは夢にも思っていなかった父は、その返事に面食らいながらも、さりとて前言を翻すこともできず、仕方なく、子供が飼っても害のないような、南米産の小さな縞蛇《しまへび》を買い与えてくれた。
その日から、その小さな蛇が少年の唯一の心の友となった。
しかも、蛇を飼うようになって、もうひとつ有り難いことがあった。
それは、それまで掃除を口実に無断でずかずかと部屋に入りこんできては、本棚や机の引き出しなどを隈無《くまな》くチェックしていた(らしい)詮索《せんさく》好きの老家政婦が、この蛇を怖がって、部屋に入ってこなくなったことだった。
そのおかげで、部屋の掃除は自分でするはめになってしまったが、継母の遠縁にあたるという老家政婦の無神経な過干渉に悩まされていた少年は、内心|快哉《かいさい》の声をあげた。
祖母が言っていた「蛇は守り神」という言葉の意味を、身にしみて感じたのもこのときだった。
小さな心の友は、部屋の隅でとぐろを巻いているというだけで、宝生家の女たちの目には見えない攻撃的な精神波動から、少年を守る、まさに「守り神」になってくれたのである。
やがて、中学高校へと進むにつれて、少年の部屋の「守り神」の数は一匹、また一匹と増えていった。コレクター心理も手伝って、より美しく、より珍しい種類をと求め続けているうちに、気が付くと、部屋は蛇の巣と化していた。
そして三年前。父が病死した後、財産分与を済ませると、宝生家の女たちは、こんな家で蛇と同居するのは真っ平ごめんとばかりに、別の所により広大な家を建て、さっさとそちらに引っ越して行った。
古い邸宅に残ったのは、宝生と蛇たちだけだった。
はた目には、愛人の子である彼が正妻と異母姉たちを追い出して、いわば庇《ひさし》を借りて母屋を乗っ取ったような格好に見えたかもしれないが、もちろん、彼が女たちを追い出したのではなく、女たちの方が古い家を捨てたのである。
父の死をきっかけに、もともと薄かった宝生家の女たちとの縁も完全に切れたといってもよかった。
父が手掛けた事業は、二人の異母姉とその連れ合いたちによって引き継がれ、古ぼけた邸宅以外の莫大《ばくだい》な遺産はすべて女たちのものになったも同然だったから、あちらからも文句の出ようはずがなかった。
こうして、父の遺《のこ》した邸宅で一人、誰の目をはばかることもなく、愛すべき蛇たちとの同居を楽しむことができるようになったわけだったが……。