さて、どうしたものか……。
日美香を部屋から追い出して、倒れた妻と寝室に二人きりになってしまうと、聖二は少し冷静になり、はたと考えこんだ。
この混乱しきった状況をどう処理したらいいものか。
さすがに途方に暮れる思いがした。
美奈代の死については、家の者も村の者も巧《うま》く言いくるめて、犯罪にせずにおさめることはできる。妻に少々不手際があったので斬り捨てたということにすればいい。ここではそれで通ってしまう。だが、先立つ問題は、この灯油と生血をぶちまけたような酷《ひど》い部屋の有り様をどうするかだ。
何から手をつけたらいいのか。
とりあえず……。
聖二はそれまで握っていた日本刀を放り出すと、妻の遺体にかがみこみ、その首筋に手を当ててみた。
死んだと思った妻の首には微《かす》かに脈があった。
まだ生きているのか……。
何の感情もなくそう思った。
今、人を呼べば助かるかもしれない。しかし、美奈代が助かると、何かと後々の処理が面倒になる。なぜ、このような凄惨《せいさん》な修羅場を招いたのか。それを家人や村の者にも知られてしまう恐れがある……。
それに、まだ脈があるとはいっても、この弱々しさでは、病院に着くまでとても持つまい。どちらにせよ、この女は助からない。
それならばこのまま……。
そう思ったとき、郁馬の顔が脳裏に浮かんだ。この状況を一人で片付けるのは無理だ。
郁馬だ。
こんなとき、郁馬なら自分の手となり足となり動いてくれるだろう。
今のところ、家人の起き出してくる物音や気配は感じられなかった。
聖二の部屋が広大な屋敷の南東の一翼を占めており、隣は無人の客室で、ほかの家人の部屋と離れているせいか、この騒動は誰にも聞かれなかったのかもしれない。
郁馬だけ起こして、事情を話し、ここの始末を手伝わせるか。
そう思いつくと、聖二は、妻の身体をまたぎ越すようにして、寝室を後にした。
そのとき……。
うつ伏せに倒れていた妻の両手がそろそろと動いて、まだ握ったままだったマッチとマッチ棒を、渾身《こんしん》の力をこめて擦り合わせようとしていることには全く気が付かなかった。
明かりがついたままの書斎を出て、しんと静まりかえった暗い廊下に出たときだった。
後にしてきた部屋の方から、ボッと何かが爆発したような音がしたかと思うと、部屋の方がぱっと明るくなった。きな臭い匂いがして、突然、火の手があがったような異様な赤さに照らし出された。
もしや……。
聖二は慌てて部屋に駆け戻った。
火の手は寝室の方からあがっていた。
煙も出ている。
美奈代が最後の力を振り絞って、手にしたマッチを擦り合わせ、火のついたマッチ棒を投げ捨てたのだ。それが灯油まみれになっていた寝室中に瞬く間に引火したに違いない。
しまった。
家伝書が……。
聖二は書斎の書棚に収めておいた数巻の家伝書の方を素早く見やった。
これを焼いてしまうわけにはいかない。
先祖代々、千年以上の長きにわたって子々孫々に伝えてきた大切なものだ。
この家の家宝だ。
これを自分の代で灰にしてしまうわけにはいかない。
火の手が書斎まで移る間に、なんとか外に出さなければ。
咄嗟《とつさ》にそう決心すると、書斎の窓を開け放ち、書棚の古文書を腕一杯にかき集めて抱えると、それを中庭めがめて、思いきり遠くに投げ捨てた。
そして、その窓から大声で「火事だ!」と叫んだ。
そのとき、背中を火で炙《あぶ》られるような熱さを感じ、振り向くと、そこに信じられない光景を見た。
全身を炎に包まれた人影が、よろよろとよろめきながら自分の方に突進してくる。
それが自らが放った火に生きながら焼かれようとしている妻の姿であることに気づくまで、聖二はそこに足に根が生えたように立ち尽くしていた。
「……渡さない。あんな小娘には渡さない。あなたはわたしだけのもの……」
髪の殆《ほとん》どが焼け落ち、全身が黒く焼け崩れた、もはや人間の姿をとどめていない妻は、そんな呟きを漏らしながら、抱擁でも求めるように両腕を前に突き出したまま、聖二の方に向かってきた。
こんな姿になってまで何故歩けるのか。
気力だけで動いているようだった。
髪や肉の焼け焦げる厭《いや》な臭いがあたり一面にたちこめた。
それに混ざる生血の臭い。
部屋を嘗《な》め尽くす紅《ぐ》蓮れんの炎の舌。
窓の外では暗かった窓に次々と明かりが灯《とも》り始めた。
廊下の方からは、起き出してきた家人の叫び声と慌ただしい足音が聞こえてくる。
それらを窓辺で立ち尽くしながら、見、聞き、嗅《か》ぎ、感じていた聖二の脳裏に爆発したような白い閃光《せんこう》が突如ひらめき、瞬時にして、過去の記憶が奔流のように蘇《よみがえ》った。
イワレヒコだ。
イワレヒコの軍がなだれこんできた。
館に火を放たれ、家人を殺され、火と血と煙に渦巻く阿鼻叫喚《あびきようかん》の地獄図。
ミカヤはどこだ?
義兄のナガスネヒコは?
聖二は思い出していた。
これまで封印されていた無数の記憶の扉が次々と開いていくように。
あるいは、所々かけ落ちていたジグソーパズルの断片が猛スピードで次々と埋まって行き、それまで漠然《ばくぜん》としていた巨大な絵柄が立ち現れてくるように。
思い出していた。
その昔、まだ神代と言われていた遥《はる》か遠い昔に、自分がニギハヤヒと呼ばれた物部の若き長《おさ》であったことを。
もともとは遥か西南の果ての土地に住んでいたのだが、当時、日本列島を襲った火山の噴火や大洪水などの大災害ゆえに、それまでの土地を捨て、幾人かの供を引き連れ、船で東に向かって逃げ伸びてきたことを。
河内を抜け、いつしか、大和の三輪山の麓《ふもと》に辿《たど》りついた。そこには、山の頂上に住むと言われている巨大な蛇を崇《あが》める母系の一族が既に住み着いていた。
首長はまだ年若い女だった。ミカヤと言う名の美しい男勝りの巫女《みこ》王だった。ナガスネヒコという兄がいて妹を助けていた。このミカヤと深く愛し合うようになり、婿のような形でこの一族の者になった。
そしてあの日……。
ミカヤとナガスネヒコと供の者数人を連れて、三輪山に狩りに出た。そこの頂上で、あの伝説の光る巨大な蛇を見た。いや、あれは蛇ではない。螺旋《らせん》の構造をもつ巨大な光る生命体だ。
その螺旋状の生命体の発する青紫色のまばゆい光を全身に浴びて、自分もミカヤも気を失った。
気が付いたとき、それはもうそこにはいなかった。少し遅れて追いついてきたナガスネヒコたちに介抱されて、意識を取り戻し、なんとか山をおりた。
やがて月日がたち……。
やはり西の方からやってきたイワレヒコの軍に侵略され……。
自分は炎上した館の中で落命した……。そうではない。死にはしなかった。肉体は敵の剣に貫かれて滅びたが、魂魄《こんぱく》は滅びなかった。
死を意識した瞬間、魂魄が空に飛んでいた。そして暁暗《ぎようあん》のような虚空を抜け、その空《くう》の果てに、光り輝く真珠のような一粒の珠を見た。その青く光る珠めがけて突進した。そこは、敵の手を逃れかろうじて生きのびた妻ミカヤの体内だった。闇の中で唯一の目印のように光っていた真珠のような珠とは、生まれてまもない受精卵だった。
イワレヒコに攻め込まれる何日も前に妻と睦み合い、妻の体内に形見のように残しておいた一粒の受精卵。その中に真っすぐ入り込んだのだ。卵はやがて芽となり児となった。母体の子宮に守られ、やがて、自らの妻を母に、自らを父として生まれ変わった。
そして、長じた後は、母から渡された自らの遺骨を亡父の遺骨として守り崇めるようになった。
大和に新しい体制を作り、そこの王となったイワレヒコの膝元《ひざもと》で、祭祀《さいし》と呪術《じゆじゆつ》の特殊能力を買われて、重臣としてつかえた。
いつのまにか、ニギハヤヒは部族の神祖と呼ばれて、あの三輪山の頂上に出現した光る蛇と同一視されるようになり、生き残った物部の中で「蛇神」として恐れられ、祀《まつ》られるようになっていた。
その祀りの中心にいたのがいつも神主たる自分だった。
私は……。
もはや数えることも不可能な、気の遠くなるような長い年月を、幾度となく肉体の衣を脱ぎ捨てることで生き続け、自らの魂と遺骨を守り祀ってきたのだ。
今、ようやく己の正体が分かった。
蛇神と呼ばれた者こそ、自分自身であったことを。
聖二は全てを思い出していた。
時がすぎて、蘇我氏との政争がきっかけで大和の物部は滅亡した。しかし、その最後の血を引く物部守屋の子として生まれ変わっていた自分は、数人の家臣とともに、大和を捨て諏訪をも抜け、この日の本村まで辿《たど》りついた。
その昔、住み慣れた西南の土地を捨て、船で大和に辿りついたときのように……。
そして、「お印」をもつ日子《ひこ》として何代にもわたって転生し続け、新しい山に葬った遺骨を守り続けてきた。
そんな自分を、ミカヤも同じように転生を繰り返しながら、ここまで追ってきたのだ。時には同時代に親子やきょうだいとして巡りあうこともあったが、互いの転生のタイミングがあわずに、幾時代も会うことができないこともあった。
まさに自分とミカヤは、悠久の年月を、互いに求め合い、交じり合い、時には遠く離れ、また求め合うということを繰り返してきた一対の絡み合う雄蛇と雌蛇だった。
始めも終わりもない虚空に、長大なしめ縄を縒《よ》り合わせるように、遥《はる》かなる太古から果てしない未来に向かって、これからもえんえんと途切れることなく続くであろう絡み合う二匹の神蛇……。
そんな長い回想を瞬く間の一瞬でなしおえたとき、聖二の目の前に、業火そのものと化した妻、いや妻だった者が迫っていた。
炎に包まれ黒く焼け崩れた者が差し出す両手の片方の指にギラギラと光る石を見た。
トパーズ。
皇帝《インペリアル》のトパーズ。
自分が与えた石だ。
二十年間の奉仕への感謝をこめて。
妻に贈った最高の誕生石。
待てよ。
聖二ははっとした。
確か、この石の意味は……。
火だ。
トパーズとは……。
サンスクリット語で「火」を意味しているのだ。
この石の力か。
古代インドの言葉で「火」を表す石が、太古の炎の魔力を秘めたこの石が、あれほど柔順だった妻をこんな狂ったような行動に駆り立てたのか。
今、最期《さいご》の抱擁を求めるように、執拗《しつよう》に迫ってくる人間|蝋燭《ろうそく》と化した女をここまで追い立てたのは、この石の力なのか?
そして、その石を与えたのがほかならぬ自分であるということは……。
そう思い至ったとき、聖二の脳裏で、ほぼ揃ったジグソーパズルの絵柄の中で、唯一欠けていた真ん中の小さな小さな一片がどこからか現れ、きっちりと嵌《は》まった。
絵が完成した。
はっきりとその絵柄が見えた。
聖二の顔に会心の笑みが浮かんだ。
こういうことだったのか。
あの家伝書の意味は……。
とすれば……。
全ては必然だ。
こうなることは既に定められていた。
もう逃げることはできない。
恐れることはない。
この宿命を受け入れなければ。
目前に迫った炎の抱擁を受け止めなければ。この祭りの……。
最後の贄《にえ》は自分だ。
そう悟った瞬間、
燃え盛る美奈代の身体はしっかりと夫を抱き締めた。
「つかまえた……」
そんな歓喜の声が焼けただれた女の唇から漏れたとき……。
二人はしっかりと抱き合ったまま、一本の太い火柱となって烈しく燃え上がった。