やはり、武は何も知らないのか……。
水枕を抱えたまま、武の部屋を足早に出ると、日美香は、ほっとしたように、大きなため息をついた。
何か感づいていたら、あんな風に無邪気にふるまえないだろう。
それにしても、どうして、急にあんな話を……。
実父のことをいきなり聞かれたときは、内心ドキリとした。あの子は何も知らないはずだと思っても、平静を装うのに苦労した。
「親父の隠し子が突然目の前に現れたら、やっぱり嫌だ……」
何げなく言った言葉だろうが、この言葉が鋭いナイフとなって、どれほど、わたしの胸を抉《えぐ》ったか。彼は毛筋ほども気づかなかったに違いない。
本当のことを打ち明けたら、やはり嫌われてしまうのか。
それに、口では「うざい」とか邪険なことばかり言っているが、内心では、やはり、母親のことをとても大事に思っているようだ。その母親を苦しめ傷つけるような事実は、彼は決して受け入れないだろう。
そう思うと急に胸が苦しくなった。
それで、あれ以上、平静を装って話を続ける気にはなれなくて、水枕を口実にして、慌てて部屋を出てきてしまった……。
ああ見えて意外に敏感なところがあるから、わたしの態度から何か不審なものを感じとらなければよいのだが。
彼には絶対に知られてはならない。異母姉《あね》だということは絶対に……。
日美香は、改めて、そう堅く決心した。
長い廊下をとぼとぼと歩いて、台所に入って行くと、流し場で洗い物をしていた美奈代が、人の気配に振り向いて、驚いた顔で咎《とが》めるように言った。
「日美香様。日女様が台所になんかお入りになってはいけません」
この家では、台所仕事をはじめとする家事労働は、一切、日女ではない女の仕事になっており、「男子、厨房《ちゆうぼう》にはいらず」という古臭い家訓に加えて、「日女、厨房に入らず」という神家独特の家訓さえあるようで、日美香も、ここに来たときから、台所には入るなと言われていた。
「武君の水枕がぬるくなっていたから、中の水を替えにきただけよ」
そう言って、水枕の古い水を流しに捨て、新しい水を入れ替えようとすると、
「そんなことはわたしがいたします。日女様のなさることじゃありません」
そう言われて、美奈代に水枕を取り上げられてしまった。
「武様の看病ならわたしがします。主人からそう言い付けられていますから。今も、お粥《かゆ》を作っていたところなんですよ」
美奈代は、日美香の手から奪い取った水枕の口に、幾分乱暴な仕草で水を注ぎこみながら、怒ったような口調でそう言った。
それは、日女を敬ってというよりも、自分のテリトリーを侵されて腹を立てているようにも見えた。
ふと見ると、近くのガス台には、一人分の土鍋《どなべ》がかけられ、ふつふつと煮えている。武に食べさせるお粥のようだ。
「でも……」
あの子の看病はわたしが自分の手でしたい。そう言いかけて、日美香は口をつぐんだ。なぜ、こんな気持ちになるのか分からない。
昨夜、武が突然高熱を出して寝込んだと聞かされたときは、自分でも驚くほど気が動転した。すぐに医者が呼ばれて、診察の結果、ただの風邪だと分かっても、朝方まで心配でよく眠れなかった。
大祭をあさってに控えて、もし、武の体調が戻らず、「三人衆」の役をできないようなことがあれば……。
それも心配だったが、とにかく、武の身体のことが心配だった。小さい頃は身体が弱くて病気がちだったと聞いているし、ただの風邪といっても油断はできない。手当が遅れれば、こじれて肺炎に至ることもあるだろうし、症状は風邪に似ていても、何か別の深刻な病気の前触れであることもありうる。こんな山深い田舎の医者に、ちょっと診ただけで、そこまで見分けられるのだろうか。
そんなことまで考えると、いてもたってもいられなくなって、誰に頼まれたわけでもないのに、様子を見に部屋を訪れたのだが……。異母弟《おとうと》なのだから、赤の他人ではないのだから、病気と聞けば気遣うのは当然の感情だろうが、それにしても、こんな、まるで我が子を案ずる母親のような気持ちになるとは……。
日美香自身、自分の中にまさに熱病のごとく生じたこの熱い感情にひどくとまどっていた。
こんな気持ち、今まで一度も味わったことがなかった。自分がまるで別人になってしまったような奇妙な感覚がした。
ただ、こんな気持ちになったのも、先日、聖二に言われた或《あ》ることが火種になっていたのかもしれない、と思った。
あれは一週間ほど前の夜のことだった。
この家に来てから、夕食後は、聖二の部屋に行って、その手ほどきを受けながら、神家の家伝書を読むのが日課になっていたのだが、その折り、家伝の中の一節に、「日甕《ひみか》」という見慣れない言葉が出てきたのである。
「日女は甕の中に蛇神を入れて育てる。この甕を日甕と言う」というような内容が記されていた。
この「日甕」という文字がなんと読むのか解らなくて、聖二に聞くと、それは「ひみか」と読み、「甕《みか》」とは、「器、壺」の意味だと教えてくれた。
そして、大昔、日女たちは、この甕に小蛇を入れ、この中で蛇を育て、蛇の成長に併せて、甕の大きさを替えていったというのである。
「……それは、ちょうど植物を育てるときに、最初の苗は小さな鉢で育て、苗が成長するにつれて、より大きな鉢に植え替えるようなもので、日女たちは、蛇を入れた神聖な甕を管理しており、それが太陽|祭祀《さいし》ともかかわっていたことから、こうした甕を持つ巫女のことを『日甕』とも言うようになった。あの邪馬台国《やまたいこく》の女王『ヒミコ』の名前も、この『日甕』から転化したものであるとする説もある。各地から出土されている縄文系の土器に蛇の文様を象ったものが多いのは、それが蛇神を入れて育てる『日甕』であった証《あか》しである……云々《うんぬん》」
日美香は、そんな養父の説明を一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてて聞き入った。
字こそ違うが、奇しくも、自分の名前と同じ音をもつ、この「日甕」という呪文《じゆもん》めいた言葉に、まるで磁石に吸い付けられるように引き付けられたのだ。
「そういえば、あなたの名前はどなたがつけたんです?」
そのとき、聖二もそのことに気が付いたらしく、説明のさなかに、ふいに訊《たず》ねた。
詳しいことは知らないが、たぶん養母だと思うと日美香は答えた。ただ、あの養母が、「日甕」などという難しい言葉を知っていたとは到底思えないから、おそらく、実母の名前が「日登美」であったことから、単純に、「日」と「美」の二文字を取ってなんとなく付けたものにすぎないと思う。
そう答えると、
「名前を付けた葛原八重さんにはその気はなくても、何か人知を越えたところで、あなたの『日美香』という名前には、『日甕』の意味が込められているに違いない。つまり、あなたの本性は、その名の通り、蛇神を育てる神聖な器であるということだ。あなたがこの世に生まれてきた真の理由は、蛇神となるべき者を育てるためかもしれない……」
聖二は感慨深げにそんなことを言った。
蛇神となるべき者を育てる神聖な器。
それがわたしだというのだろうか。この幾分風変わりな名前にはそんな「宿命」が封じ込められていると……。
むろん、その蛇神となるべき者というのは、今度の大神祭で、その蛇神の御霊《みたま》をおろされる異母弟の武であることは間違いない。
しかも、聖二は続けてこうも言った。
「蛇の成長の度合いは、その甕の大きさによって決まる。小さい甕には小さな蛇しか育たないし、より大きな蛇になるためには、甕そのものが大きくなければ……」
そんな比喩《ひゆ》めいた言い方で、武を大きく育てるには、いずれはその妻となる日美香がまず成長しなければならない。武がどのくらい大きな男になれるかどうかは、その器たる日美香自身の器量にかかっている……と暗に教えているようにも聞こえた。
武をこれから育てるのはわたしだ。それがわたしがこの世に生まれてきた理由……。
養父のあの言葉を聞いた瞬間、まさにあの瞬間、日美香の身体の奥深くに眠っていた、まだ青い果実のような母性が、突如として目覚めた瞬間でもあった。
「……やっぱり、これはわたしが持っていくわ。あの子の看病はわたしがします」
あのときのことを思い出して、我にかえると、水を入れ替えた水枕の表面をタオルで丹念に拭《ぬぐ》っていた美奈代の手から、再び水枕を取り戻そうとした。
「いいえ、いけません!」
しかし、美奈代は意外に頑強だった。持った水枕を離そうとはしない。
「もし、看病なんかして、風邪をうつされたらどうされます? あなたは、今年の『神迎えの神事』の日女役に選ばれているのですよ? 七年に一度という大事な大祭を間近に控えて、あなたまで倒れるようなことがあったら大変です。そんなことになったら、このわたしが主人に叱《しか》られます」
「……」
「お願いですから、武様の看病はわたしに任せてください。わたしなら、何人も子供を育てて、こういうことには慣れていますから」
最後は哀願するように言われて、日美香は渋々、水枕に添えていた手を離した。
少し頭を冷やして冷静になってみると、美奈代の言う通りだった。矢部良晴からうつされたらしい風邪の菌が、今度は自分にうつらないとも限らない。それに、いくら感情的に気負ってみても、いざとなると、何をどうしてよいのかも分からない。
これだけの大所帯で、小さな子供を何人もつつがなく育ててきた美奈代なら、手際よく看病もできるだろう……。
武のためにも、ここは美奈代の意見をいれて引き下がるしかなかった。
「それから、武様のご病気が完全に治るまで、あの部屋にはお近づきにならない方がいいと思いますよ」
美奈代のそんな言葉を背中に受けながら、日美香はすごすごと台所を後にした。