「待て。武!」
玄関を出て行った甥《おい》の後を追いかけるように、聖二は、白足袋のまま三和土に飛び降りようとした。
しかし、それを横合いから押しのけるようにして、いち早く三和土にヒラリと身軽に飛びおりたのは日美香だった。
「わたしが連れ戻してきます」
あぜんとしている人々を尻目《しりめ》に、そう一声残して、三和土にあったサンダルをつっかけると、日美香は武の後を追った。
サンダルを履くのに少し手間取ったせいか、外に出てみると、武は既に門を出ようとしていた。
「待ちなさい」
そう声をかけても、武は振り返ることもなく、大股《おおまた》でどんどん行ってしまう。
小走りに走って追っても、やはり男の足と女の足では差がついてしまった。
しかも、神家の門を出たところで、ちょうど中に入ってこようとした猟師姿の老人とぶつかりそうになった。
老人は肩に猟銃を引っかけ、山で仕留めたばかりらしい血だらけの二羽の野ウサギの耳をつかんでぶらさげていた。
「おぅ。これは、お嬢様、おはようございます。朝一番に御山で捕らえた獲物をお届けに参りました」
神家に出入りしている老猟師は、獲物を持ち上げて見せながら笑顔で言った。
「おじいさん。その猟銃、貸して」
しかし、日美香はウサギなどには目もくれず、猟師が肩からさげていた猟銃の方を見ながら、いきなり言った。
「えっ」
猟師はたまげたようにのけぞった。
「銃よ。早く貸して!」
日美香はもどかしそうに、猟銃に手をかけると、それを無理やり奪い取った。
「お、お嬢様……。あ、危ない。た、弾がまだ入っておりますだ」
「後で返すから」
そう言い残すと、日美香は猟銃を手にしたまま、武の後を追った。
老猟師は半分腰を抜かしたような有り様でそれをぼうぜんと見送っていた。
猟師とやり合っている間にも、武はだいぶ先を行ってしまったようだ。三差路に出る道筋には、もうその姿はなかった。
走って三差路まで行くと、ようやく、一の鳥居の方に向かう参道の中程に武の後ろ姿を見つけた。
「武。待ちなさい」
もう一度声をかけた。
それでも、少年は振り返りもせず、速足をゆるめようともしなかった。
このままでは、一の鳥居をくぐり抜けて、村を出てしまう……。
あの鳥居がこの村を封印する一つの結界の役目を果たしているはずだ。
もし、あそこから一歩でも外に出たら……。日美香は焦った。
「止まりなさい。止まらないと、撃つわよ」
大声でそう言って、猟銃をかまえると、威嚇《いかく》射撃をするように、銃口を空に向けて引き金を引いた。
ダーンと銃声が響き渡った。
驚いた野鳥が一斉に木々から飛びたったような慌ただしい羽ばたきの音。
その音と気配にさすがに驚いたように、少年の足が止まり、後ろを振り返った。
長い髪を振り乱した日美香がサンダルばきで猟銃をかまえ、硝煙の立ちのぼる銃口をこちらに真っすぐ向けて立っていた。
「鳥居を一歩でも出たら撃つわよ」
銃口を向けたまま叫んだ。
「……」
武は立ち止まったまま、振り返って、銃をかまえている女を見ていた。
「脅しじゃないわよ。こっちに戻ってきなさい」
日美香はなおも言った。
「撃てるものなら撃ってみろ」
武は、口元を歪《ゆが》めてそう吐き捨てると、またすたすたと鳥居に向かって歩きだした。
「本当に撃つわよ!」
日美香の叫ぶような声が聞こえた。
それでもかまわず歩き続けると、目の前に一の鳥居が見えてきた。
あともう一歩踏み出せば、一の鳥居を越えるというところまで来て、
「止まれ。イワレヒコ!」
突然、日美香の声が響いた。
今までとは声音が違っていた。
これまでの声が単なる脅しにすぎないとしたら、今背後から響いてきた声には、背筋を悪寒が這《は》い上るような殺気が籠《こ》もっていた。
日美香の声であって、日美香の声ではないような。
それに、「武」ではなくて「イワレヒコ」と呼んだ。
イワレヒコ……?
誰だ、イワレヒコって。
武の足が一の鳥居の真下でぴたりと止まった。
まるで、この「イワレヒコ」という謎の言葉が制止の呪文《じゆもん》ででもあったかのように、足は止まり、根が生えたように動かなくなった。振り返らずに立ち尽くしていると、背後に足音が近づいてきた。
ようやく振り返って見ると、猟銃を持った日美香が間近に迫っていた。
「……誰だよ、イワレヒコって」
さげていたボストンバッグをすとんと足元に落とし、武は聞いた。
「え……」
「あんた、今、俺のこと、イワレヒコって呼んだだろう?」
「……」
そういえば、咄嗟《とつさ》にそんな言葉が電光のように頭をよぎり、思わず口をついて出てしまった。
日美香は肩で息をしながら思った。
叫んだのは覚えていたが、それを叫んだのが果たして自分自身なのか、はっきりとしなかった。
それはちょうど、聖二の部屋で古い襤褸《ぼろ》人形を見せられたときのように、突然、自分の中で何かが炸裂《さくれつ》したように目覚めた感覚に似ていた。
前にもこんなことがあった。
遠い遠い……遠い遥《はる》か昔に同じようなことが……。
誰かの前に立ちはだかり、必死の思いで制止したことがあるような記憶が……。
わたしの記憶ではない。
これも祖母の記憶なのだろうか……。
「あんたも信じてるのか」
そんなことをぼんやりと考えていると、武が鋭く言った。
「え……」
「祟《たた》り神なんてものを。俺がこのまま村を出て東京に戻ったら、俺に憑《つ》いた祟り神が暴れだすと……?」
「……」
「田舎の無知|蒙昧《もうまい》な年寄りか子供ならともかく、一流大学薬学部に在学中の才女様までこんな迷信信じているのかよ」
「……信じてないわ」
日美香は低い声でそう答えた。
「祟り神なんて信じてないんだな?」
「ええ」
「だったら、なぜ、止めるんだ? このまま俺が帰ったところで何も起きるはずがない。そんな物騒なものちらつかせて止めるほどのことじゃないだろ」
「……わたしが恐れているのは」
日美香は武を見つめながら言った。
「あなたをこのまま帰して、外の世界で何かが起こることじゃないわ」
「……」
「恐れているのは」
日美香は静かに続けた。
「何も起こらないことよ」