蛇面を被り、全身を蓑笠ですっぽりと覆っている。
その人物は無言のまま入ってくると、作法どおり、日美香の前に座った。仮面も蓑笠も身につけたままだ。この段階ではまだ脱がない。儀式がすべて終わったところで脱ぐことになっていた。仮面も蓑笠も「神」の証《あか》しであり、これを身につけている限り、大神の化身とみなされるからである。
しかも、儀式の間中、大神役の青年は一切口をきいてはならない。終始無言である。口がきけるのは、やはり仮面と蓑笠を脱いだあとであった。
日美香は、酒の準備をしながら、なんとなく奇妙な違和感のようなものを感じていた。
何かが変だ。
何がどう変なのかは分からないが……。
そんな妙な気分のまま、目の前の酒の瓶を、器を手にした青年の前に差し出した。それを傾け、器に酒を注ぐ。青年は、それを口元までもっていった。仮面の口元は、そこから飲み食いができるように穴が開いている。
青年は酒に口をつけるような仕草をすると、すぐにそれを元に戻した。酒を飲むといっても、がぶがぶと飲み干すわけではなく、僅《わず》かに口に含むだけである。
器を元に戻すとき、青年の右の手のひらがちらと見えた。
それを何げなく見た日美香ははっとした。
おかしい。
手のひらに傷痕《きずあと》がない。
武なら右の手のひらに傷があるはずだ。例の猟奇事件の犯人につけられたという刃物傷が……。
それがないということは……。
今、仮面と蓑笠《みのかさ》をつけて目の前にいる人物は武ではないのか?
日美香は目の前の人物を凝視した。
この男が入ってきたときに感じた違和感の正体が分かった。
背の高さが違うのだ。
武よりも少し低い。
身体つきそのものはそんなに違ってはいないが、背丈が若干低いのだ。
そういえば……。
戸口の敷居をまたぎこすとき、この男は、首をかしげなかった。最初にこの小屋に来たとき、武は、鴨居に頭をぶつけないように少し首をかしげるようにして出て行ったのに。それが帰ってきたときはそうしなかった。すっとそのまま入ってきた。
それを見て、違和感をおぼえたに違いなかった。
「……あなた、誰?」
日美香は囁《ささや》くように聞いた。
神迎えの日女《ひるめ》役も儀式中は口をきいてはならない決まりがあるのだが、そんなことはどうでもよかった。
目の前の男は黙っている。
しかし、誰何《すいか》されて、明らかに動揺したような様子を見せていた。
「あなた、武じゃないでしょう? 誰なの?」
そう聞いても、相手はまだ押し黙っていた。「武ならここに傷があるはずだわ」
日美香はいきなり相手の右手首をつかむと、その手のひらを上に向けた。
相手は動揺しながらも、されるがままになっていた。
「蛇面を取りなさい」
そう命じても、まだ無言のままかたまっている。
日美香はすっと立ち上がると、両手で無理やり男の顔を覆っていた蛇面を剥《は》ぎ取った。
男は最初こそ少し抵抗するようなそぶりを見せたが、あとはあきらめたようになすがままだった。
蛇面の下から現れた顔を見て、日美香は驚いたように言った。
「郁馬……さん」
目の前に、ややふてくされたような表情で座っていたのは、神郁馬だった。