「どうして……あなたがここに? 武はどうしたの」
混乱しながらもそう聞くと、
「武様に頼まれたんです。体調があまり良くないから、後は代わってくれって」
郁馬はようやく口をきいた。どこか開き直ったようなふてぶてしい態度だった。
「体調が良くないって……途中で気分でも悪くなったの?」
郁馬の言い訳にあまり真実味を感じなかったが、武が病み上がりであることは事実だから、つい心配になって聞くと、
「そのようです。あまり顔色が良くなかったところをみると、また熱でも出たのかもしれません。これ以上続けるのはしんどい、どこかで休みたいとおっしゃって……」
郁馬はそう言った。顔付きは神妙だが、その口調はどこか口先だけのような空々しい感じがする。
「だからといって、簡単に交替できるような役でないことくらい、神官であるあなたなら誰よりもご存じのはずでしょう?」
「……僕も武様にそう言って一度はお断りしたんですが、どうしてもときかないんですよ。大役を最後までやり通したように見せたい、途中で放棄したように思われたくないからと言い張られて……」
日美香はそう嘯《うそぶ》く郁馬の顔をじっと見ていた。本当に武がそんなことを言ったのか。疑問だった。儀式が終わってしまえば、大神役の青年は仮面を取る。そうすれば、それが誰であるかすぐに分かってしまうではないか。
「どういう事情であれ、この役は武以外の人間には出来ません。儀式は中止です。あなたも蓑笠を脱いで、すぐにここを出て行きなさい」
立ち尽くしたまま、そう命じた。
すべてが完了するまで脱いではならないとされている「三人衆」の蛇面を自ら剥ぎ取ってしまい、儀式中は終始無言という決まりも破ってしまった今となっては、この神事はこの段階で完全に失敗に終わった。それだけは間違いない。
これ以上、ここで郁馬と押し問答をしても仕方がなかった。だから、「出て行け」と命じたのだが、郁馬は俯《うつむ》いたまま、一向に動く気配を見せなかった。
「聞こえないの。出て行けと言っているのよ」
怒りにまかせて、少し声を荒げてそう言うと、郁馬はふいに顔を上げた。その端正な口元には薄笑いが浮かんでいた。
「べつにいいじゃないですか。何も儀式を中止しなくても。このまま続ければ……」
「このまま続ける? 何を馬鹿なことを言ってるの? そんなことができるわけがないじゃないの!」
日美香は怒りよりも驚いて、郁馬の顔をまじまじと見返した。正気で言っているのか。郁馬の方も、もはや腹を決めたという顔で、昂然《こうぜん》とこちらを見返している。
いつもの郁馬とどこかが違っていた。日美香が知っている快活で人好きのする好青年の郁馬とは……。
まるで顔だけ同じ別人のようだ。
「武様とは人目のないところでこっそり入れ替わりましたから、僕たちさえ黙っていれば、誰にも気づかれませんよ。儀式が終わるまでは、武様も誰にも見つからないようにどこかに隠れているでしょうし。二十年前のときのようにね……」
薄笑いを浮かべたまま、そんなことを言い出した。
二十年前って……。
「二十年前の大祭にも、同じことがあったそうですね。この役に選ばれていた今の村長がある人物に直前に頼まれて、こっそり役をすり替わったことが。その人物はこの役をやる資格がなかったというのに。あのときは、聖二兄さんも前以て知っていたらしいが」
「あなた、それを誰から……?」
どうして郁馬があのことを知っているのだ。聖二に聞いたのか。それとも……。
「誰からでもいいじゃないですか。僕も二十年前にそんなことがあったとは全く知らなかったから、聞かされたときは驚きました。でも、これで、一つだけ分かったことがあります。この神事については、幾つか守らなければならない掟《おきて》があるけれど、そんなものは破ったところで、大神の怒りに触れるわけでも祟《たた》りにあうわけでもないってことですよ。だって、もし、そうならば、二十年前に掟を破ったその人物は今ごろ、大神の怒りにふれてどうにかなっているはずでしょう? 惨死するとかさ。それがどうです? 惨死どころか、その年の選挙には初出馬で見事当選、その後も順風満帆、今では、次期総理などと噂されて大出世もいいとこだ。祟りのたの字も被っていないじゃないか。掟なんて関係ないんですよ。守ろうが破ろうが。だから、日女の子である僕でも、この役をやったところで、大神の怒りに触れるなんてことはありえないんです」
「……もう一度言います。すぐにここを出て行きなさい。今、素直に出ていけば、あなたがここでしたことしゃべったことは、お養父《とう》さんには一切報告しません。わたしの胸に収めてあげます。だから、出て行きなさい」
日美香は、静かに、しかし、厳しく言い放った。
それでも、郁馬はひるむ様子がない。相変わらず口元に薄笑いを浮かべたまま、どこか人を小馬鹿にしたような顔つきで、日美香の顔を見上げている。
「どうやら急に耳が不自由になったようね。もう一度だけ言うわ。これが最後よ。出て行きなさい。そうしないと大声で人を呼びます。社務所にはまだ人が残っているはずです。わたしが大声を出せば、誰か駆けつけてきます。そうなってからでは遅いわよ」
「仕方ないですね」
郁馬はわざとらしいため息をもらすと、ようやく立ち上がるそぶりを見せた。
「そんな堅苦しい事言わずに、あなたも適当に楽しめばいいのに……」
そう呟《つぶや》きながら。
「神事だとか儀式だとか物々しいこと言っているけど、こんなのはただのレクリエーションじゃないですか。ほかに楽しみなんて何もない山奥に住む男たちに、年に一度だけ与えてやる娯楽みたいなもんですよ。神家はこうやって、長い間、弄《あめ》と鞭《むち》を使い分けて、この村を牛耳ってきたんだ。日女なんて、日ごろは女神のように敬われ大切にされているけれど、要は、年に一度、祭り用の接待に使われる娼妓《しようぎ》みたいなもんじゃないか。家事労働を一切させずに大事にしているのだって、変に糠味噌《ぬかみそ》臭くなったり、手にアカギレなんか作られたら、男の方がシラケるからだよ。神妻でございなんてお高くとまっているが、その実態は、特定の夫をもつことも許されず、複数の男の相手をするのが商売みたいな、生まれついての売春婦——」
郁馬の片頬に日美香の平手打ちが炸裂《さくれつ》した。
「そりゃ、あなたはお印があるということで、ほかの日女とは違うかもしれないけれど……」
郁馬は打たれた頬を撫《な》でながら、なおも口を歪《ゆが》め、独り言のように続けた。
「でも、武もちょっと変わってるよな。こんなおいしい役を自分からおりるなんてさ。未経験の純情坊やってわけでもあるまいに、もっと気楽に楽しみゃいいものを。もっとも、相手が腹違いの姉だと知ったら、そんな気にもならないか」
武が……。
わたしを異母姉《あね》だと知っている?
日美香の全身を衝撃が襲った。
一体、誰がそのことを武に……。
「僕はあなたのお相手としてそんなに不満ですかね? これでも、学生の頃は女の子にはもてた方なんだけどな。武のような青臭いガキよりよっぽどましだと思うんだが」
「早く出て行って。本当に人を呼ぶわよ」
「人を呼ばれて騒ぎになるのはみっともないし、こっちにもプライドはあるから、仰せの通り出て行きますが」
郁馬は薄笑いを消した真顔で、身につけていた蓑笠《みのかさ》を脱ぎ捨てると、床に叩《たた》きつけながら言った。
「これで、あなたとのお約束も果たせなくなりそうで残念です」
「……約束?」
日美香はぎょっとしたように聞き返した。
「どうしても出て行けとおっしゃるなら出て行きます。そして、ここを出た足で、兄のところに行って、武に頼まれて馬鹿なことをしてしまったと涙ながらに懴悔《ざんげ》したあと、実は、あなたにも頼まれて、今まで隠していたことがあると打ち明けます」
「……」
「あなたの妹さんのことですよ。照屋火呂のことです。全部、兄に打ち明けます。それでもいいんですよね……?」