「姉さん」
背後で声がした。
振り向くと、弟の聖二が戸口に立っていた。一週間ほど前にも、体調が悪くて床についていたとき、中庭で少年たちが相撲をはじめ、そのときの騒ぎが、臥《ふ》せっている姉の身体に障るのではないかと心配した聖二が、こうして様子を見に来たことがあった。
「お身体の具合はいかがですか。また中庭が少し煩《うるさ》いようですが……」
弟は入ってくると、心配そうにそう聞いてきた。
「具合はとてもいいですよ。今も、子供たちの肌着の繕いをしていたところですから」
耀子は笑顔で答えた。弟を心配させまいとして言ったわけではなかった。実際、ここ一週間ほど、体調はすこぶる良い。
いつもは、この時間帯でも、敷かれたままになっていることが多い布団が奇麗に片付けられている部屋の中を見回して、聖二も安心したような顔になった。
「それならいいんですが。どうも武が来てから、中庭が子供の遊び場のようになってしまって。あいつは、図体ばかりでかくても、中身はまだ小学生並ですから」
窓の方を見ながら、聖二は、やれやれという顔で言った。
そう言ったきり、黙って窓の外を見ながら、この弟には珍しく、どことなく去りがたいという風情で立ち尽くしている。
「何か御用でも?」
耀子がそう水を向けると、聖二は、ようやく、
「いや、その、用というほどのことでもないんですが……」と言った。
何ごとも前以て綿密に計画をたて、てきぱきと無駄なくこなす弟にしては、いつになく歯切れの悪い言い方であり、煮え切らない態度だった。
「なんでしょう?」
「実は……」
聖二はそう言って、よほど話しにくいことなのか、まだ口ごもっていたが、
「もうすぐ……美奈代の誕生日なので、誕生祝いに何か買ってやろうと思うのですが、何を買ってやったらいいものやら。本人に直接聞くのもあれだし、姉さんなら良いアドバイスを貰《もら》えるのではないかと……」
と、思い切ったように言った。
「え……」
耀子は聞き違いかと思うほど驚いて、思わず弟の顔を見つめ返した。
「何をそんなに驚いてるんです?」
姉にまじまじと見つめ返されて、聖二の方も少し驚いたように言った。
「あ、いえ。あなたがそんなことを言うのをはじめて聞いたものですから、つい」
「……」
「それに、あなたが美奈代さんの誕生日を覚えていたなんて」
「そんなに驚くほどのことですか。夫が妻の誕生日を覚えていることが」
聖二はやや気を悪くしたような顔になった。
「あら、ごめんなさい。他の人ならともかく、あなたのような壮大な大志を抱いた人は、妻の誕生日などという『小事』には全く関心がないとばかり思っていたものですから」
耀子は皮肉ともとれることをサラリと言って、微《かす》かに笑った。
「誕生祝いというか……その、あれにはこれまで何かと苦労をかけてきたし、今まで祝い事らしきこともしてやったことがなかったから、それで、此《こ》の際、誕生祝いを兼ねて、これまでの感謝の印というか……」
聖二は、しどろもどろに説明にもならない説明をした。
この人でも照れるということがあるのだな、と耀子は、沈着冷静この上ない弟の隠された一面を初めて見る思いがした。
どういう風の吹き回しかは知らないが、この弟が、長年連れ添った妻に対して、感謝とか労《ねぎら》うなどという人並の気持ちを抱いてくれたことが、耀子には我がことのように嬉《うれ》しかった。
弟と義妹の関係は、結婚して二十年、耀子の目からみると、夫婦というより、殆《ほとん》ど、主人と家政婦の関係に近いように映っていたからだ。時代が逆行しているというか、まるで明治あたりで時が止まっているようなこの村ではこうした夫婦関係はそれほど珍しくはなかったのだが、弟夫婦の場合は、それが際立っていた。
耀子自身は、独身を義務づけられた日女《ひるめ》の宿命として、この年になるまで一度も嫁いだことはなかったが、こんな妻とは名ばかりの生活にひたすら耐えているように見える義妹に対して、同じ女として、密《ひそ》かに同情めいた気持ちを抱いていたのである。
聖二は、どういうわけか、姉である自分には何かと気を遣ってくれる。日女という身分であることや、子供の頃からあまり身体が丈夫ではなかったことを知っているせいか、鼻風邪を引いた程度のことでも、必ず、気にして様子を見に来てくれる。
それなのに、妻にたいしては、姉に示す思い遣《や》りの半分も見せることはなかった。
これまでにも、幾度となく、わたしはいいから美奈代にもう少し気を遣ってやれということを、遠回しながら弟に訴えてきたつもりだが、そのたびに聞く耳もたぬという態度をされ続けてきた。
そんな弟が、こんなことを言い出すとは……。
弟も四十代後半という年齢にさしかかって、ようやく、その人柄に少し人間味というか丸みが出てきたということなのだろうか。
それとも……。
耀子は思った。
聖二のこの心境の変化、妻に対する態度の軟化ともいうべき変化は、もしかしたら、甥《おい》の武の影響によるものではないか。
聞くところによると、これまでは美奈代の日課だった薪《まき》割りを、武が、「女には無理だから」と言って代わってやったそうで、武にしてみれば、叔母に優しくするというより、たんに薪割りそのものが珍しくてやりたかっただけなのかもしれないが、こうしたちょっとした気遣いが、美奈代にはよほど嬉しかったようだ。
そのせいか、これまでは年齢よりも老け込み、いつもどこか鬱《うつ》ぎみに見えた義妹が少し若返り明るくなったようにさえ見えた。
武が来てからの妻の変化に弟も気づいたはずで、それを見て、彼なりに何か思うところがあったのではないか。
二週間足らずの間に、武が此の家の人間、とりわけ耀子自身を含めた女子供に与えた影響は大きい。しかし、その影響力は、女子供だけでなく、聖二のような一家の主人、それも他人の影響など容易に受けつけそうにもない鉄壁か巌《いわお》のような男にさえも微妙に及んでいたようだ。
武の身体に突然変異のように「お印」に似た蛇紋が出て以来、「大神の意志を継ぐ日子《ひこ》になるための教育を施さなければ」と言っていた聖二自身が、知らぬ間に、武の感化を受け、自らが背負った子に教えられたとでもいうか。
何はともあれ、悪いことではない……。
もし、このことを美奈代が知れば、どれほど喜ぶことだろう。そう思うと、耀子の気持ちまで浮き浮きしてきた。
「そういうことでしたら、後々まで残って、なるべくいつも身につけていられるものがいいと思いますね。着物などよりも、アクセサリー、例えば指環《ゆびわ》なんかが良いんじゃないかしら。十一月の誕生石をあしらった指環なんてどうでしょうか」
そう言うと、
「誕生石をあしらった指環ですか」
弟は、その案を吟味するように呟《つぶや》いていたが、
「そうですね。それがいいかもしれない。今度、上京したときにでも何か見つくろってきます」
と納得したように言い、これで用は済んだのかと思ったが、聖二はまだそこに立ち止まったまま、
「姉さん。もう一つご相談したいことが……」と、今度はやや難しい表情になって言った。