冬枯れの霜あとのため、|火傷《やけど》のようにささくれだった庭をぼんやり眺めていると、青草の萌え出した黒い地面を這うようにひとひらの牡丹雪めいたものが舞っている。
よく見ると、その頼りなげな一片の白いものは蝶々だった。冬日和よりはいくらかましな日だまりを追いかける蝶々をはじめは幻かと思ったが、それは、まごうことなしの紋白蝶である。
「へえー、もう蝶々が……」
それにしても早すぎる。前年の患いで、例年になく冬の寒さが身に滲みて、家人から笑われるぐらいに着ぶくれているから、春の訪れをちっとも肌に感じない。それどころか、庭先に立つだけで足もとからふきあげる寒さに|寒《さむ》|子《こ》が立ってくる。だから、|蕗《ふき》の|薹《とう》も摘むことなしに如月も過ぎて春を迎えての紋白蝶の舞い降りには|酷《ひど》く戸惑ってしまう。
おれも齢だな……。
持病の喘息の治療に、九州の柳川に行った。その折、川下りをする遊山客が炬燵に足を入れて寒そうにかがんでいる姿を見て、物好きなと笑ったが、傍から見たら己の姿もそんなさまに見えるだろう。
柳川は好きな町だ、一番いいのは春だ。まだ、泥臭い川の匂いもなく春草や柳の新芽がさわやかである。旧藩主立花家が経営する「御花」まで舟で下り、|沖端《おきのはた》の北原白秋の生家を訪れるとよい。道路ひとつへだてた島田屋で旨い蒲ぼこを売っている。また、「御花」の近くには、名物の鰻のセイロ蒸し[#「セイロ蒸し」に傍点]の若松屋と本吉屋がある。もちろん「御花」にもあるが、ここではお庭を見物しながら鴨を喰べるといい。仙台の松島湾を|模《も》した庭には有明から飛んで来た鴨が無数羽を休めている。
殿さま|曰《のたまわ》く「当家の鴨は、庭でとったものではございません。有明の海で撃ったものでございます」。ハテ、鴨の何処が違うのだろう。
ついでのことを言えば、鰻飯は、若松屋が甘口で本吉屋は辛口である。と申しても醤油が違うから私にはどちらも甘く思われる。
有明の海では摩訶不思議な魚や貝類が沢山獲れる。その代表はムツゴロウ、器量は悪いが味のある魚だ。他にシャッパ(シャコ)、ガネ(蟹)、|口《くつ》|底《そこ》(シタビラメの一種)、アゲマキ、メカジャ(貝)と他の土地ではお目にかかれない魚介がうじゃうじゃといる。
とっておきをひとつ。それは、ワケ(イソギンチャク)だ。魚屋の金だらい[#「金だらい」に傍点]のなかでうごめいているのを見て、私もはじめはナマコだと思った。それにしては様子がオカしいので主人に聞くとイソギンチャクで、味噌汁や味噌煮にして食べる。土地の若者に聞くとあまり旨いものでないという。しかし、私は敢えて「ワケ」に挑戦してみた。三百円ほども買うと、生きたイソギンチャクを三〇個ほどもポリ袋に入れてくれた。私は、それを福岡に持ち帰り、RKBテレビの友人に頼んで、彼の行きつけの酒場で調理した。
まず、本体をふたつに切り、なかの臓物をキレイに洗う。これを丁寧にやらないと泥臭い。臓物を洗い落としたら、うす塩の湯を煮立てて、そのなかでサッと湯洗いしてからすぐに冷水に取りふり洗いをして水気を切っておく。鍋に酒半カップを煮たててから水をその半分ほども入れる。そこへ、土生姜のスライスを親指の半分ばかりほうり込む。そして、味噌適量に醤油を大さじ一杯ほど入れて沸いてきたら「ワケ」を投げ込んでやる。落としぶたで、ものの五分ほども中火で煮ればできあがり。好みで長ねぎ一本ほどザクに切って入れてもよい。はじめのうちは仔牛の脳味噌に似た味の柔らかさで、も少し煮つめるとコリコリした「ワケ」の味噌煮ができあがる。柳川の若者は軽ベツするが、決して不味いものではない。大人の味である。おもしろいことに、博多ッ子には「ワケ」の味を知っている人が、全くと言っていいほどいなかった。ということは、小説家の檀一雄さんの言い分ではないが、「ワケ」こそ純沖端料理と言えるのかもしれない。口底は、東京に持ち帰って、ムニエルと辛目の醤油煮にしてみた。ムニエルは、ドーヴァー・ソールのムニエルよりコクがあり、醤油煮は煮こごりが旨かった。
メカジャは、もやしのような吸管をバター炒めにしたら、これもイケた。
春の磯の香りを充分すぎるほど味わえる有明海の魚介料理は、|何《ど》|処《こ》にでもあるものではない。
春とは言いながら、この月の気候は気まぐれ、|四《わ》|月《た》|朔《ぬ》|日《き》がきたかと思えば気まぐれな大雪を降らしたりする。