平成十一年、七月末の午後。
近隣の樹木から降り注ぐ蝉の声は姦《やかま》しく、どこかの軒下に吊《つ》るされた南部風鈴が時折ちりんちりんと涼しげな音色をたてている。
「……様」
誰かの呼ぶ声がした。
と同時に、肩に手を置かれ軽く揺さぶられるような感触。
日美香はうっすらと目を開けた。
目の前に、白い半袖シャツにスラックス姿の郁馬の姿があった。
「あ……。お帰りなさい」
日美香はあくびをして伸びをすると、長椅子から大儀そうに身を起こした。
廊下に長椅子を出し、それに寝そべって、ラジオの軽音楽を聴いているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
ほんの一時間ほどのうたた寝だったが、短い夢を見ていた。
その夢の余韻に身を浸しながら、
「……美里さんは?」
そう聞くと、
「居間の方にお通ししておきました」
郁馬は答えた。
昨夜、突然、新庄美里からこの村を訪ねたいという電話連絡が入ったのである。是非日美香と直接会って話したいことがあるのだという。それで、美里の予定を聞いて、郁馬に長野駅まで車で迎えに行かせたというわけだった。
「それと、これ、買ってきました」
郁馬は小脇に抱えていた四角い茶色の包みを開き、中から真新しい単行本を取り出すと、それを日美香に手渡した。
ついでに、市内の書店に寄って買ってきてくれと頼んでおいた新刊本だった。
「どうもありがとう」
日美香はそれを受け取ると、表紙を見た。タイトルは「太母神の神殿」。
沢地逸子著とある。
「ベストセラー本のコーナーに山積みされてましたよ、この本。前には、あそこにはノストラダムス関係の本が溢《あふ》れんばかりに並んでいたんですけどね。今じゃ影も形もありません」
郁馬はそう言って苦笑した。
「でも、あなたが沢地逸子のファンだとは知らなかったな。この人、フェミニズム活動で有名な怖い女学者でしょ? テレビとかで男の共演者によく噛《か》み付いてる」
郁馬が幾分おどけるように言った。
「別にわたしは沢地逸子のファンでもなんでもないわ。フェミニズムとかにも大して興味はないし」
「あれ。だったら、どうして、この本をついでに買ってきてくれなんて僕に頼んだんですか?」
郁馬は不思議そうな顔をした。
「新聞の広告欄で見て、なんとなく興味が引かれたのよ。なんでも、この著者が自分のサイトのコラムと掲示板の内容を一冊の本にまとめたものだとか。どういうものかなって思って。それと、『太母神』というタイトルがね……」
「タイトル?」
「ええ。自分が母親になったせいか、『母』という言葉に最近妙に反応してしまうのよ、わたし」
日美香は、臨月を迎えた大きな腹を片手でさすりながら微《かす》かに笑った。
それにもう一つ。
この本の版元が泉書房という出版社であったことも、日美香の注意を引いた要因の一つだった。
確か、この中堅どころの出版社は、あの喜屋武蛍子が編集者として勤めていた会社のはずだった。
この本の編集を彼女が受け持ったかどうかまでは分からなかったが、本の出版に火呂の叔母がかかわっていたかもしれないと思うと、何か縁のようなものを感じずにはいられなかった。
「……さっきね、うたた寝している間に夢を見たのよ」
沢地の本を小テーブルの上に置きながら、日美香はふと言った。
「どんな夢です?」
「とても良い夢」
「どんな?」
「この子が無事に産まれる夢。すっごく大きな産声をあげて。この日を待ちかねていたとでもいうように」
「へえ」
「あれはきっと正夢だと思うわ……」
日美香はほほ笑みながらそう言うと、郁馬の腕につかまりながら、ゆっくりと長椅子から立ち上がった。