十月二十九日の午後。
一泊するつもりで宿を取った日の本寺に荷物を置くと、近藤道代は、夫の昌之と共に、日の本神社に行くべく、昼なお暗い杉の参道を歩いていた。
三差路の真ん中の参道を少し行くと、二の鳥居らしきものが見えてきた。
この鳥居にも、バス停近くにあった一の鳥居同様、普通の神社よりも遥《はる》かに太い、どことなく蛇を思わせる形状のしめ縄が張られていた。
道代はそれを薄気味悪そうに見上げながら、鳥居をくぐった。
境内は森閑と静まり返っていた。社を覆い囲むようにして密生している樹木から野鳥の鳴き声や羽ばたきが時折降ってくるだけである。観光名所の類《たぐ》いではないせいか、一般の参拝客らしき姿は全く見えなかった。
人気といえば、周囲に酒樽《さかだる》を積み上げた拝殿とおぼしき古びた木造の建物のそばで、白衣に浅葱《あさぎ》の袴《はかま》を着けた神官らしき男が竹箒《たけぼうき》であたりを掃除しているだけだった。
「あの……」
その神官に向かって、道代はおそるおそるという感じで声をかけた。
神官は竹箒を動かしていた手を止めて、こちらを見た。年の頃は、二十代前半くらいで、すらりとした身体つきの、女のように整った顔立ちをした色白の美青年だった。
「ちょっと伺いますが」
道代はそう言って、この村で若日女《わかひるめ》と呼ばれる巫女たちが暮らしているという家屋がこの社の奥にあると聞いてきたのだが、どう行けばいいのかと訊《たず》ねると、
「『物忌《ものい》み』のことでしたら、この拝殿の奥の道を入ったところにありますが」
神官はそう答えてから、
「でも、そこは一般の参詣者は立ち入り禁止になっていて、参拝はできません」と、厳しい表情で言った。
「いえ、参拝ではないんです。実は……」
道代は手にしたハンドバッグを慌てて開くと、中からさつきの写真を取り出し、「この娘《こ》を探している。四月の末に埼玉のショッピングセンターの駐車場から何者かに誘拐されたのだが、最近になって、この神社の奥の竹林で、娘によく似た女の子を見かけたという女性の話を聞いて、夫と共に訪ねてきた。その子が娘かどうか確認させて欲しい」というような説明をすると、道代が差し出した写真をちらと見ただけで、その話を冷淡にも見える無表情で聴いていた神官は、聴き終わるや否や、即座に、「それはできません」と突っぱねた。
「物忌みにおられる日女様には、この社の神官巫女以外は、村の者でも会うことはできない。とりわけ、今は、来月初頭に行う大神祭に控えて、祭りを司る日女様たちは皆、『潔斎《けつさい》』と呼ばれる身を清める期間に入っている。この『潔斎』の間中は、たとえ、それが死にかけた親であろうとも面会することはできない」というのである。
「そこを何とか……」
一目でいいから遠目でもいいから、娘かどうか確認させてくれと、道代は、その若い神官の白衣の袖《そで》にすがらんばかりにして頼んだが、神官の反応は冷たかった。
「どんなご事情があろうとも、それはできません。それに、物忌みにおられる若日女様たちは、この村の生まれの方ばかりで、よその子供がまぎれ込むわけがない。竹林で毬《まり》遊びをしていた日女様がお子さんに似ているというのは他人の空似か、見たという女性の見間違いでしょう」
そう言い張って、取り付く島がなかった。
それでも、道代の方も引かなかった。「なんとかお願いします」と何度も頭を下げ、傍らにいる夫にも、「あなたからもお願いして」と懇願した。夫の昌之も、「娘かどうか確認できないまま帰るわけにはいかない。なんとかお願いします」と深々と頭を下げたが、神官は、「できないものはできません」の一点張りで頑として聞き入れなかった。
これ以上頼んでも無駄かと道代があきらめかけたとき、拝殿の奥の方から、もう一人神官らしきいで立ちの男が現れた。まさに、この奥にあるという『物忌み』から帰ってきたという風だった。
あるいは、道代と若い神官との押し問答を聞き付けて、何事かと様子を見に来たのかもしれなかった。
「どうした……?」
その神官は、怪訝《けげん》そうな顔つきで、若い方に声をかけた。
年の頃は、三十……いや、四十代と思われる年代で、同じ白衣に浅葱の袴、顔立ちもどとこなく似通っていたが、若い神官に比べると、遥かに物腰が落ち着き払って風格のようなものが漂っている。
「あ、兄さん。実はこの方々が」
若い神官はそう言うと、道代がした話を繰り返した。
その年かさの神官はやや気難しげな表情で話を聴いていたが、聴き終わると、道代たちに向かって、ここの宮司だと名乗った。
宮司といえば、この社の主のようなもの。若い神官よりは話が分かるかもしれない。そう考えた道代は、もう一度、さつきの写真を見せ、「遠目でもいいから、その女の子に会わせて欲しい。娘ではないとわかればおとなしく帰ります」と、その足元にひれ伏さんばかりにして懇願すると、しばらく思案するように黙っていた宮司は、
「ご事情はよく分かりました。それはご心痛なことでしょう。それでは……」
そう言って、「本来ならば、何があろうと、外部の者が潔斎中の日女様と会うことはできないのですが、そのような事情であればしかたがない。今回だけ特別にお引き合わせしましょう」と言い出した。
「本当ですか!」
道代は思わず叫ぶように言っていた。
「兄さん、それは……」
若い神官は宮司の返答がよほど思いがけないものだったらしく、ひどく驚いたような顔をしていた。
「ただ、今すぐにというわけにはいきません」宮司は続けて言った。
「日女様は今大事なおつとめの最中ですから。それを中断することはできません。おつとめが終わったあと、夕方……そうですね、六時頃でしたら、ここにお連れすることができると思いますが。それでよろしいですか」
「六時ですね。はい、それでけっこうです。その頃にもう一度参ります。どうもありがとうございます」
道代は心の底から深々と頭を下げた。
若い神官と違って、さすがに年の功というか、人情に通じている宮司に何度も感謝のお辞儀をしてから、道代は夫と共に社を出ると、日の本寺に戻ってきた。
約束の時間が来るまで、若い夫婦は寺の一室でそわそわとして過ごし、ようやく、その時間が来ると、寺から懐中電灯を借りて外に出た。
夕方とはいっても、あたりはとっぷりと暮れ、完全に闇に包まれていた。しかも、十月の末ともなると、夜はかなり冷え込むようだ。頬や髪をなぶる夜風は身に染みるように冷たかった。
参道の灯籠《とうろう》に微《かす》かに灯《とも》る明かりと、足元を照らし出す懐中電灯の明かりを頼りに、再び社まで行くと、例の拝殿のそばに、昼間会った宮司が小さな女の子の手を引いて立っていた。
年の頃は三、四歳。白衣に濃紫の袴《はかま》。黒髪を耳の下で切り揃えたオカッパ頭に、色白の右頬には、大きな黒い黒子《ほくろ》。
「さつき……」
拝殿に灯された提灯《ちようちん》の微かな明かりを背景に、闇に溶け込むようにして佇《たたず》んでいるその幼女を見て、道代は、そう叫びそうになった。しかし、近づいて、その子の顔をよく見てみると、足元から崩れるような絶望感とともに呟《つぶや》いた。
違う。さつきじゃない。
年の頃も、髪形も、頬の黒子も似ている。でも、この子はさつきじゃない。
宮司に手を引かれた幼女の方も、道代と昌之を、まるで知らない人でも見るような無感動な表情で見上げていた。
「いかがですか。おそばにいた日女様の話では、二週間ほど前、竹林で毬《まり》遊びをしていた幼い日女様というのは、この方のようなのですが」
宮司が言った。
「違います。さつきじゃありません」
両|膝《ひざ》が震えて、もう自力では立っていられなかった。傍らの夫の腕に支えられながら、ようやく道代は声を絞り出すようにして答えた。
「おそらく、髪形とか頬の黒子などで、お子さんに似ているように思われたのでしょうね。この日女《ひるめ》様を見かけたという女性は……」
宮司は気の毒そうに言った。