「おそらく……」
銃をかまえたまま日美香は言った。
「あなたがこのまま村を出ても、何も起こりはしないでしょうね。運がよければ、どこかで小さな地震か台風が起きるくらい。大神の祟りだとこじつけられる程度のささやかな災害がね。でも、それすらも起きないかもしれない。そうなることを恐れているのよ。だから、あなたを外に出すわけにはいかない。この銃で撃ってでも止めるつもりよ」
「なぜだ……?」
武は、わけが分からないという顔をした。
「なぜ、何も起きないことを恐れるんだよ……?」
「それは、さっき、あなたが自分で言ったじゃない」
「俺が……?」
「おぼえてないの? 玄関を出るときに。もし、あなたがこのまま外に出ても、何も起きなければ、祟り神なんて存在しないことが明らかになって、神家の存在意義も権威もがた落ちになるって……」
「……」
「その通りよ。千年以上にもわたって、あの家が村を牛耳ってこれたのも、村民の篤《あつ》い信仰を得てきたのも、すべて、神家が、祟り神たる大神の直系の子孫で、恐ろしい威力をもつ神を鎮める力をもっていると信じられてきたからよ。あなたの言うところの無知蒙昧な人々に……。
でも、もし、ここで、あなたが外に出て、祟り神なんていないということを証明してしまえば、神家が千年以上もこの村にかけてきた呪縛《じゆばく》が解けてしまう。大神の直系の子孫としての権威を失い、大神をこの村に封印して日々祭り上げることが日本という国を救う行為だと信じてきた人々の信頼を失い、村民を一つに結び付けていた共通の使命感、共同幻想が消えてしまう……。
そうなれば、今まで大神の威力と存在を信じて、何世代にもわたり、この村に留まり続けてきた人々も、ここを捨て、もっと住みやすい町中に移ってしまうでしょう。やがて、ここはただの山奥の過疎の村に成り下がるのよ。時代に忘れられ、人々に捨てられ、半ば朽ち果てたような村に……。
そんな事態になることだけはどうしても避けたかった。神家の存在意義を無にすることはできない。その権威を失墜させることはできない。いいえ、神家というより、その神家の中心にいる人の当主としての地位と権威を失墜させることはできないのよ。それだけは絶対に守らなければ……」
「そうか。あなたが守りたいのは」
武は何かに気づいたように呟《つぶや》いた。
「この村でもあの家でもなく、叔父さんなのか」
「とにかく、今日のところはお願いだから戻ってちょうだい」
日美香は厳しい口調を急に改め哀願するように言った。
「田舎生活に飽きたなんて嘘でしょう? 本当は昨夜の神事のことで腹をたててるんでしょう?」
「……」
「あなたが怒る気持ちも分からないわけじゃないし、あとでそのことはちゃんと説明するから、今ここで、これ以上駄々っ子みたいなことはしないで」
「……」
「そんなに帰りたければ、祭りが終わってから堂々と帰ればいいじゃないの。だったら、誰も止めやしないわ。あと少しの辛抱よ。そんな我慢さえもできないの? あなたはそんなに子供なの?」
「……」
「ここまで言ってもまだ帰るというなら」
日美香は銃をかまえ直して言った。
「わたしは本当に引き金を引くわよ。ためらわずに撃つわ。一応、足をねらうけど、銃なんて撃ったことがないから、手元が狂って、心臓に命中しないとも限らない」
「……」
武はしばらく思案するように、首をめぐらして、鳥居の向こうの、さんさんと朝日のあたるのどかな外の世界をしばし眺め、そして、自分に銃口を向けている女の方に視線を戻してから、ふっと苦笑いのように笑った。
「わかった。わかりました。戻るよ。戻ればいいんだろ。鳥居を出たら、まじで撃たれそうだ」
足元におろしていたボストンバッグを取り上げながら、
「あんた、あのときの女と同じ目してるもんな……」と言った。
「あのときの女?」
「俺を刺した女だよ」
ああ、あの猟奇殺人の犯人……と日美香は思い出した。
「あんときも親父のマンションから帰ろうとしたら、待てと言ってナイフでいきなり腹刺しやがった。今度は猟銃で土手っ腹に風穴かよ。俺って、怖い女に襲われる星の下にでも生まれついたのかな……」
そんなことをぼやくように呟いたあと、「神家の権威を守るとかいう言い草がチョーむかつくけど、まあ、いいや。叔父さんには何かと世話になったし、今日のところはあんたのその気迫に免じてひとまず折れるよ」
そう言い捨て、元来た参道をのろのろとした足取りで引き返しはじめた。
その片腕に日美香は素早く自分の片腕を回してからませた。それは、恋人同士が仲むつまじく腕を組むというより、女看守が脱走犯をがっちり捕まえたとでもいうような格好だった。
そんな格好のまま、三差路のあたりまで来ると、神家の方角から、聖二と老猟師、さらに数人の神家の男たちがあたふたとやってくるのが見えた。
「……無事だったか」
腕を組むようにして戻ってきた二人を見るなり、聖二は心底ほっとしたように言った。
門前で、神家に御山の獲物をよく届けてくれる権爺《ごんじい》と呼ばれる老猟師から、持っていた猟銃を日美香に奪われたと聞かされた直後、あたりに響き渡った不穏な銃声の音に、ついに流血騒ぎかと最悪なことを考えながら駆けつけて来たのだが……。
見たところ、武にも日美香にも怪我はないようだった。
銃声は威嚇《いかく》射撃にすぎなかったらしい。
「お騒がせしました。玄関ではあんなこと言ったけど、もう少し、ここにいることにしたよ。祭りが終わるまでだけど」
叔父を見ると、武は少しばつが悪そうな顔でそう言った。
「全く朝っぱらから騒動おこしやがって。一暴れして腹がへっただろう?」
「うん、へった」
武は悪びれもせずに答えた。
「早く朝飯食べて来い」
聖二は、甥《おい》の肩を拳《こぶし》で一つ叩《たた》くと、家の方角に押しやった。