「武を傷つける?」
聖二は姉の言葉に少し気色ばんだ。
「このやり方のどこが武を傷つけるとおっしゃるのですか」
ふいに怒りを感じたのは、姉の言葉に何らかの真実を感じ取ったせいかもしれなかった。 痛いところを突かれたとでもいう……。
「肝心なことは何も知らせないで、成り行きにまかせるというあなたのやり方は、武さんの人格を無視しているというか、子供扱いしすぎているように見えます」
「……」
「わたしもあの子は見かけほど単純ではないと思っています。それと同時に見かけほど子供でもないと。マクベスの魔女風にいうならば、子供は大人、大人は子供……ですからね」
耀子はそんな謎めいた事を口にした。
子供は大人、大人は子供……?
子供に見えても大人で、大人に見えても子供ということか?
前者が武のことを暗に指しているのは分かるが、後者は一体誰のことを指しているんだ……?
どうもこの姉の言うことはいつも謎めいて曖昧《あいまい》で暗示的で……。
「それに、とても自尊心が強い子にも見えます。あの子がこれまで貴明さんと何かと衝突したのは、貴明さんがあの子の自尊心や人格を無視して、頭ごなしに上から押さえ付けようとしたからではないでしょうか。それに反して、叔父であるあなたの方に父親以上に心を開いたのは、あなたがあの子と同じ目線にたって、色々話を聞いてやったり相談に乗ってやったりしたからではないのですか……?」
「……」
「でも、今あなたがしようとしていることは、貴明さんのやり口と似ているような気がします。頭ごなしに押さえ付けるというのではないにしても、相手の人格を無視して、ご自分の望む方向に無理やり進ませようとしているように見えます。わたしには、あの子はそういうやり方を最も嫌うような気がしてならないのです。今度のことで、たとえ事が成就しても、あの子がこれまであなたに対して抱いていた信頼をなくし、心を閉ざすようなことにならなければいいのですけれどね……」
「武に明日の神事のことを全て打ち明けた方がいいとおっしゃるのですか」
「そうです。子供扱いせずに、同じお印をもつ日子として対等に接した方がいいのではないでしょうか。日美香さんに対しては、性別も年齢差も越えて、あなたはそうしているではありませんか。それなら、武さんにだって。あの役を本人が承知の上で納得して引き受けるのと、何も知らないままやらされるのとでは、後々の結果が大きく違ってくるような気がしますが……」
迷うところだが、姉の言うことにも一理ある。
時には耳に痛く、無性に向かっ腹がたつことも言われたが、この姉の助言が的外れだったことは今まで一度もない。
「まあ、もうこんな時間……」
耀子は棚の上の置き時計を見ると、驚いたように言った。
「さて、わたしもそろそろお部屋に引き上げるとしますか」
そう呟《つぶや》くと、盆を持って立ち上がりかけた。
「あれ。朝まで飲み明かすんじゃなかったんですか」
「そのつもりでしたけど、なんだか急に眠くなってきました。もう休みます」
「なんだ。久しぶりに姉さんと呑み比べでもしようと思っていたのに、残念だな」
「またそんな心にもないことを。口うるさいのがいなくなればせいせいすると思っているくせに」
耀子はそう言って笑った。
「いつもあなたのすることに異ばかり唱えて、さぞ小うるさい女だと思っているかもしれませんが、この際だからはっきりと申し上げておきます。わたしがあえて異を唱えるのも、あなたのことを誰よりも案じているからなんですよ」
耀子はいつになく真顔になって言った。
「この村には、あなたの逆鱗《げきりん》に触れるのを恐れてか、心のうちでは不満に思っていても、表立って意見する者も反対する者もいません。せめて、最年長のご住職がその任を引き受けてくれたらと思うのですが、ご住職ですら、何から何まであなたの言いなりですものね」
耀子は嘆くように首を振った。
「一人くらいはお手打ち覚悟で物申すような命知らずがおそばにいてもいいではありませんか」
「お手打ちとはまた古めかしいことを」
「あら。だって、あなたが本気で怒ったら、家宝の刀でも持ち出してきて、鞘《さや》払いかねませんもの。意見する方も命懸けなんですよ」
「……」
物部《もののべ》のシンボルの一つに剣がある。
そのせいか、神家の蔵には、古くは、祭り用に使う弥生《やよい》期の銅剣から江戸期に作られた名刀まで、あの中からお手打ち用を選ぶとすれば、どれにしようかと半日迷うくらい夥《おびただ》しい数の刀剣が保管されていた。
寺の方に預けてあるものも含めれば、ちょっとした博物館並の数だった。
聖二の寝室にも、床守りとして、曾祖父《そうそふ》がとりわけ愛したという一振りの日本刀が飾ってある。
その気になれば、いつでも手に取れる凶器に囲まれて暮らしているようなものだから、姉の言うことも決して大袈裟《おおげさ》ではなかった。しかも、もし、あの刀剣のどれかで家人の誰かを斬り捨てたとしても、それが犯罪として表沙汰《おもてざた》になることはまずあるまい。
「でも、わたしはそんなもの、これっぽっちも怖くありませんけどね。お印のある日子様だろうが生き神様であろうが、言いたいことは腹蔵なく言わせてもらいます。誰のためでもなく、あなた自身のために。わたしにとっては、あなたは、いつまでたっても、一つ下の弟でしかないんですから」
「姉さん……」
「緋佐子様の帰りを待って、日が暮れるまで一の鳥居のそばから離れなかった幼いあなたのあの後ろ姿が、わたしの記憶から完全に消えてしまわない限り、あなたはわたしにとって永遠に小さな弟でしかないんです……」
耀子は戸口の方に向かいながら、独り言のようにそう言った。
姉はそれさえも知っていたのか。
母が生まれたばかりの妹だけを連れて忽然《こつぜん》と姿を消した後、いつか帰ってくるのではないかと思い、それが今日か明日かと、一の鳥居のそばでじっと待っていたことを。
そんなたった一人きりの虚しい儀式を七、八歳のころまで、雨の日も風の日も雪の日も、毎日のように続けていたことを。
そういえば……。
あたりが暗くなるまで鳥居のそばにいると、心配して迎えに来たのはいつも姉だった。姉は何も聞かず、「さあ、帰ろう」というように手を差し出しただけだったが、幼い弟がなぜ、こんなことを毎日繰り返しているのか、その理由が子供心にもなんとなく分かっていたのだろう。
あのときの姉の手のぬくもりを覚えている限り、たとえ、この先、姉が何を言い何をしでかしたところで、そのことで自分が怒り心頭に発したとしても、この姉を手にかけるなんてことは絶対にありえない。
ほかの人間ならいざ知らず……。
「それと聖二さん」
襖《ふすま》を開けながら、振り返って耀子が言った。
「もう一度言いますが、そんなやけ酒でも呷るような呑み方はおやめなさい。本当に身体に毒ですよ」
「やけ酒?」
聖二は心外という顔をした。
冷や酒は呑んでいるが、やけ酒など呑んではいない。めでたい祭りの夜に、なんでやけ酒なんか。なにもかもが思惑通りに順調に進んでいる。密《ひそ》かに祝杯こそあげ、やけ酒など呷る理由がないではないか。
何もかも見透かしたような顔でおかしなことを言う人だ……。
聖二は戸口に立った姉をそう思いながら見返していた。
とはいえ、今夜は妙に気が沈み、祭り用に特別に造られた極上の酒が、いくら呑んでも酔わず、少しも美味《うま》く感じられないのは事実だったが……。
「お酒はもっと楽しく呑むものですよ。そんな哀しそうな顔でお酒を呑むのは、娘を嫁がせる前夜の父親くらいのものでしょうに」
姉はそんなこと言い残して、部屋を出て行った。
娘を嫁がせる前夜の父親……。
姉がさらりと言い捨てていった言葉に、思いの外、ドキリとするものがあった。
そうだ。
なにがこんなに気が滅入《めい》るかといえば……。
明日のことを考えると、なぜかひどく気が滅入ってくる。
妙だ……。
自らがお膳立《ぜんだ》てし、自らが若い二人の背中を押すようにして近づけておきながら、あの二人が互いを意識しあい好意をもちあい、ようやく事が成就しようという直前になって、自分のしたことに満足するどころか、まるで後悔でもしているように、こんなに胸の奥がきりきりと痛むとは……。
こんな気持ちは、愛娘を嫁がせる前夜の父親の心境に似ているかもしれない。それがどれほどの玉の輿《こし》だと分かっていても、どこか手放しでは喜べない複雑な心境に……。
ただ、これは果たして「父親」としての感傷なのだろうか。
ふとそんな思いが頭をよぎった。
何か別の感情が密かに交じっているような気もする……。
養父《ちち》としてではなく……。
いや、たぶん、これは一夜限りの感傷だ。二三日もすれば奇麗に忘れてしまうような……。
聖二は自分の脳裏を支配しかけたつまらぬ感傷を振り払うように、まだ少し中身の入ったコップを音をたてて卓の上に置くと、いきなり立ち上がった。
それよりも……。
姉に言われたことが気になっていた。
武に明日のことを包み隠さず打ち明けておいた方がいいという……。
耀子の考えの方が正しいかもしれない。
確かに、少し彼を子供扱いしすぎていたようだ。どうも庭で近所の小学生とじゃれあっている姿を見ていると、まだまだ子供だ、とても対等に話せる相手ではないと思ってしまったのだが、これは自分の心得違いだったかもしれない。
今朝の「御霊降《みたまふ》り神事」にしても、直前までやる気のなさそうな顔をしていたから、作法どおりにできるのかと内心はらはらしていたのだが、いざ神事がはじまると、その顔付きはがらりと変わって引き締まり、予想していたよりも遥《はる》かに立派にやってのけたではないか。
だとしたら、いまさら何を知ったところで、それで突然役をおりるなど幼稚な事は言い出さないのではないか。それくらいの責任感と自覚はもっていると考えてもよさそうだ。
それならば……。
今からでも遅くない。まだ起きているならば、全て打ち明けておこう。
そう思いついたのである。
部屋を出て、忍びやかに廊下を歩き、武の部屋の前までくると、聖二は襖《ふすま》をコンコンと叩《たた》き、名前を呼んだ。
返事がない。二度ほどノックしたあと、そうっと襖を開けて見ると、部屋の明かりは全て消され、中央の布団が人が寝ているように盛り上がっていた。
「武……」
もう一度呼んでみたが、横たわった人影は起きる兆しを見せなかった。
眠ってしまったのか。
眠っているのをあえて叩き起こすこともあるまい。
まあ、いいか……。
起きていたら話そうと思ってきたが、もう寝ているならば仕方がない。
そう思い直すと、聖二は、そっと襖を閉めた。そして、来たときと同じ忍び足で廊下を引き返した。
その遠ざかる叔父の足音を、武は、頭の半ばまですっぽり布団をかぶった姿勢で、闇の中で目だけ光らせて聴いていた。