十月三十日。日曜日。
午後八時を少し回った頃だった。
風呂から上がって、濡れた髪をタオルで拭きながら、リビングに戻ってくると、テーブルの上に投げ出してあった携帯が鳴っていた。蛍子は、タオルを首にかけたまま、携帯を取り上げた。
甥の豪は、友達のところにでも行っているのか、昼頃出かけたきり、まだ帰ってはいなかった。
出てみると、相手は近藤道代だった。
さきほど、日の本村から帰ってきたばかりだという。埼玉の自宅からかけているらしい。道代の話では、どうやら警察の付き添いは得られず夫と二人きりで出かけた様子だった。
「それで? 例の女の子には会えたのですか?」
そう訊《き》くと、
「ええ、会えました」と道代は答えた。
会えた……?
それを聞いた蛍子は意外に思った。てっきり、あの幼女には会えずに帰ってきたのではないかと思っていたからだ。
「すぐに会わせてもらえたのですか」
念を押すようにそう訊くと、
「いいえ、すぐというわけではなくて……」
道代はそう言って、あの幼女に会うまでのいきさつを話してくれた。最初は、社で掃き掃除をしていた二十歳くらいの若い神官に頼んだのだが、その神官から、「今は大神祭に備えての『潔斎』の期間にあたるので、どんな事情があろうとも、『物忌《ものい》み』におられる日女様に会うことはできない」と手厳しくはねつけられたということを。
「……そう言われて、あきらめかけていたとき、ちょうど、宮司さんが通りかかって、その方に事情を説明して、再度お願いしたところ、ようやく、こちらの気持ちを汲《く》んでいただけたようで、そういう事情なら、今回だけ特別に会わせてやろうとおっしゃって……」
道代の話をききながら、おそらく、最初に会った若い神官というのは、神郁馬のことではないかと蛍子は思った。
郁馬は神官見習いとして、社周辺の掃き掃除や草むしりなどを受け持っているという話だったし、蛍子があの社を訪ねたときも、掃除の最中だったらしく竹箒を手にしていた。
「ただ、今は日女様の大事なおつとめの最中なので、すぐには無理だと言われて、夕方、もう一度来てくれと言われて出直したのです」
道代は言った。
「それで、そのときに?」
「ええ。会いました。宮司さんがその女の子を連れてきてくださって。間近で見ることができました……」
「さつきちゃんではなかったのですか」
電話の向こうの、旅の疲れだけではなさそうな声の暗さから推して、蛍子はそう言った。その幼女が娘のさつきだったら、道代の声はこんなに沈んではいないだろう。
「はい。さつきではありませんでした。年格好も、髪形も、右頬に黒子があることも、確かに似てはいたのですが、でも、顔は全く違っていました」
「そうだったんですか。わたしがよけいなことを言ったばかりに、近藤さんには無駄足を運ばせてしまいましたね。テレビの写真で見たときはとても似ているように思えたのですが」
申し訳なくなってそう言うと、
「いいえ、そんな。喜屋武さんにはとても感謝してるんです。情報をいただいたことに。たとえ無駄足になってもいいんです。何も情報が入らず、うちで手をこまねいてあの娘《こ》の帰りをただ待っているだけよりは。僅《わず》かの期待でもいいから抱いて、こうして動いている方がよっぽど救われますから……」
道代はそう言うと、蛍子の方が恐縮するほど何度も礼を言って電話を切った。
蛍子は耳につけていた携帯を離して、テーブルに戻すと、ソファの背もたれに身体を預け、はぁと大きなため息をついた。
結局、近藤道代の力にはなれなかったという無力感もあったが、同時に、近藤さつきの誘拐事件が日の本村とは無関係だったらしいということが分かって、幾分|安堵《あんど》する気持ちもあった。
あの巫女《みこ》姿の幼女が近藤さつきではなかったということで、先日、鏑木浩一が言っていた「これまで日の本村で密《ひそ》かに行われていたことが、日本全土に広がる云々《うんぬん》」という推理も、ただの妄想にすぎないことが分かったからだ。
あの村に対して抱いた疑惑は少しも晴れたわけではないが、この件に関しては、自分の勘違いだった……。
そのことに、微かな安堵を感じていた。
そうだ。このことを鏑木にも知らせておこう。
蛍子はそう思いつくと、テーブルに投げ出した携帯を再び取り上げ、前に会ったときに聞いて登録しておいた彼の携帯の番号をプッシュした。
しばらく呼び出し音が鳴ったあと、すぐに男の声が答えた。鏑木だった。
自宅ではないような人の話し声や雑音が背後から聞こえてくる。
「喜屋武です」と名乗ると、「あ、これはどうも」と、少し驚いたような声が返ってきた。その声には、蛍子の自惚《うぬぼ》れかもしれないが、どことなく喜色のようなものが感じられた。
「今、ちょっとよろしいですか」
そう聞くと、
「はい、かまいません。どうぞ」
鏑木はすぐに言った。今、仕事でスタジオにいたのだが、ちょうど一段落ついたところだという。
「さきほど、近藤さんから電話がありまして」蛍子はそう言って、近藤道代から聞いた話をそのまま鏑木に伝えた。
「……そうですか。喜屋武さんが見たという幼女は近藤さつきじゃなかったんですか」
話を一通り聞き終わると、鏑木は、がっかりしたともほっとしたとも取れるような声音で言った。
「ですから、この件に関しては、あの村とは関係なかったということで」
蛍子がそう言いかけると、
「ちょっと待ってください」
鏑木が鋭く遮った。
「まだ、そうとは言い切れませんよ」
「え?」
「近藤夫妻が会ったという幼女ですが、本当に喜屋武さんが見た幼女と同じ子だったんですかね」
突然そんなことを言い出した。
「え。でも、近藤さんの話では、その女の子は、三、四歳くらいで、オカッパ頭、右頬に黒子があったということですから、たぶん……」
蛍子は意表をつかれて思わず言った。
こんな特徴を持つ幼女があの村に何人もいるとは思えない。
「髪形にしても黒子にしても、いくらでも似させることはできますよ。黒子なんて付け黒子でもいいし、マジックか何かで書くことだってできる。夕方会ったというなら、あたりも暗かっただろうし、薄暗いところだったら、間近で見ても偽黒子とは見破られないでしょう」
「ということは、近藤さんが会った女の子は、わたしが見た子とは違う替え玉だったとでもいうんですか」
「その可能性もないとはいえませんね。だって、よく考えてみると、おかしいじゃないですか。大神祭を控えての潔斎《けつさい》とかいう期間だというのに、宮司がそんなにたやすく外部の者に面会を許したというのは」
「それは、わたしも少し意外に思ったんですが。でも、近藤さんの言うように、宮司さんがお子さんを探しに来たご夫妻の心情を察して、特別に計らってくれたとも……」
「その宮司という男ですがね」
鏑木がやや声を潜め、何かを打ち明けるように言った。
「前に、達川さんからちょっと聞いたことがあるんですよ。名前は、神聖二《みわせいじ》といって、新庄貴明のすぐ下の弟だと。なんでも、数十年に一度しか現れないという、大神の『お印』とか呼ばれる特殊な蛇紋をもって生まれたとかで、あの村では、ただの宮司というより、『生き神様』のように崇拝されているという話でした。どうやら村を実質的に牛耳っているのは、村長なんかではなくて、この男らしいんです。倉橋日登美の事件も、陰ですべてを計画し仕切っていたのはこいつじゃないかと言ってました。見た目には、人当たりの柔らかい温厚そうな人物らしいんですがね。中身はそんな生やさしい御仁ではないらしい。なかなか一筋縄ではいかない相当の曲者《くせもの》のようだと達川さんは言ってました。喜屋武さんはこの人物には会ってないんですか」
「いいえ。神家で会ったのは、その宮司の弟にあたる郁馬という若い神官だけです。そういえば、伊達さんから聞いた話では、その神聖二という人は倉橋日登美の実兄だとか……」
「ひょっとしたら、近藤夫妻はこの宮司にまんまと一杯食わされたんじゃないでしょうか」
「……」
「もし、喜屋武さんが見たのが近藤さつきだったとしたら、宮司としては、むろん、その子を親である近藤夫妻に会わせるはずがない。しかし、たとえ潔斎を口実に追い払ったとしても、それでは、夫妻の気持ちの整理はつかないだろうし、疑惑は深まるばかりだということは容易に想像できる。下手をすると、そのうち、警察やマスコミまでこの件で動き出しかねない。そうなる前に、喜屋武さんが見た幼女は、似てはいるが別の子供だったという話にしてしまった方が、夫妻の気持ちの整理もつくし、これ以上の疑惑を封印することができる。
咄嗟《とつさ》の判断でそう考えた宮司は、夕方にまた来いといって時間をかせぎ、その間に、年格好の似た女の子をみつくろって、日女の衣装を着せ、オカッパ頭に、偽黒子をつけさせて、あのときの日女様だと偽って、近藤夫妻に会わせた……とは考えられないでしょうか?」
言われてみれば、鏑木の疑惑ももっともだった。一度は安心しかけた蛍子の胸にまた不穏なさざ波がたちはじめた。
「もしそうだとしたら、わたしも近藤さんと一緒にもう一度あの村に行って、あのときの幼女だったかどうか確かめた方がいいのかしら」
蛍子が迷いながらそう言うと、
「それは無理でしょう。俺の考えが正しければ、あの宮司がそんなことをすんなり許すはずがありません。一度は温情で許したが、二度はできない。そう言って拒否するに決まってますよ。喜屋武さんに立ち会われたら、替え玉を使ったことがばれてしまうんだから。それに、あなたはこれ以上あの村にかかわらない方がいい」
「……」
「あなたの周辺を洗っているのが、日の本村の連中だとしたら、あの村の連中に、あなたはマークされているわけですから。これ以上表だってかかわるのは危険です。いざとなると手段を選ばない荒っぽい連中みたいだから、下手をすると、達川さんの二の舞いになりかねません」
「それでは、あの幼女はどうなるんです? もし、あの子が近藤さつきだとしたら? 大神祭は来月の初めに行われるんです。後一週間もないんです。何もしないでいたら、あの子はこのまま……」
「俺が行きます」
鏑木は突然言った。
「えっ」
「俺が行ってきます、あの村に。今の仕事が片付けば、しばらく暇になりますから。地方の奇祭に興味をもって取材に来たカメラマンということにすれば、二、三日滞在しても誰にも怪しまれないと思います」
「でも……」
「いやね、口実だけじゃなくて、実際に、取材してみたくなったんですよ。あの村や、大神祭とやらを。達川さんやあなたの話を聞いていたら、あの村に興味が出てきたんです。一度、自分の目で見てみたくなった。それに、もともと、古い祭りとか風習とか嫌いじゃないんですよ、俺。
前に、仕事でインドに行ってたって言ったでしょう? あれも、実は、祭りがらみなんです。旅の雑誌の企画で、インドの民間に根付いた古い風習や祭りの様子を取材して撮影してくるっていうね。あの企画の半分もこちらから出したようなもんだったし。そうそう、そういえば、インドにも、あちこちに強烈な蛇信仰みたいなものがありましてね」
鏑木はそんな話を夢中で続けていたが、蛍子は、このとき、言い知れぬ胸騒ぎのようなものを感じていた。
また一人……。
また一人、あの村とあの村の奇祭に興味をもって近づこうとしている男がいる。
元週刊誌記者の達川正輝。私立探偵の伊達浩一……。
そして、この元恋人と同じ名前をもつ、自称フォトジャーナリストの鏑木浩一。
まさか……。
奇しくも、伊達と同じ名前をもつ男は、同じ名前ゆえに、同じような運命を辿《たど》るのでは。
そして、わたしは、そんな予感というか、危惧《きぐ》を抱きながらも、今度もそれを止めることができないのでは……。
蛍子はそんな言い知れぬ不安に襲われていた。